文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

『おそ松くん』のテレビアニメ放映開始と多面的な商品展開

2019-10-04 16:24:31 | 第2章

「シェー‼」の大流行の興奮も醒めやらないまま、1966年にテレビ放映が開始されるやいなや、『おそ松くん』は、突如として活発化したボルケーノの如く、真っ赤に焼け付く熔岩流をドロドロと吐き出し、その人気を大爆発させていった。

テレビ動画の(モノクロ版)「おそ松くん」(66年2月5日~67年3月25日放映)は、毎日放送をホスト局に全国17ネットでテレキャストされ、関東では31・8%、関西では34・7%(ニールセン調査による)と、初回より高視聴率を弾き出し、アニメ版もメガクラスの大ヒット番組となった。

製作は、東映動画のアニメーター養成機関を前身とするチルドレンズ・コーナーが担当していたほか、当時、赤塚が資本家として干与していたスタジオ・ゼロが参加していたこともあり、多忙な本業を抱えながら、赤塚も自ら、原画のチェックやリライトを施し、また、製作現場での様々な打ち合わせに顔を出して、動画の監修までこなすなど、事実上、アニメ版『おそ松くん』の総指揮を務めた回も少なくなかった。

番組の大ヒットに伴い、『おそ松くん』もまた、他の人気アニメ番組と同様、マーチャンダイズ・ビジネスを展開。玩具、ソノシート、食品菓子、衣料用品、文房具等、『おそ松くん』のキャラクターをあしらった様々な関連グッズが続々と生産、販売され、日本中のスーパーマーケットやデパートの店頭を賑わすこととなる。

中でも、『おそ松』ブームを象徴するドル箱商品となったのが、丸美屋の『おそ松くんふりかけ』と東京渡辺製菓の『コビト・おそ松くんチョコレート』であろう。

特に、『コビト・おそ松くんチョコレート』は、包装紙がそのままコレクターズアイテムとなるデザインセンスの秀逸さもさることながら、応募券を集めて当てる、赤塚直筆のサイン色紙や『おそ松くん』のパズル、ペナント、そして、総天然色で『おそ松くん』のフィルムが写し出されるシネコルトなる拳銃式の映写機など、充実度の高いプライズアイテムもまた、カスタマーの購買欲を煽るセールスポイントとなり、工場の製造機を倍に設置しても、売り切れとなる店が続出したという伝説を残している。


父性の象徴 デカパン ピーターパン・シンドロームの極致 ダヨーン

2019-10-04 00:12:43 | 第2章

デカパンは、大きな縦縞のトランクス一丁という奇抜な風貌ながらも、社会規範を重んじるモラリストであり、企業の社長や学校長、医者や科学者といった社会的に権威の高い役回りが多い。

温厚さの中にも威厳を備えた鷹揚な佇まい、その懐の深い篤実な性格から、『おそ松』ワールドの父性の象徴として例えられる存在だ。

デカパンのモデルは、当時、「週刊少年サンデー」の編集長だった堧水尾道雄だが、トレードマークの縦縞のパンツから、傘やライターなどの日用品から食品、延いては犬や猫などのペットといったバラエティーに富んだアイテムをことあるごとに取り出すギャグは、1920年代から30年代に『けだもの組合』や『いんちき商売』、『マルクス兄弟の二挺拳銃』等のスラップスティック喜劇で一世を風靡したアメリカの人気コメディー・カルテット、マルクス兄弟からインスパイアされたものだ。

マルクス兄弟の中でも、取り分け人気の高かったハーポが、コートに隠し持った様々な品物を瞬時に取り出すナンセンスなイメージをそのまま引用したという。

『おそ松』ファミリー最後の人気スターであるダヨーンは、警察官、泥棒、漫画家、教師、商店主等、多岐広汎に渡る役柄を演じ切るおそ松ファミリー随一のオールラウンドプレーヤーであるものの、緊張感に欠けた垂れ目や緩み切った開けっ放しの口元、そして、語尾に「だよーん」を付ける幼児口調が、現実のまま怠慢さを想起させるように、その人物像は、食い意地が張り、目先の快楽を優先して職務放棄してしまう、幾分自己抑制力や大人としての道義的責任感が欠落した性質を帯びている。

年齢に相応しい精神の発達を遂げていない、俗に言うピーターパンシンドロームの極致とも言うべきキャラクターだ。

ダヨーンのモデルとなったのは、つのだじろうの実弟で、日本有数のリュート奏者として名高い角田隆である。

彼は、ガラス板を持って、大口を開け、息を吹き掛けると、頬が膨らんでユニークな顔になるという不思議な特技を持っていた。

ダヨーンの無限に膨張する大きな口は、彼のそんな珍芸を元にして生まれたものだ。

因みに、藤子不二雄Ⓐの人気漫画『フータくん』に登場するテツカブもまた、彼をモチーフにして作られたキャラクターだ。

このように、『おそ松くん』のほぼ執筆パートナーと言っても差し支えないであろう高井は、その後、自身も大人向けナンセンス漫画の中堅気鋭として活躍する傍ら、フリーの作画スタッフ(チーフ)として、1968年秋頃までフジオ・プロ(詳細は後述)に在籍。その後も、ココロのボスやレレレのおじさんの原型を模るなど、特にキャラクター作りと作画面において、そのタレントを遺憾なく発揮し、第一期赤塚不二夫黄金時代を支えた。

高井の遊び心溢れるデザインセンスに大きな示唆を受けた赤塚は、その鮮やかなシュール感覚を旺盛な胃袋で薬籠中物として消化し、そこに更なる土着の色を混じえることで、『天才バカボン』以降のあらゆるキャラクターデザインを実質一人で施すようになり、バカボンのパパ、ニャロメ、ケムンパス、べし、ベラマッチャ、ウナギイヌ等、より過激で、斬新な赤塚ギャグのスター達を無尽蔵に作り出してゆく。

強烈なバイプレイヤー達の培養で、その作品世界に俄然弾みを付けた『おそ松くん』は、それらのキャラクターに、明確な性格が振り当てられ、やがて主人公である六つ子の存在感が薄らいでくるようになる。

激しい個性がぶつかり合うこれらバイプレイヤーによる共振作用が、ドラマをより一層活性化させ、『おそ松』ワールドは異常なボルテージと伸張力に包まれたバラエティー色濃厚な世界構造を確保するに至ったのだ。