Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

染付 小碗

2021年05月26日 12時10分47秒 | 古伊万里

 今回は、「染付 小碗」の紹介です。

 これは、平成9年に、或る神社の境内で行われていた骨董市で買ったものです。

  買う時点では、一見、「なに、これ?」と思いました。一見しては、唐津焼なのか伊万里焼なのか分からなかったからです(~_~;) 唐津焼と初期伊万里の合いの子のようなものだったからです(~_~;)

 しかし、指ではじいてみますと、金属的な音がしたんです。しっかり磁化している証拠ですね。絵付けも鉄釉ではなく山呉須ですから、これは、伊万里焼の古い手にまちがいないだろうと思いましたので、後でゆっくり調べることにして、とりあえず、買って帰ったものです。

 その後、それを調べる資料も持ち合わせていませんでしたので、特に調べることもなく、そのままにしていましたが、平成12年に「世界をときめかした 伊万里焼」(矢部良明著 角川書店)が発行され、それを読んでいましたら、「伊万里焼を焼いた窯は、唐津焼と初期伊万里とを併焼することが多かったが、その合いの子を作ることはなかった」というような趣旨のことが書いてあるではないですか!

 そうなると、この器はどこで作られたものなのか分からなくなりますよね(><)

 しかし、私としては、陶工のなかにはヘソ曲がりがいて、このような、唐津焼と初期伊万里の合いの子のような物を作った可能性もあるのではないかと思っている次第です(~_~;)

 

 

立面

「月」のような文様は山呉須で描かれ、全体で3箇所描かれています。

 

 

見込み面

底面に見える文様のようなものは、文様ではなく、山呉須が垂れ落ちたものと思います。

 

 

底面

高台削りなど、まるで唐津焼そのものですね。

 

 

生 産 地 : 肥前・有田 or 肥前・波佐見

製作年代: 江戸時代前期  江戸時代中期

サ  イズ : 口径;9.8cm  高さ;4.3cm  底径;4.1cm

 

 

 なお、この「染付 小碗」につきましては、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で紹介しておりますので、次に、その紹介文を再度掲載し、この「染付 小碗」の紹介に代えさせていただきます。

 

 

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            <古伊万里への誘い>

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*古伊万里ギャラリー33 初期伊万里様式染付小碗      (平成14年4月10日登載)  

 

 

 一見、なに、これ?である。唐津焼かな?初期伊万里かな?と迷う。

 しかし、指ではじいてみると、金属的な音がする。しっかり磁化している。初期伊万里にまちがいないようだ。絵付けも鉄釉ではなく山呉須である。

 「古伊万里随想14 続・伊万里研究日進月歩」で記したように、創成期の伊万里磁器が唐津陶と熔着して出土したりするのであるから、唐津焼だか初期伊万里だかわからない、唐津焼と初期伊万里の合いの子のような、このような器物が存在しても不思議はないだろう。

 ところが、ところがである。学問上からはそうはならないようだ。

 「世界をときめかした 伊万里焼」(矢部良明著 角川書店 平成12年初版発行)によると「・・・・・有田の窯のなかで磁器を焼いた窯の多くは、実は唐津焼を併焼していたことも忘れることはできない。・・・・・筆者が最も驚いたことは、有田町南川原の柿右衛門窯でも、その中心は18世紀の江戸中期に属すると思われる窯跡でやはり唐津焼が焼かれていたという発掘報告であった。有田の磁器窯は唐津焼という陶器も焼造していたのであった。」(同書8ページ)とあるので、唐津焼と初期伊万里の合いの子のようなものも当然作ったであろうと思うところである。ところが、ところがである。同書では、また、「「磁器(伊万里焼)と陶器(唐津焼)とはまったく次元の違ったやきものなのだ」という強い差別意識は、陶工・商人ばかりでなく、購買層はもとより、伊万里焼を統治する藩庁ももっていたはずである。それゆえであろうか、18世紀初頭までいつも唐津焼を併焼していた伊万里焼ではあったが、唐津焼の絵付けの文様を磁器に利用したり、逆に磁器の形や図様を唐津焼で写すこともなく、陶器と磁器の二つの作風は同じ窯のなかで厳然と区別されていたのであった。」(同書15ページ)とあるのである。

 つまり、学問上は、伊万里焼を焼いた窯は、唐津焼と初期伊万里とを併焼することが多かったが、その合いの子を作ることはなかったというのだ。でも、陶工のなかには私のようなヘソ曲がりがいて、このような、唐津焼と初期伊万里の合いの子のような物を作った可能性もあるのではないかなーなどと思っている。

 江戸時代前期    口径:9.8cm  高さ:4.3cm

 

 

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*古伊万里随想14 続・伊万里研究日進月歩ー伊万里は唐津の延長ー (陶説561号;H11.12月号に掲載)      (平成14年4月10日登載) 

 

   

 伊万里の愛好家は多い。古陶磁の中で、比較的わかり易いからであろう。たしかに、タコ唐草の描き方で時代の判別ができたり、高台の厚さや作り方で初期、中期、後期の区分ができることなどから、とかくむずかしく、とっつきにくい骨董品の中にあって、なじみ易く、わかり易いからかもしれない。そういうこともあって、一昔(ひとむかし)前までは、「古陶磁の中で、伊万里が一番わかり易く、小学生でもいじれるものなんだ。」などといわれてきた。

 しかし、現時点でも、なお、そのように言えるのだろうか。確かに、一昔前までは、伊万里は伊万里、柿右衛門は柿右衛門、古九谷は古九谷であった。伊万里、柿右衛門、古九谷は、それぞれ全く関連のない別のジャンルとして研究されてきたのである。ところが、最近では、柿右衛門は、伊万里柿右衛門様式であり、古九谷は伊万里古九谷様式となって、柿右衛門、古九谷が伊万里のジャンル内に入ってきた。いきおい、伊万里を研究するには柿右衛門、古九谷も研究せざるをえなくなったわけである。伊万里の研究範囲が、がぜん広がったわけだ。更には、極く最近では鍋島も伊万里鍋島様式となり、あの我国唯一の官窯ともいうべき鍋島さえも、伊万里のジャンル入りをするに至っている。

 加えて、創成期の伊万里磁器が唐津陶と熔着して出土するに及んでは、伊万里の研究には、唐津焼さえも視野に入れざるをえなくなってきている。

 世上、陶磁器のことを、名古屋以東では「セトモノ」と言い、関西方面では「カラツモノ」と言う。また、茶陶では、「一井戸、二楽、三唐津」とか、「一楽、二萩、三唐津」などと言われる。かように唐津焼は国民的な焼物であり、かつ格調高い焼物なのだ。とても伊万里の如き小学生でもいじれるような低レベルのものではない。しかし今や伊万里の研究は、その格調高き唐津焼さえ対象とせざるをえないほどになってきたということだ。

 小木一良氏が陶説8月号(557号)の「伊万里誕生に関わる唐津と李朝、中国」の中で、「唐津陶に殆ど無関心に過ごしてきた自分の過去に、いささか後悔の念を覚えると共に、今後はこの面の勉強に努めねばならぬことを痛感している作今である。」と述べられているが、伊万里研究の流れとして、正に、そのとおりであろう。

 また同氏は、同文の中で、「・・・・・伊万里磁器の創成には唐津陶の技術と李朝陶技が基幹をなしているものの、染付技法や呉須の入手など技術開発のソフト面では中国技術が最初から重要に関係したと考えざるを得ない。」、「更に砂目積磁器作品に次ぎ、初期伊万里と言われる作品類の絵文様をみると、中国直模と言いたい文様が多く、中国との関わりの強さが伺われる。」とも述べられ、伊万里の研究には、中国陶の研究も必須であることも強調されておられる。

 ところで、最近、伊万里と中国との関係について記したユニークな書物に遭遇したので、その一部を紹介したい。その書物とは、大矢野栄次著「古伊万里と社会」(同文館出版 平成6年刊)である。著者は、久留米大学経済学部の教授であり、やきものの専門家ではないとのことである。やきものの専門家でないからこそ、やきものに関しての自由な発想ができるのかもしれない。とにかく、ユニークであり、示唆に富む内容を含んだ書物ではある。

 まず、古くは、「蒙古襲来はなかった」との大胆な発想から始まる。神風の意味については、

 「すなわち、弘安の役とは上陸して日本に帰化しようとする南宋人たちと東路軍(元・高麗軍)との戦いであり、それを助けようとする日本軍との戦いであったのではないだろうか。
 『神風』とは日本に移民に来た南宋の人々が無事に九州の地に上陸するために吹いた風だったのである。蒙古襲来は元寇ではなく南宋からの移民だったのではないだろうか。」(同書100ページ)

と推論している。そして、それを前提として、

 「元寇の意味とそのときの状況について以上のような説明が正しいとするならば、当時の九州には世界の最先端の産業や農業技術が伝わったことになるはずである。そして、それらが、日本の次の時代への変化の原動力となっていくのである。
 肥前の地には、蒙古襲来の前後に松浦党に招かれて南宋から移住して来たこれらの人々が多く住みついたのである。その中には、伊万里に伝わっている陶磁器製造の技術がある。・・・・・今日、「古伊万里」と呼ばれて珍重されている陶磁器の多くが、この元寇の時代に伊万里を中心とした肥前の地域にもたらされたと考えられるのである。」(同書139ぺーじ)

と展開していく。更に、

 二度の元寇の後、肥前の地は大陸から入植した人々と彼らがもたらした新しい技術によって大いに繁栄した。そして、松浦党の人々は南宋から移住して来た人々(江南軍)を保護し、彼らの技術力によって領内の農耕生産性は向上し陶磁器生産は大いに普及した。」(同書142ページ)

と言及し、南宋の陶磁器の製造技術が元寇の時代に肥前の地にもたらされた可能性があることを述べているのである。そして、その、元寇の時代にもたらされた陶磁器製造の技術とその後継者たちの技術が、戦国時代以後、特に、豊臣秀吉の時代以後にはどのように展開していったかについても詳しく論述しているが、その部分については紹介を省略したい。

 なお、唐津焼について留意すべきこととして、

 「豊臣秀吉による文禄の役(1592~96年)と慶長の役(1597~98)の時代に朝鮮半島からの渡来陶工による唐津やきを近世唐津やきと定義するならば、唐津やきは、この時代以前から存在するのである。鎌倉時代からあった唐津やきとこの近世唐津やきとは区別されなければならないのである。」(同書173~174ページ)

と記し、注意を喚起している。

 以上の、大矢野栄次氏の推論を前提とするならば、伊万里磁器創成の時までに、既に、肥前の地には、中国陶磁器の製造技術が普及していたわけであるから、伊万里磁器創成の時から、中国陶磁器の製造技術が大きく影響を及ぼしていたと考えても不思議はないのである。

 

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追 記(令和3年5月28日)

 この「染付小碗」をインスタグラムで紹介しましたところ、「これは、下手な江戸中期の伊万里ではないでしょうか」とか「くらわんかではないでしょうか」とのコメントが寄せられました。

 私も、この小碗の出自につきましては自信がありませんので、この小碗の生産地を「肥前・有田」から「肥前・有田 or 肥前・波佐見」に、製作年代を「江戸時代前期」から「江戸時代中期」に変更いたします。


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2 コメント

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遅生さんへ (Dr.K)
2021-05-27 10:13:16
実は、この小碗、今、よく見ますと、出自がちょっと分からないですね(~_~;)
この陶説の駄文を書くために利用したようなところがありますね(~_~;)

これをインスタグラムでも紹介しましたところ、波佐見焼の「くらわんか」ではないかとか、下手の江戸中期の伊万里焼ではないかとのコメントがありました(^_^)

この陶説の駄文の前編の「伊万里研究日進月歩」は、続編とは関係無い内容で、「伊万里 誕生と展開」(小木一良・村上伸之著)の読後感なんです。
それで、器が登場しないものですから、その前編をブログでは紹介しづらいのですが、登場させることを、ちょっと考えてみます。
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Dr.kさんへ (遅生)
2021-05-26 12:45:59
これは伊万里研究に大激震をもたらすかもしれない品ではないですか。

Drの蒐集は、もはや、世界史、日本史のスケールですね。
願わくば、類似の陶片の発掘・・・陶工が余技でたまたま作った物なら期待薄?

陶説の論文、「続・伊万里研究日進月歩ー伊万里は唐津の延長ー」とありますから、前のと併せて読みたいですね。
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