Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

色絵 草花文 小皿

2023年11月16日 16時07分58秒 | その他の古陶磁

 今回は、「色絵 草花文 小皿」の紹介です。

 先日(11月11日)紹介しました「呉須手 草花文 花生」は、昭和60年に(今から38年前に)、或る地方都市の古美術店で手に入れたわけですが、この小皿は、その2週間ほど後に、「呉須手 草花文 花生」を手に入れた地方都市とは異なる地方都市の古美術店で手に入れたものです。

 なお、この小皿は、ご覧のように、長い間土中していたものが発掘されたかのように、或いは長い間海中にあったものが引揚げられたかのように、全体がカセています。釉薬までがカセています。

 先日(11月11日)紹介しました「呉須手 草花文 花生」の場合は、釉薬まではカセていませんから、どうやら、表面を化学薬品で処理をして古色を出すような工作が施されたように思えるわけですね。

 そのように、先日(11月11日)紹介しました「呉須手 草花文 花生」とこの小皿とを対比してみますと、同じカセどうしではあっても、前者は偽物で後者は本物ということになりますね。ただ、後者は、発掘品か或いは海揚がり品ということにはなりますが、、、。

 当時、私は、発掘品とか海揚がり品とか、化学楽品による古色の創出などに興味を抱いていたようで、古陶磁の勉強のために、「呉須手 草花文 花生」とこの小皿とを相次いで手に入れたようです。

 ということで、古陶磁勉強の教材として手にれた、この「色絵 草花文 小皿」というものは、次のようなものです。

 

 

色絵 草花文 小皿

 

表面

釉薬も含め、全体がカセています。

文様は、黒で輪郭線を描き、その中を緑釉で塗り埋めています。

口縁の一部(左上方)が、内側に垂れ下がっています。

 

 

 

口縁の一部が内側に垂れ下がった状態の拡大

 

 

 

表面中心部分の拡大

 

 

側面

 

 

 

裏面

釉薬も含め、全体がカセています。

文様は、黒で輪郭線を描き、その中を緑釉で塗り埋めています。

 

 

高台部分の一部の拡大(その1)

 

 

高台部分の一部の拡大(その2)

 

 

生 産 地 : 中国(詳細地名は不明)

製作年代: 中国・明初(?)

サ イ ズ : 口径 12.9cm  高さ 3.3cm  底径 7.3cm


呉須手 草花文 花生

2023年11月11日 08時09分10秒 | その他の古陶磁

 今回は、「呉須手 草花文 花生」の紹介です。

 これも、古陶磁勉強のための教材の意味で、昭和60年に(今から38年前に)、地方都市の古美術店で手に入れたものです。

 このような、昔々、まだ若かりし頃に手に入れた物を久しぶりに眺めますと、当時、一生懸命に勉強していたことが思い出され、懐かしさがこみあげてきます(^_^)

 とはいいましても、その後、この物についてさほど勉強することもなく過ぎてきていますので、私としては、この物の素性については良く分らないというのが実態です(~_~;)

 そのようなことで、この物についての生産地や製作年代につきましては、私の独善的な見解です。したがいまして、この記事を読まれまして、「それはちょっと違うのではないかな~ 」などとのご意見は大いに歓迎するところです(^-^*) コメント大歓迎です(^-^*)

 

 前置きが長くなりました。それでは、次に、「呉須手 草花文 花生」を紹介いたします。

 なお、ご覧のように、長い間土中していたものを発掘したものなのか、或いは長い間海中にあったものの海揚がり品なのかのように、全体がカセッタような色合いになっていますが、表面にちゃんと釉薬も残っているようですから、そうではないようです。当初から、そのような色合いのように作られたもののようです。

 

 

呉須手 草花文 花生

 

正面(仮定)

 

 

 

正面から右に90度回転させた面

 

 

 

正面の裏側面

 

 

 

正面から左に90度回転させた面

 

 

 

斜め上方から見た面

 

 

 

高台部分

呉須手に特徴的な砂高台です。

 

 

 

底面

呉須手に特徴的な砂高台です。

 

 

<オマケ>

 上の写真からですと、頭デッカチに見え、少々、バランスが悪く見えますが、実際は、頭部はもう少し小さく作られています。

 それで、ちょっとカメラを離し、頭部がもう少し小さく見える位置から写真を撮ってみたものが次の写真です。

 

 

 

 

生 産 地 : 中国南部 中国南部の福建省辺り

製作年代: 中国・明末 不明

サ イ ズ : 口径6.5cm 最大胴径10.0cm 高台径6.4cm 高さ21.5cm

 

 

 


追 記(令和5年11月12日)

 この「花生」を紹介してから、何人かの方から、貴重なコメントをいただきました(^_^)

 それらのコメントを総合しますと、これは、中国南部の福建省辺りで最近作られた物に、フッ化水素で時代付けをしたものということになるようです。

 したがいまして、生産地の「中国南部」を「中国南部の福建省辺り」に、「製作年代」の「中国・明末」を「不明」に変更いたします。

 コメントをお寄せいただいた方々に御礼申し上げます。ありがとうございました(^-^*)


鉢物の移動

2023年11月10日 12時50分08秒 | その他の日記

 今日は、我が家では毎年恒例となっている鉢物の移動を行いました。

 鉢物の移動は、毎年2回行っています。1回目は春で、越冬を終えた鉢物を2階の部屋から庭に戻します。2回目は秋で、越冬のために、庭に置いてある鉢物を2階の部屋に運び上げます。

 今日は、そのうちの2回目の移動を行ったわけですね。つまり、越冬のために、庭に置いてある鉢物を2階の部屋に運び上げる作業をしたわけです。

 加齢とともに、この作業も、だんだんと厳しく感じてきてはいるのですが、「まっ、この作業が出来るうちはまだ元気な証拠なのだろう」と考え、毎回、何の工夫も凝らさず、人海戦術というか、鉢物を1~2個抱えては階段を上がり下りして作業をしています(~_~;)

 でも、昨年、2階に運び上げた鉢物は35鉢ありましたが、今日、運び上げた鉢物は31鉢でしたので、少し減っていましたので、昨年よりは、若干、楽でした(^-^*)


無双の花

2023年11月01日 13時34分09秒 | 読書

 「無双の花」(葉室 麟著 文藝春秋 2012年1月15日第1刷発行)を読みました。

 

 

 

 内容は、筑後柳川城主立花宗茂に関する物語でした。その概要は、次のとおりです。

 宗茂は、関ヶ原の戦いのおりには、京極高次が守る大津城の攻防戦に手間取ったため、結局は、関ヶ原の戦いでの決戦に間に合わず、戦わずして敗軍側の将の一人となってしまいました。

 関ヶ原での敗報を聞いた宗茂は、急きょ大坂に引き揚げ、大坂城で籠城して東軍を迎え討つことを西軍の総大将の毛利輝元に進言しますが、決断が得られませんでした。

 憤った宗茂は、大坂から船で九州の自城の筑後柳川城に戻ってしまいます。

 しかし、筑後柳川城に戻ったものの、九州では、豊前の黒田如水と肥後の加藤清正が、既に徳川側につくと旗幟を鮮明にしていましたから、間もなく、柳川城は、黒田如水軍と加藤清正軍によって囲まれるのは必定でした。そこに、急きょ、肥前の鍋島直茂が、息子の勝茂が西軍に属していたのにもかかわらず、柳川城に攻め寄せてきました。裏切りですね。

 結局、柳川城は、黒田、加藤、鍋島の大軍に囲まれてしまい、宗茂は降伏し、柳川城を明け渡します。

 柳川城を去った宗茂は、加藤清正から千人扶持を与えられ、家臣の大部分も加藤清正に預かってもらい、何不自由のない生活を送っていました。

 しかし、宗茂は、豊臣秀吉からことのほか可愛がられ、柳川13万2千石の領地を与えられて大名となり、小田原攻めの際には、秀吉から、諸大名の前で、「東国にては本多忠勝、西国にては立花宗茂、ともに無双の者である」と褒め称えられているところです。また、その後も、朝鮮出兵の折りにも、「西国無双」の名に恥じない活躍を示してきたところです。

 そうした過去の栄光が忘れられないのか、宗茂は、どうしても大名に復帰したく、それを徳川家康に認めてもらうため、1年後の慶長6年(1601)には、京に登ります。

 慶長8年(1603)、家康が将軍となり、江戸に居ることが多くなったことに伴い、宗茂も江戸へと向かいます。

 慶長11年(1606)、やっと、2代将軍徳川秀忠との拝謁がかない、大番頭5千石で召し抱えられます。その後、間もなく、奥州の南郷に1万石を与えられ、遂に、大名に復帰することができました。

 その4年後の慶長15年(1610)には、3万石に加増されます。

 そして、遂に、元和6年(1620)、筑後柳川11万石に再封され、柳川復帰が実現します。

 その後、島原の乱でも参陣し、乱平定後、江戸に戻った宗茂は隠居を願い出て許され、その後も江戸在府を続けて家光に近侍し、4年後の寛永19年(1642)に没します。享年76。