文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

『バカボン』最初のアニメ化と「週刊少年マガジン」での再連載

2020-06-22 20:09:28 | 第4章

だが、翌1971年、『バカボン』の第一弾目のテレビアニメ化の企画が、当時数々のヒット番組を手掛け、飛ぶ鳥落とす勢いで規模を拡張していたアニメ製作会社・東京ムービーより立ち上がり、日本テレビ系列での放映が決定する。

赤塚は、このアニメ化企画を手土産に講談社の重役に陳謝し、『バカボン』は「週刊少年マガジン」の兄弟誌である「週刊ぼくらマガジン」で再開される。

しかし、四回掲載した後、雑誌が休刊。その後、ワンクッションを置いて、掲載誌を『タイガーマスク』(原作・梶原一騎/作画・辻なおき)や『仮面ライダー』(石ノ森章太郎)といった「週刊ぼくらマガジン」の看板タイトルとともに、ホームグラウンド「週刊少年マガジン」へと切り替え、前述の通り再連載される運びとなった。

古巣に返り咲いた『バカボン』は、バカボン一家を中心としたファミリー向けの日常的笑いは影を潜め、ブロークンギャグとも言うべき狂気と破壊性を高騰させた超ナンセンス漫画へと覚醒を遂げる。

そして、「マガジン」本誌では、途中休載を挟みつつも、1976年49号まで、再び「マガジン」人気を牽引する強力連載の一本として足掛け五年に渡って掲載された。

更に、74年8月号から78年12月号に掛けては、「別冊少年マガジン」(75年6月号より「月刊少年マガジン」と改題)にもレギュラー連載され、同誌のイメージリーダーとなるなど、まさに『バカボン』は、70年代の「マガジン」ブランドをシンボライズする名タイトルとして、各講談社系少年漫画誌をクロスオーバーし、赤塚ギャグ最大級のホームランにして、最長連載記録を樹立するに至った。

『バカボン』関連の事柄で、やはり特記すべきは、完全版や傑作選など、数多の数ほど刊行されたコミックスの存在である。

版元である講談社KCコミックスやアケボノコミックス、竹書房漫画文庫等、この約半世紀で、様々に判型を変えて出版された二〇〇点余りにも及ぶ各シリーズの単行本の発行部数は、累計一二〇〇万部以上を誇り、セールス面においても、赤塚漫画随一のロングランヒットとなる。

また、移籍によるトラブルから、急遽講談社児童まんが賞の受賞を取り消される悲運に見舞われたものの、1972年には、この時同時連載中であった『レッツラゴン』とともに、児童漫画家としては初の快挙となる文藝春秋漫画賞受賞の対象作品となり、『バカボン』特有の反秩序反理性の発想原理を基盤としたギャグのダイナミズムは、アフォリズムの次元へと転位して余りある鋭峰なカリカチュールとして、あらゆる世代より圧倒的評価を獲得するまでに至った。

テレビアニメにおいても、第一作目に当たる『天才バカボン』放送終了後以降も、『元祖天才バカボン』、『平成天才バカボン』、『レレレの天才バカボン』と、赤塚存命中においても計四度に渡ってシリーズ放映され、その都度アニメ企画に連動する形で、児童誌を中心に複数本の新作が断続的に新連載、もしくは旧作が再掲載された。

また、様々な企業のイメージキャラクターとして、広告やテレビCMに幾度となく登場するなど、『天才バカボン』は、名実ともに赤塚漫画の代名詞となった。


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