重慶大爆撃
重慶大爆撃被害者の謝罪と賠償を求める闘い
 

はじめに 〜「重慶大爆撃とは?」  

 重慶大爆撃は、1938年から1943年までの5年半に及んでいる。日本軍が重慶の一般住民の殺戮を意図的に狙った残虐な無差別爆撃である。日本は、1937年7月の廬溝橋事件で中国への全面的な侵略戦争を開始したが、これ以降日本軍機は上海、南京をはじめとする中国のほとんどの主要都市を爆撃した。
 重慶大爆撃が最も激しかったのは1939年から41年までの3年間であった。1939年の「五・三、五・四」、1940年の「101号作戦」、1941年の「102号作戦」・「六・五大隧道惨案」とそれぞれ呼ばれている爆撃では、重慶は甚大な被害を出した。最近の資料では、この5年半の爆撃による死傷者は6万1300人、うち死者2万3600人、負傷者3万7700人とされる。重慶大爆撃は、日本の侵略戦争に徹底抗戦する中国の政府・民衆の戦意喪失と侵略への屈服を狙った最大規模の無差別・戦略爆撃であり明白な戦争犯罪であった。





4月13日(火)、押上にある東京大空襲原告団事務所にて交流会を行いました。


  
約2時間にわたり、重慶爆撃と東京空襲について意見交換をしました。




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午後5時、弁護士会館5階508ABCにて裁判報告集会を行いました。



    
            重慶の原告楊昌華さん                        弁護団長小野坂弘弁護士

    
         大阪空襲で家族を亡くした松井さん                      東京大空襲原告団の城森さん

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午後3時半、東京地裁103号法廷にて重慶の原告楊昌華さんが意見陳述をしました。

午後4時40分、原告と弁護士、支援者等約30人は、
日比谷公園霞門を出発し、虎ノ門交差点、日比谷公園までを約30分かけてデモ行進をしました。



   
             重慶の原告楊昌華さん                               楊昌華さんと王選さん(右) 

  
大雨の中、虎ノ門交差点付近をデモ行進する原告と支援者ら
  

   
悪天候の中、日比谷公園霞門から虎ノ門交差点を経由して日比谷公園西幸門までをデモ行進しました。

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午後2時より、裁判所2階司法記者クラブ会見場にて
重慶の原告楊昌華さんが爆撃被害や亡くなった親族について訴えました。


  
重慶の原告楊昌華さん(中央)の記者会見の様子




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2010年4月12日(月)、第13回重慶大爆撃裁判が開かれました!

大雨と強風の中、朝9時半から午後2時まで東京地方裁判所前で
裁判の支援と傍聴を呼びかける宣伝活動を行いました。

今回は重慶の原告であり、現在台湾在住の楊昌華さんが来日しました。


    
雨の中、裁判所前で傍聴呼びかけのチラシを配りました。



    
正午、重慶の原告楊昌華さんが東京地裁前で爆撃により自らも負傷し家族を亡くしたこと等を訴えました。

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