仙台ドクタークラブ(2004~2008)

仙台市医師会野球部ホームページ
(広報部編集)
2004~2008年の活動の記録

総集編 2003年 盛岡市医師会戦 

2009-04-15 | Weblog
平成15年 盛岡市医師会戦

とき  平成15年8月3日(日)
ところ 盛岡市立松園中学校グランド

 8月2日(土)午後3時、ドクタークラブの精鋭11名を乗せたバスは盛岡を目指して出発した。対盛岡市医師会親善野球定期戦は今回が30回目。過去仙台の14勝12敗(3試合雨天中止)、最近は仙台の3連勝である。昨年までは10月に行われていたが今回は8月に計画された。10月の盛岡は肌寒いということもあるが、「盛岡さんさ踊り」を楽しんでもらいたいという盛岡市医師会の厚意でもあった。

 6時過ぎにホテルに到着した一行は、近くの店で南部料理と地酒「七福神」を堪能した後、さんさ踊りの鑑賞に出かけた。ホテルでもらったパンフレットには「東北五大夏祭りは、8月1日~3日に行われる盛岡の夜を彩る盛岡さんさ踊りで華やかに幕が開きます。もともと藩政時代、盛岡城下に現れた悪鬼の退散を喜んだ人々が、さんささんさ、といって踊ったのが、この祭の始まりと言われています。その後、鬼も来なくなったので、このあたりを不来方(こずかた)と呼ぶようになり、岩手の地名も、鬼が岩におした手形からおこったと伝えられています。さんさ踊りは、昭和53年にそれまで地域ごとに伝わっていた振り付けを統一し盛岡さんさ踊りとしてスタートしました。参加者は130団体、3万人にものぼり、その数日本一の5000個の太鼓が、メーンストリートを群舞し、ダイナミックな音とリズムが市内に鳴り響きます。パレードのほかに、県下さんさ踊りの競演会や、観客も自由に参加できる輪踊りも、賑やかに繰りひろげられます。」と書かれている。仙台では「東北三大祭」、山形では「四大祭」と呼ぶが、「五大祭」は初耳であった。祭は数の多いほうが景気がよくてよい。若い踊り手の熱気と力強い太鼓はそぞろ歩くわれわれを完全に圧倒した。

しばしの旅情に浸った後、全員で2次会に繰り出した。遠雷のような太鼓のリズムをバックに、佐竹総監督の「昴」と猪股宴会部長の「津軽平野」の熱唱が始まり、短い夏の夜はいよいよ更けて行った。

 翌8月3日は気温25度。曇り空だったが、梅雨明け直前の蒸し暑さの中での試合となった。当日集結した4名を加えて仙台の選手は15名。対して地元盛岡の選手はわずかに10名であった。思えばこの人数に盛岡チームの抱える問題が露呈していたのである。

 佐藤徳郎監督の檄の後、11時に始まった試合は、仙台松井、盛岡矢島の両投手の好投とバックの好守により息詰まる熱戦となった。盛岡は追い込まれた後の松井のスライダーを警戒して早打ちに出たが、既に見抜いた松井はストライクゾーンから逃げて行くムービング・スローボールを老獪に操り、ついに連打を許さなかった。一方の矢島は重い速球とシュート、さらに鋭いスライダーをコーナーに決め、仙台の誇るクリーンアップを力で抑えこんだ。しかし勝利への執念に勝る仙台は、ヒットで出た少ない走者を盗塁で三進させた後、ゆるい内野ゴロを打って生還させる戦術で3点を挙げ、これを堅守で守り切った。

 結局失策は仙台0、盛岡1、与四球は仙台の2、盛岡の0、試合時間1時間40分とテンポの良い締まった試合になった。総勢10名の盛岡チームは途中1人がリタイヤし、背水の陣となったが、それ以上のけが人が出なかったのは幸いであった。
 今回の勝利で通算成績は仙台の15勝12敗となった。試合後盛岡チームから、選手の高齢化と若手の入会減でチーム編成に窮しており、しばらく選手の募集育成期間を設けたい旨の申し出があった。従って来年度以降の定期戦開催は極めて微妙な情勢にある。

 国民年金センターもりおかで行われた懇親会は内山名誉会員の出席もあり、盛会となった。仙台の表彰選手は勝利監督賞 佐藤(徳)、優秀選手賞 猪岡・浅沼、特別賞 内山、敢闘賞 伊藤、打撃賞 菊地(達)、打点賞 板垣・宮地、守備賞 綿谷であった。

 芸達者揃いの盛岡医師会は、及川先生が巷談(?)「宮本武蔵」を、鳴海・上原両先生が「時代」のデュエットを披露して座は一気に盛り上がった。応えて仙台は宴会部長猪股・同副部長浅沼が「武田節」を朗々と謳い上げ、やんやの喝采を浴び、懇親会は幕となった。名残は尽きなかったが盛岡の先生方に見送られ一同は会場を後にした。 帰路主将佐藤(韶)の発案で、バスは「ぴょんぴょん舎」に臨時停車。最後に全員で盛岡冷麺を楽しんだ後、今度こそ一路仙台を目指したのであった。


得点経過
     1 2 3 4 5 6 7  計
 仙台  1 0 0 0 0 2 0  3
 盛岡  0 0 0 0 0 0 0  0










総集編 2004年 国保連戦

2009-04-15 | Weblog
 ドクタークラブ便り

 国保連戦

  とき 平成16年4月24日(土) 
  ところ ウェルサンピアみやぎ泉

 桜前線は仙台を通り過ぎ、すでに弘前にあったが、ドクター・クラブの野球小僧たちには今日本当の春が来たのである。

試合前のベンチには、冬の間の腹囲増大でベルトの穴を新しくしているもの、グローブの黴を落としている者、スキップしている者がいる。開幕戦ならではの光景である。空は晴れているが、4月下旬にしては冷たい西の強風が吹きつけている。気温は9℃。昨日までの暖かさが嘘のようである。この気象条件ははたしてどちらのチームに味方するのであろうか。

 相手は国保連合会。去年の初戦で大敗した記憶が蘇える。昭和56年から始まったこの対戦は一昨年までド・クの11勝3敗。しかもド・クが10連勝していたが、国保連は昨年から若手を登用、平均年齢が40代前半に下がり、ほとんど別のチームに変身したのである。

 土曜の午後ということで、ド・クは試合開始に間に合わないメンバーがいた。たまたま球場で宮城県立こども病院の医師達が練習していたので、国保連の承諾を得た上で、補強要員として入ってもらうことになった。

 先攻は国保連。初回ド・クの主戦、松井の注目の第1球はストライク。今年も肩に衰えはないようだ。2死3塁の場面で4番村井を迎えた。初球空振りの後、松井の投じた2球目、魔球ムービング・スローボールを村井はすくい上げるように強振した。高々と上がった飛球は平凡な左飛と思われたが、一旦捕球体勢に入った左翼の阿部(精)が後ずさりして行くではないか。飛球は、折から強度を増した西風に乗り、なんと90mの柵を越え、芝生席に弾んだのである。先制のツーランホームラン。あまりの飛距離にド・クのメンバーは度肝を抜かれた。

 そのショックが癒えぬ2回表は、松井には酷なイニングとなった。この回の被安打は1であったが、鉄壁のはずの守備陣に失策が4つ飛び出し、3点を奪われたのである。どれも1塁への送球がやや横に逸れ、1塁手の足がベースから離れたというものである。ド・クは試合以外の練習はしないのが伝統であり、微妙な連携とか送球のコントロールは試合の中で調整して行くのである。今年はこの回がその調整イニングとなってしまった。3回以降は鉄壁の守備が復活し、失策は0であった。

 一方国保連の先発窪田は、涙の特訓で積年のノーコンを返上。昨年11年振りに国保連に1勝をもたらした苦節のサウスポーである。球種は直球とカーブだけだが、アウトローへの絶妙の制球を身に付け、ノースリーからでも3つストライクを取れるようになった。彼は特訓内容を決して明らかにすることをしない。この窪田の前にド・クは1,2回はショートゴロエラーの走者を出しただけでノーヒットノーランの雰囲気さえ漂った。重苦しさの中、3回裏のトップバッターは8番猪股。2球目を狙いすました打球はライト前への弾丸ライナーとなった。こうした状況では、初安打はえてして思いがけないところから生まれるものである。しかしノーヒットノーランを免れた安堵感からか、後続がなく、得点には結びつかなかった。

 5回の表を終わって0対7と一方的な試合と思われたが、5回の裏ついにド・クが反撃が始まった。疲れの見えた窪田から四死球と盗塁で無死2,3塁のチャンスをつくり、ここでこども病院の卜部がセンター前にはじき返して2点を返した。3進した卜部も次打者の1塁ゴロの間に生還して3点目をあげた。(記録はフィルダース・チョイスで打点は付かない。女子スコアラーの査定は厳しいのである。)

 最終回にも1点を追加した国保連は5点をリードし楽々逃げ切るかと思われた。しかし投手交代は難しいものである。窪田からスイッチされた及川は、先頭の綿谷がセカンドゴロ失で出塁すると動揺し、氏家にストレートの四球を与えた。1死2,3塁になったところでこども病院阿部にレフト線2塁打が飛び出し2者が生還した。さらに佐藤(韶)が四球を選ぶと、もはや国保連には数分前までの余裕はなかった。あわてて3人目の深町をマウンドに送る。鬼の形相で投げる深町は次打者をなんとか三振に取り、2死1,2塁。ここで打順は願ってもない強打者、板垣。ランニングホームランで同点・・・とは誰もが期待したシナリオであろう。そして板垣が 2-1からの4球目を振り抜いた打球は、糸を引いてセンター頭上を襲った。抜ければ同点・・・と思われたが、ボールはセンターが必死で差し出したグラブに無常にも収まってしまった。ゲームセット。

 思えば5回、7回のド・クの得点は、いずれも開業医が作ったチャンスをこども病院の選手がものにしたものであった。見事な病診連携と言うしかない。また、8点を取られはしたが、4回を投げた松井の自責点は2、3回を投げた安藤のそれは0であった。

ド・クは、昨年も国保連に0対12で大敗したあと、7勝1分の輝かしい年間戦績を残したことを特記しておかねばなるまい。


                 
国保連合     2310101 8
ドクタークラブ  0000302 5


 懇親会は、新総監督佐藤(勤)の就任の挨拶で始まった。国保連のメンバー達はユニフォームを着ていると若々しく見えるが、帽子を取って平服になるとそれほどでもない、とは昨年も思ったことである。昨年は11年ぶりの勝利で懇親会は大騒ぎになったが、今年は2連勝の余裕ということもあってか、和やかな会になった。
 二次会は最終的に、新総監督、佐藤(徳)監督、松井助監督、猪股宴会部長のカラオケマイク争奪戦となり、盛り上がりは深更に及んだ。閉店時間を気にする板垣・宮地が「そろそろお開きに・・・」と言い出せる雰囲気ではなかった。店のママさんにはきっと祝勝会と映ったことであろう。この盛り上がりがあれば、新総監督が初勝利を手にする日は近い。

 この夜、気温はさらに下がり、山は銀世界になった。



 30年間の長きにわたりこの講評を担当された阿部精太郎先生に代わり、今年から私が担当を命ぜられました。まだ入部1年半で、ようやく佐竹央行先生と伊藤幸孝先生の区別が付くようになったばかりの若輩ですが、阿部先生には、「好きなように書いていいから。敬称は付けない事。ただし自分の活躍は書いてはならない。」という有難いアドバイスを頂戴しました。先輩方のご批判、ご指導を賜りながら試合の様子をお伝えできればと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。       
                (文責:宮地辰雄)







総集編 2004年 米沢市医師会戦

2009-04-15 | Weblog
とき  6月13日(日) 
 ところ 米沢市八幡原球場
天候 曇りときどき晴れ 気温24度

 ~ 先発は75歳 ~
 
               計  
  仙台 1000000   1
  米沢 017144×  17 

今年初めての遠征試合である。日曜とはいえ、多忙な医者が全員揃うことはなかなか難しい。エース松井は学会出張、板垣は先週のブロック対抗に39度の熱を押して出場したのがたたり、体調不良で欠席。去年の正捕手菊地(達)は4月から山形に赴任になっていた。結果として佐藤(徳)監督と瀬戸スコアラーを除くぎりぎりの9人で試合を行う事になり、佐藤(勤)総監督も、2年ぶり出場の白根もフル出場を余儀なくされた。本日の平均年齢は63.5歳、バスの中で先発を命じられた伊藤幸孝は、昭和3年生まれの75歳である。伊藤は直球と変化球の握りを確認しながら、左手のグラブにボールを投げ込んでいる。投げ込みはちょうど100球を数えたところで終了となった。今日の配球のシミュレーションが終了したらしい。

 一方の米沢は最近病診連携が上手く行っており、平均年齢は40歳である。昨年は息詰まる投手戦で、0対0の引き分けに終わった。120キロ台の速球を投げ込む投手篠村、捕手矢野のバッテリーはいずれも20代の勤務医である。篠村は、かつて山形東高校の野球部で投手をしていた。宮地、板垣の後輩に当たるが、先輩に手加減する気配は一向にない。

 試合開始11時15分。先攻のド・クは先頭の宮地が篠村のカーブをセンター前に弾き返して出塁。盗塁で2進後、3番浅沼のレフト前ヒットで生還。幸先良く1点を先制した。これが「スミ1」になるとは誰が予想したであろう。

ド・クの先発伊藤は1回裏を0点、2回裏を1点に抑えた。ここまで1対1。昨年同様、緊迫した試合になると思われた。伊藤は平成8年にノーヒットノーランを記録している。平成9年には全試合に登板し、9勝1敗、防御率2.68の驚異的な成績をあげ、最高殊勲選手に輝いた。しかし時は流れた。7年の歳月は伊藤から完投能力を奪っていた。3回裏、伊藤の左足を突然激痛が襲った。そのため上半身の回転が不可能になり、右打者の外角に投げることができなくなったのである。投球はすべて内角に外れる。時に打者の背中を通り、時に打者を直撃する。捕手綿谷は曲芸のようにボールに飛びつき、後に逸らさない。米沢チームから「捕手の鏡」と拍手が起きたほどである。

伊藤は5番小林に死球を与えた直後、つかつかと打者の方に歩み寄っていく。謝りに行ったのかと思えば、そうではない。今の投球はよけられたはずだ、よって死球にあらず、と主審にアピールしているらしい。何点取られてもなお次の1点を惜しむ。その背中には火の玉が見えている。まさに燃える闘魂であり、われわれ後輩が見習うべき事は多い。しかし懸命のアピールはついに主審に認められず、小林は一塁に歩いた。一塁手高橋がしきりに頭を下げている。

結局四死球を連発して走者をためたあと連続長打を浴び、3回裏は7点を失った。伊藤の与えた四死球は11を数えた。4回からは急遽、捕手綿谷が登板したが、それまであまりに四球を見すぎた反動か、球が真ん中に集まったところを米沢の若手に狙い打たれ8安打を浴びた。打球は次々とレフト阿部の頭上を越えて行った。阿部も近年これほど走ったことはなかったであろう。明日の診療が思いやられる。

 ド・クの好守備についても触れておかねばならない。2回裏、無死1塁でショートゴロを捕った佐藤(韶)がすばやく2塁ベースを踏み1塁へ矢のような送球をしてダブルプレーとした。5回裏の1死1,2塁では、サードに回っていた佐藤(韶)の前に強いゴロが飛んだ。捕球すると同時に3塁ベースを踏み、1塁に転送、再びダブルプレーとした。そもそも併殺が少ない草野球において、同一内野手が異なるポジションで2併殺を完成させるというのは珍しい記録である。

 さて6回表、伊藤に3回目の打席が回ってきた。足の痛みはどこに行ったかと思われるほど強振した打球は内野ゴロになった。しかし伊藤は一塁に走らず、またも主審に何事かをアピールしている。バットにわずかにキャッチャーミットが触れたらしい。今度はインターフェアが認められて一塁に出た。普段ならここで1球目から果敢なスタートを見せるはずだが、今日は佐藤(徳)監督から二重三重にドクターストップがかけられている。それでもなお、行くのではないか、という期待から、ナインの目は伊藤に注がれた。しかし点差を考えたか、左足痛のせいか、伊藤は自重した。盗塁の最高齢記録の更新は見られなかったのである。

結局試合はド・クが1対17で敗れた。昭和52年に始まったこの対戦は、これでド・クの15勝8敗1分、1雨天中止となった。

 懇親会は小野川温泉に場所を移して行われた。小野川に向かう道沿いにはさくらんぼがたわわに実り、ところどころにウコギの生垣が見える。他県ではほとんど知られていないが、ウコギは春の新芽を食用とする。繁殖力旺盛で救荒食物となるため、上杉鷹山公が栽培を奨励した。降圧、血糖低下作用があることが分り、最近健康食として注目されている。昭和40年代までは山形市内でも見られたが、その後消失したようである。米沢では是非保存して行ってほしいものである。

 小野川温泉はわずかに硫黄臭のするよく温まるお湯であった。懇親会では牛肉のしゃぶしゃぶが出たが、「死球をよけなかった」小林先生によると、これは「米沢の牛」であって「米沢牛」ではないのだそうである。会費の範囲で本物は無理なのであった。地酒「東光」を飲みながらの懇親会は和気あいあいのうちに終わり、来年の雪辱を誓ってド・クは小野川を後にした。

小野川温泉では、6月中旬から7月下旬まで蛍の乱舞が見られるそうである。
 帰りの車内、伊藤は、孫に1万円のさくらんぼを買った、と嬉しそうに話しながらソフトクリームを舐めている。そこにはもう先ほどまでのファイターの面影はなかった。

米沢に大敗して、1週間前のブロック対抗野球で3試合で67点取られた若林区の選手の心情が少しだけ理解できた。若林区から出場した浅沼は今日を入れると4試合で84点取られたことになる。佐藤(勤)総監督の初勝利はまたお預けとなった。









総集編 2004年 山形市医師会戦

2009-04-15 | Weblog
とき  平成16年7月11日(日) 
 ところ  山辺町町民野球場 (の予定でした。)
 天候 雨  気温 27度

「第50回記念大会」

 仙台ドクター・クラブは昭和25年に創設された。山形市医師会との記念すべき第1戦は昭和29年に行われている。現在のド・ク会員の3分の1はまだ生まれていない。今回は第50回記念大会であるため、山形市医師会では会を挙げて準備に取り組んだという。仮に当日雨天中止となっても、祝賀会・懇親会は開催するという事前連絡があった。なにやら今年は意気込みが違っている。

 当日の朝、仙台は青空であった。武者震いで集合した一行を待ち受けていたのはしかし、山形からの「試合中止」の報であった。聞けば、前夜山形はバケツをひっくり返したような大雨が降り、球場には田んぼのように水がたまっているという。それでも来形されたし、とのことで総勢17名を乗せたバスは山形を目指した。舟丁は晴れていたが、西に向かうに連れ雨脚が強くなってきた。笹谷トンネルを出るとそこは完全な梅雨空であった。

 到着した山形市医師会館で、急遽ボウリング大会に変更になる旨の発表があった。すでにダイエービルのボウリング場を確保してあるという。野球中止決定後の措置は実に迅速である。ただちに会場に移動し、和気あいあいのうちに各人2ゲームずつを行なった。佐藤(韶)が2ゲーム合計307点で、ベストスコア賞を受賞した。しかし両チーム上位9名の合計では、かなりの差で山形に軍配が上がった。ボウリング王、内山貞也が出ていないのが悔やまれた。終了後、山辺温泉に移動して汗を流した。昭和58年4月にオープンした山辺町直営の日帰り温泉である。県道18号線の三河橋の袂に位置し、泉質は含鉄の食塩泉とある。茶褐色で確かに鉄の匂いがする、よく温まる泉質であった。

 祝賀会・懇親会の会場は県都で1,2の規模を争う山形グランドホテルを用意していただいた。徳永正靭山形市医師会長、千田典男仙台市医師会長の挨拶のあと、諸先生方の想い出話が次々と出て、一同は50年の歴史に感激を新たにした。アトラクションタイムには山形よもやま会による花笠音頭が披露された。花笠踊り発症の地、尾花沢に伝承される本格的な踊りであった。8月の花笠祭には是非山形を訪れてみたいものである。

 晴れれば、親善試合に先立って30分のOB戦が予定されていた。しかしド・クでOBとは誰の事であろうか。山形の名簿には数名が確かに「OB」として登録されているが、ド・クの名簿にOBの文字はない。遠征メンバーが足りないとなれば年齢を問わない苛烈な動員がかけられ、先の米沢戦のごとく、9人しかいなければフル出場を強いられる。守備位置の好みを言える状況にもない。要するに歩行可能な者は全員が現役なのである。ド・クにしてみれば当然の事実であるが、これが山形チームにはいたく感銘を与えたらしい。山形では75歳の先発投手は未だ出現していないという。会の最後に千田会長から、来年は仙台のドーム球場を確保するので雨の心配無しに来仙されますように、との力強い宣言があった。

今回を入れて対戦成績は仙台の26勝11敗1分け、16中止となった。(昭和41、42、44年はダブルヘッダーを行なっている。)
祝賀会が終わった5時頃には山形の空は晴れ上がり、試合ができそうであった。

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 山形市医師会には、貴重な写真入りの50回記念誌を制作していただいた。昭和32年第4回大会のセピアの写真を見ると、仙台チームを山形駅頭で楽隊が迎えている。観客席は応援団で超満員である。当時はテレビもない時代で、医師会対抗の野球は市民の恰好の娯楽になったようである。

 驚くなかれ、伊藤幸孝は昭和33年の第5回大会から出場していて、今回がなんと46回目の出場になる。「初年兵」の時にもらった手書きの敢闘賞の賞状を大切に保存しているという。今回伊藤には山形市医師会より、最高齢特別賞が贈られた。

 内山貞也は「定期戦の想い出」を寄稿している。重い用具を抱えて仙山線で出かけたこと、あまりの暑さにジュース(スポーツドリンクではない)をがぶ飲みしながら試合をしたこと、宿泊した月岡旅館で蚊帳に入ってきた蚊に悩まされたことなどが書かれており、隔世の感がある。肥満体の「今井先生」、元仙台市医師会長「堀田やん」の珍芸にも言及されており、読んだ者は皆吹き出していたが、ここにご紹介するには諸般の問題がありすぎ、差し控えさせていただきたい。どうしてもお読みになりたい向きは、お近くのド・ク会員にお声をかけて下さい。
















総集編 2004年 三市医師会親善野球大会

2009-04-15 | Weblog
 
ドクタークラブ便り 

第5回三市医師会親善野球大会 

前夜祭  7月24日(土) 八戸グランドホテル
試合   7月25日(日) ひばりの公園球場(五戸町)
天候 炎天   気温 33度

 弘前市、八戸市、仙台市の三医師会が一同に会してリーグ戦を行うこの大会も今回で5回目となる。1,2回目は八戸が、3,4回目は仙台が優勝している。今年は八戸の主催である。

 プロ野球のベテラン選手でも、シーズン初ヒットが出るまでは「もう永久に打てないのではないか」と不安になるという。昨年9勝1敗1分の好成績を残した仙台ドクタークラブも、今年はここまで2連敗1中止と未勝利である。この遠征で最低1勝を挙げないと、不安は底知れぬものとなる。

<前夜祭>

 前夜祭は八戸グランドホテルで行われた。土井三乙八戸市医師会長の歓迎の挨拶があり、その中で千田仙台市医師会長への叙勲のお祝いの言葉を頂戴した。続くアトラクションでは、北国に春を呼ぶ民俗芸能「えんぶり」が披露された。

そしてお待ちかねのスピーチ合戦である。弘前の鳴海康安は、新幹線の通る仙台と八戸の選手からは文化の香りが漂ってくる、と持ち上げたあと、仙台―八戸は新幹線で1時間20分、然るに弘前―八戸は(同県内にもかかわらず)2時間半かかったと嘆いて見せた。さらに最近の世相に血が逆流しすぎて逆流性食道炎になったと言って聴衆を抱腹絶倒させた。ケーシー高峰も顔色無しである。

一方「弘前の太陽」前田慶子は肌も声も去年より艶が増した。ボディアクションもよりパワーアップしている。前広報担当の阿部精太郎は前田女史の妖気に当たり、おかげで小生に原稿書きが回って来たのである。女史は7月28日から東京での国際女医会議に出かけ、弘前にトンボ帰りしてねぶたでハネる予定、という。女史の独演会の最後に、堀田康哉・前仙台市医師会長の急逝を悼み、全員で黙祷を捧げた。

<試合経過>

 翌日午前9時半、室内にいても熱中症になるという記録的な猛暑の中、試合開始のサイレンが鳴った。

■第一試合

 八戸は無論3年ぶりの優勝を狙っている。仮にそれがかなわぬなら、いまだ美酒の味を知らず、高齢化で存亡の危機にある弘前に優勝させたいとの下心を持っている。従って仙台戦に総力を傾注し、後の弘前戦は成り行きまかせ、という基本方針である。仙台は八戸の先発長谷川の立ち上がりをとらえた。初回に佐藤(韶)のタイムリーで2点、さらに2回、綿谷の3塁打で1点を取った。しかし立ち直った長谷川から追加点が奪えない。一方、八戸は安藤の剛球と鋭いカーブのコンビネーションに手も足も出なかったが、3回2死からヒットと四球の走者を置いて、3番長谷川が左中間に2塁打を放ち2点を奪った。しかしここで同点にできなかった八戸は急に気力が萎え、4,5回は安藤が1点差を守り逃げ切った。

 仙台 21000 3
 八戸 00200 2

■第2試合

 仙台との激戦で疲弊した八戸は、初回弘前に早々と3点を献上した。これで試合は俄然面白くなった。序盤、弘前・63歳黄川、八戸・36歳佐々木の投げ合いは見ごたえがあったが、弘前の得点はこの3点で終わってしまった。「弘前に優勝させたい」下心はどこへやら、八戸は「ハンデはあげたし、あとは容赦せんけんね」と黄川を攻め、無慈悲に12点を奪った。この試合を観戦していた仙台には、「弘前、今年も組し易し」の油断が生まれ、のちに肝を冷やす遠因となった。

 話は前後する。朝、なかなか起きてこない松井をナインが心配していると、ようやく現れた松井の息はウォッカ臭かった。足取りもよろよろしている。前夜、八戸・弘前連合軍にビール、焼酎、ウォッカを4次会までかけてたっぷり盛られたという。闘いは水面下で前日から始まっていたのである。午前中は使い物にならぬと見た監督佐藤(徳)は、前夜祭を欠場した安藤を第1試合の先発に指名した。采配の妙である。

 仙台ナインは第2試合をネット裏の日陰で観戦していたが、松井だけは炎天のスタンドに一人ぽつんと座っていた。あとで調査したところでは、真近で弘前の打者の癖を研究していたのだという。酒臭いと言われるのでナインから離れていたわけでも、JRの行く末を模索していたわけでもなかったのである。投手はなんと孤独なポジションであろうか。スコアラー菊地哲丸は、「今日の松井のムービング・スローボールはいつもと違う。(千鳥足のように)左右に揺れて落ちる」とスコアブックに書き込んでいた。ドリンキング・ウォッカ・ボールと名づけてはどうだろう。

 弘前 30000  3
 八戸 1056× 12


 第2試合終了時点で仙台1勝(得失点差+1)、八戸1勝1敗(同+9)、弘前1敗(同-3)となった。第3試合で仙台が弘前に敗れることがあれば八戸に優勝が転がり込む。それどころか弘前が13点以上の差をつけて仙台を下せば弘前が優勝という状況でもある。

■第3試合

だから、というわけでもなかろうが、この試合、弘前は雪国のハンデを感じさせない闘いをした。予定通りと言っては語弊があるが、連投の黄川を攻めた仙台は3回の表を終わり5対1とリード。仙台の優勝は決したかと思われた。しかし今年の弘前は何かが違っていた。雪国に太陽あり、前田慶子はベンチの最前列中央に陣取り、ドスの効いた声で盛んに檄を飛ばす。昨日の艶のある美声ではない。弘前の打者は、あたかも前田が憑依したかのごとくパワーアップして松井に襲い掛かる。3回裏に1点、さらに4回裏には森岡の3塁打で2点を返し、ついに5対4となった。慌てた仙台は急遽安藤を再登板させたが、捕手相川のパスボールで森岡まで生還しついに5対5となった。相川は熱中症でボールが見えなくなったと言ったが、前田の妖気に当たったと考えた方が自然である。ここで監督佐藤(徳)は引き分けを覚悟し、選手の年齢計算を始めた。規定では、「同点終了の場合は最終イニングの守備に着いた9名の選手の年齢の総和の多い方を勝ちとする」とある。引き分けを想定し、年齢の切り札、伊藤(幸)=75歳をベンチに残しておいたのは采配の妙である。しかし最終回、年齢勝ちを潔しとしない仙台は、余力を振り絞り4安打を集中し3点をもぎ取った。その裏安藤は1安打を許したものの後続を押さえ、ここにようやく仙台の3連覇が達成されたのである。仙台にとっては2試合とも胃の痛くなる試合であった。

 仙台 03203 8
 弘前 01130 5


 表彰式で前田慶子から驚くべき事実が暴露された。第3試合の直前、あろうことか浅沼(達)が前田に「(結果はわかっているから、仙台の)不戦勝にしませんか?」と持ちかけたという。弘前ナインの体調を慮った提案ではあったが、口は災いの元、これが津軽のじょっぱり魂に火を着け、仙台苦戦の原因になったのであった。

 最優秀選手には2勝を挙げた安藤、また優秀選手には7打数5安打の綿谷,4打点の佐藤(韶)が選出された。綿谷は昨年通算14打数で僅か1安打であった。突如打撃に開眼したのか、今日の2試合で5年分を打ってしまったのか判断に苦しむところである。弘前は野球では2敗したが、前夜祭と表彰式では前田、鳴海、両顧問の舌好調の活躍で2連勝し、2勝2敗の5割(?)に戻した。来年当番の弘前は、手回し良く、すでに五所川原のドーム球場を確保してあるという。弘前は恐らくこの球場を丹念に下見し、ホームの有利さを最大限利用する腹であろう。

「前田慶子の目の黒いうちに優勝杯の八甲田越えを」・・・雪国の5年来の悲願が仙台ナインの心を激しく揺さぶる。しかし、勝負に情けは無用なのである。

 「弘前の太陽」のおかげで今年も素晴らしいお天気にめぐまれました。(でも神通力アップのせいか、ちょっと暑すぎました。) 大会を準備して下さった八戸市医師会の先生方と、3市医師会事務局の皆様のご尽力に心より御礼を申し上げます。 
                                                    (文責 宮地辰雄)





総集編 2004年 三師会親善野球大会 

2009-04-15 | Weblog
とき  9月5日(日) 
ところ  評定河原球場 
天候 曇り  気温 24度

 秋の一日、仙台市医師会(仙医)、歯科医師会(仙歯)、薬剤師会(仙薬)の野球好きが集うこの大会も今年で25回目となる。過去の優勝回数は仙医9回、仙歯9回、仙薬5回となっている。台風18号接近のため、予定時刻を10分繰り上げての開会となった。今回の当番である仙薬・佐々木国雄会長の開会の挨拶に引き続き、昨年優勝の仙医・佐藤(勤)総監督から優勝杯が返還された。

<試合経過>

 ■第一試合

 連覇を狙う仙医であるが、そのプレッシャーであろうか、最初から守備がどこかおかしかった。地に足が着いていない。必勝を期してエース安藤を立てたものの、1回表2失策がもとで仙薬に3点を奪われた。一方仙薬の先発鈴木(智)は試合前、なんと50mの距離で遠投を行っていた。仙医にプレッシャーをかけたつもりであろう。確かに球威は充分だが、何しろノーコンであった。1回裏仙医は無安打ながら、5四死球と1失策で4点を奪いたちまち逆転した。が、それもつかの間、3回表、堅守をもってなる仙医内野陣がまたも乱れ、3失策の挙句長打を浴び、6点を献上し勝敗は決した。失策・四球で走者をためると長打が出るというのは野球の常識だが、逆に仙医は4回までに9四死球を得ながら無安打だったのである。無安打で勝とうというのは虫が良すぎよう。最終回の代打、佐藤(勤)総監督が放ったぼてぼてのショートゴロが強襲安打と判定され、ノーヒットゲームを免れるのがやっとであった。

 仙薬 30610 10
 仙医 40000  4

 さて伊藤(幸)は初回四球で出塁するとあっさり2盗を決めた。本日75歳10ヶ月と25日、最高齢盗塁記録を更新した。もはや伊藤の前に記録なく、伊藤の後に記録は出来る。無人の野を行くが如くである。
また2回裏2死2塁、仙薬の2番高野が右翼に強烈なライナーを放った。誰もが1失点を覚悟したが、猛然と前進して来た猪股は地面寸前でこれをがっちりと捕球した。本人は、あれくらいで褒めらっでもなあ、と謙遜するが、この美技は守乱に泣く仙医にあっては、荒野に咲く一輪の山百合ほどの慰めとなった。

 ■第2試合

 仙薬は野沢、仙歯は及川という両エースの対決である。事実上の決勝戦とあって、第1試合とはうって変わって締まった試合になった。初回に点を取り合った後は両投手の好投が続く。仙薬が見事な三塁線へのセーフティーバントを決めれば、仙歯はこの日のために練習したピックオフプレーで2塁走者を刺した。観客を唸らせる試合は、4回を終わって仙薬が3対2とリードしていたが、仙歯は5回の表、宮内の3塁打と千葉のタイムリーで1点を挙げ、ついに同点に追いついた。しかし5回裏、1点取れば優勝の決まる仙薬の闘志は凄まじい。2番高橋が失策で出塁。3番野沢は死球を得た。野沢は痛がるどころか、欣喜雀躍して1塁に駆けた。4番追木の右飛で2塁走者がタッチアップして1死1,3塁。絶体絶命の仙歯は続く5番鈴木を敬遠し満塁策を取った。この状況ではいたしかたないとはいえ、満塁にすると投手の腕は縮む。筆者は草野球で満塁策が成功した場面を知らない。ストライクゾーンのど真ん中を狙った次打者への1球目は、半ば予想された通り、打者の背中のど真ん中を直撃した。あっけない押し出しサヨナラ劇。この瞬間、仙薬は2勝となり、2年ぶりの優勝が決まった。

 仙歯 20001  3
 仙薬 30001× 4

■第3試合

 すでに優勝は決まって、仙医と仙歯の銀メダル争いになった。仙医は松井、仙歯は洞口の先発で始まった。第1試合のふがいなさに激昂した佐藤(徳)監督は、今年はノーサインでやってきたがこの試合からはサインプレーで行く、と宣言した。監督の剣幕に震え上がった、もとい、奮い立った仙医は、初回1死1,3塁から安藤が2塁打でまず1点。次打者佐藤(韶)の安打でさらに1点を追加した。ところがなんと安藤が2塁から3塁に走った際、左下腿に肉離れを起こし無念の交代となってしまった。さらに1死1,3塁で1塁走者佐藤(韶)が2塁へスタート。タイミングは楽々セーフであったので、仙歯の捕手宮内は送球を諦めた。ところがあろうことか、鉄人・佐藤は2塁ベースの5メートル手前で足がもつれ転倒してしまった。しかも起き上がれず、這うようにして2塁に向かっている。これを見た宮内は慌てて2塁に送球。佐藤は2塁寸前で憤死したが、安藤の代走河村がこの間に判断よくホームを陥れた。転倒は3塁走者を生還させるための頭脳的プレーにも見えたが、佐藤も足を負傷したというので頭脳はあまり関係なかったようである。この3点は死守しなければならない負傷の代償だったが、情けない事に仙医は3回裏に5安打を浴び5点、さらに4回裏に2失策と3安打で4点を奪われ万事休した。監督のサインは誰も見ていないようであった。
 
 仙医 30010 4
 仙歯 0054× 9

 台風接近で心配された天候であったが、選手の熱気が雨雲を吹き飛ばし、第3試合の途中には青空さえ見えてきた。暑くなく寒くなく、風もない。絶好の野球日和となったのである。こういう日に優勝した仙薬ばどんなに気分が良いことであろうか。  
 
 表彰式、懇親会は仙台国際ホテルで行われた。今回を入れて、優勝回数は仙薬6回、仙医9回、仙歯9回と拮抗してきた。組織的な練習を積み、阿部(精)に「実力の仙歯」と煽てられて久しい歯科医師会は5年間優勝から遠ざかっている。若手が増え、「潜在力の仙薬」と評された薬剤師会は着実に力をつけて、ここ5年間で3回目の優勝となった。優勝回数で並ぶのも時間の問題であろう。

 25回の節目ということで、この大会の発展に寄与してこられた仙医・佐藤(徳)、仙歯・岡部恭、仙薬・狭川春芳の三氏に感謝状が贈呈された。医師会、歯科医師会、薬剤師会の連携・協力がうまく行っている点では仙台市は全国でも稀有の例である。この野球大会がその一助になっているとすれば嬉しい限りである。
2連敗した仙医はカラオケ大会で雪辱を図ったが、これも仙薬の芸達者達の前に玉砕した。今日の仙医にはよいところがなかった。唯一輝いたのは優勝杯返還のシーンのみであった。負け試合の講評を書くのは実に筆(キー)が重い。

 さて球界注目の板垣は、本日も2打数無安打、3死四球、3盗塁、5失策と活躍し、「年間無安打の盗塁王」という怪記録への道を驀進中である。盗塁の1つは牽制球に釣り出されたと見せてのディレードスチールであった。今年は残り3試合。記録の達成される歴史的瞬間に是非立ち会いたいものである。

           大ファウル 打って見上げる いわし雲
                
                  (文責 宮地辰雄)





総集編 2004年 ペガサス戦

2009-04-15 | Weblog
ドクタークラブ便り ペガサス戦

 とき    2004年8月17日
 ところ   シェルコム仙台
 天候  雨   気温 22度   試合時間 1時間40分


 外は久しぶりの本格的な雨。ドーム球場を確保した甲斐があったというものである。試合開始直前、優勝候補の東北高校が千葉経大附属高校に逆転負けしたため、グランドには重苦しい虚脱感が漂っていた。

 そんな中、玉井信教授が投じた始球式のボールは優に120キロを越しており、それがど真ん中に決まったので、参加者から盛大な喝采が上がり、「先発しろ」の声も出た。この一球で球場の雰囲気は落胆モードから一転、戦闘モードに切替わったのである。

 この日の勝敗の分かれ目は1回表裏の攻防にあった。先攻のペガサスは、ド・ク守備陣の失策と四球に2安打をからめ3点を挙げた。第2外科出身の河村は最初サードを守ったが、慣れない照明と3塁側ベンチに陣取った恩師里見教授の「河村、こっち向け」の野次に萎縮し、イージーゴロをお手玉し、さらに1塁に暴投した。師弟関係とは一生ついて回るものらしい。

 その裏ド・クも準備不足の先発野田の立ち上がりを攻め、2点を返してなお無死満塁とビッグイニングになるかと思われた。ここで6番河村が「汚名返上」とばかり振り抜いた打球はレフト線を痛烈に襲った。しかしボールはサード丸山が逆シングルで差し出したグラブにがっちりと収まり、打球の勢いにつられて3塁走者が飛び出したため併殺となった。並みの三塁手であれば、打球は左翼フェンスを転々とし、走者一掃で逆転、野田はここで潰れたはずであった。

 この美技で気を良くした野田は2回以降すっかり立ち直った。ド・ク松井が放った「顔面返し」のライナーも顔をそむけながら見事にキャッチした。5回裏にはド・クが1点を返し、なお2死1塁。ここで遠藤がセンター前に弾き返した。いざ反撃、とド・クベンチは沸き立った。が、なんと、2塁ベースのすぐ後にセンター八重樫が守っており、1塁走者を悠々と2塁で封殺した。絶妙のポジショニングが生んだセンターゴロである。こうしてド・クの反撃の芽は次々と摘まれたのであった。今年なんとしても3連敗を避けたいペガサスは、ド・クの各打者の走力と打球方向、それに師弟関係をスーパーコンピュータに入力し、解析を済ませてきたと考える他はない。

 ペガサスとは昨年もこのシェルコム仙台で対戦し、10対2と大勝した。そのときのペガサスは守備が乱れに乱れ、ゴロでもフライでもとにかく前に飛ばせば8割方セーフになった。その甘い記憶がド・クに油断を生んだのである。が、実は昨年大勝したとは言っても、野田の遅刻のため、急遽1,2回に登板した八重樫から奪った7点がものをいったのであり、3回から投げた野田には内野安打1本のみに押さえ込まれたのであった。野田が今日の試合にかける意気込みは凄まじく、正月から1日も休むことなく走りこみを続けてきた。それが奏効したか、高かった血圧はみるみる下がり、下半身は安定し投球後よろめく事はなくなった。ただし腹の出具合は不変であり、マウンド上のシルエットはやはり往年の江夏を彷彿させる。野球の理論書では、適度の出腹は投球の際、体の回転に遠心力を付加するとされている。打者との駆け引きも老獪である。打者に打ち気を見てとると、“逃げられる速さの”ブラッシュボールを投げて腰を引かせる。死球にしないところが巧妙である。前打席いい当たりをした打者には、やおらタイムをかけてズボンのベルトを締めなおし、腹を揺すって笑いをとり打ち気を削ぐ。こういう小技も実に心憎い。野田は元艮陵野球部の鬼監督であり、元部員の板垣が打席に立つと、毎回ニヤリと笑う。「いい年して俺の球がまだ打てないのか?」と顔に書いてある。野田のしごきが終生のトラウマになっている板垣は顔面蒼白となり、案の定今日もノーヒットに終わった。「5回以降にばてる」という千田仙台市医師会長の予想を裏切り、野田は尻上りに調子を上げ、ついに7回を投げ切ってしまった。今日は快投したが、盛者必衰、野田もいつまでも若くない。来年は50代突入である。さらに今回はその投球をしっかりビデオに収めたので、これを1年かけて解析すれば攻略法確立は容易である。ぺガサスの3年ぶりの勝利で、対戦成績はペガサスの5勝9敗2分(2中止)となった。

試合結果
 ペガサス      3031011  9
 ドクタークラブ    2001100  4


試合に出場された教授方のお名前と所属を列記しておく。

玉井信教授(医学系研究科長)
佐々木巌教授(生体調節外科学分野)
丸山芳夫教授(細胞生理学分野)
里見進教授(先進外科分野)
下瀬川徹教授(消化器病態学分野)
小野栄夫教授(病理形態学分野)
森谷卓也助教授(病理部副部長)
野田哲生教授(分子病態解析分野)
林 富教授(小児外科学分野)
吉田克己助教授(免疫・血液病制御学分野)
八重樫伸生教授(婦人科学分野)
荒井啓行教授(先進漢方治療医学分野)

 午後9時半から仙台国際ホテルで開催された懇親会には、試合には都合で出られなかった腫瘍外科学分野の大内憲明教授も駆けつけた。大内教授は宮地と同期で、SGTも一緒に回った仲である。来年は是非中心選手として出場してもらいたいものである。市医師会からは千田会長以下、阿部信一、今井克忠、武山実の理事が出席し、それぞれ大笑いのスピーチを披露した。ド・クの松井投手は散々バックに足を引っ張られたが、「勝つことも負けることもあるのが野球である。勝っても負けても野球は面白い。」と名言で会を締めくくった。

 スコアブックを眺めていると、面白いデータに気がつく。昨年板垣は、年間打率1割台ながら、盗塁数では2位に着けた。今年もここまで無安打ながら、盗塁数はチーム1位を独走している。是非ともこのペースを保って、「年間打率0.00の盗塁王」という怪挙を達成してもらいたいものである。また、今日を入れて今年のド・クは2勝3敗となったが、佐藤(勤)新総監督の出場した3試合は3敗、欠場した2試合は2勝である。統計的に有意かどうかはともかく、これが悪いジンクスとして定着しないことを願うばかりである。
                   (文責 宮地辰雄)





総集編 2004年 納会

2009-04-15 | Weblog
ドクタークラブ便り 2004年納会

とき  平成16年12月4日(土)
ところ 仙台国際ホテルの「青海」


今年は巷に野球の話題があふれた。プロ野球界は、近鉄・オリックスの合併に始まり、史上初のストライキ、栄養費問題、福岡ダイエーホークスの売却――と最後まで激動した。仙台に楽天イーグルスが誕生したのは棚からぼた餅であった。一方MLBではイチローの262安打達成、高校野球では東北高校、駒大苫小牧の活躍など嬉しい話題もあった。プロ野球中継の視聴率低下、若者の野球離れも懸念されるが、今回の騒動を野球界が生まれ変る胎動ととらえたい。来年は楽天効果で、わがドクタークラブへの注目度も俄然高まるに違いない。

 さて平成16年度の納会は、12月4日(土)仙台国際ホテルの「青海」にて15名の出席をもって開催された。庶務・浅沼(孝)の開会の挨拶に続いて、監事・菊地(哲)が乾杯の音頭を取り、会は和やかに始まった。来シーズンのスタッフは、佐藤(勤)総監督、佐藤(徳)監督以下全員留任となった。

■今年の戦績
対戦チーム      スコア      勝敗
国保連         8-5      ●
米沢市医師会     17-1      ●
八戸市医師会      2-3      ○
弘前市医師会      5-8      ○
教授団(ペガサス)    9-4      ●
仙台薬剤師会     10-4      ●
仙台歯科医師会     9-4      ●
中巨摩郡医師会     6-7      ○

今シーズンは8試合を戦い、3勝5敗であった。7月の山形市医師会戦、10月の医師会健康センター戦、11月の予防医学協会戦は残念ながら中止になった。

■個人成績
 
<打率> 高橋 0.429  綿谷0.300  浅沼(孝) 0.286
<打点> 佐藤(韶)5  安藤3  河村3  松井3
<盗塁> 板垣7  猪岡5  安藤4
<四死球> 板垣9  猪岡3  松井3
<得点> 板垣4  綿谷4  浅沼3  安藤3  佐藤(韶)3   宮地3   松井3
<投手成績> 松井2勝3敗 防御率6.75   安藤 1勝1敗 防御率5.54  伊藤(幸) 0勝1敗
防御率15.75

■選手表彰

 最優秀選手は出席者による無記名投票で選ばれる。今季はチームの成績が振るわなかったせいもあり、票が割れたが、14票中5票を集めた綿谷が選出された。綿谷は入部3年目で初の受賞である。サウスポーながら去年までの正捕手菊地(達)の抜けた穴を見事に埋め、さらに三市医師会大会での神がかり的な打撃が評価された。栄えある皆勤賞は、佐藤(徳)、佐藤(韶)、板垣、綿谷の4名が受賞した。各賞は、忘年会を2つこなして30分遅れで駆けつけた千田仙台市医師会長から各選手に手渡された。

 去年の「9勝1敗1引き分け」を思うと、今季の成績はあまり誇れるものではない。結果は3勝5敗だが、もっと負けたような印象がある。勝ちは辛勝・負けは大敗だったのと、相手にビッグイニングを献上しすぎたせいかもしれない。しかしわがチームが負けた分、打たれた分、相手チームに福音を与えているはずである。深い慈愛の心でこの結果を受容したい。果樹にも表年と裏年とがある。来年はきっと表の年になるはずである。

 今年は試合中に負傷者が4人出たことにも触れておきたい。釈迦に説法となるが、試合前日にバッティングセンターで突然300球を打ち込むよりは、毎日の素振りとジョギングという地道なトレーニングが怪我予防には重要である。トレーニングのモチベーションを高める方法としては、優勝杯を抱いた千田会長の満面の笑みと、大敗した試合での佐藤(徳)監督の怒髪天を突いた表情を交互にイメージすることが有効である。

 佐藤(勤)総監督は三師会大会終了時点で、「出場した5試合は5敗、欠場した2試合は2勝」となにやらジンクスめいた雰囲気になっていた。しかし最終戦となった山梨県中巨摩郡医師会戦でド・ク唯一の「渋さ極まる」内野安打を放ち、チームは辛勝した。この勝利で「総監督が出ると負ける」という危険なジンクスの成立を阻んだとともに、最終戦にして就任後初の勝利の美酒(=山梨ワイン)を味わえたのである。この1勝がなければ、この冬は総監督にとって例年より寒くて長いものになったはずである。

 さて球界注目の板垣は、9月26日に行われた青葉ブロックと泉ブロックとの親善試合で、左足に肉離れを起こした。そのため10月31日の最終戦は1打席のみの出場に終わった(1四球・無安打・無盗塁)。ここに筆者の炯眼がすでに7月に予言した通り、年間20打席で11打数無安打、9四死球、7盗塁――すなわち「打率0.000の盗塁王」が誕生したのである。さらに最多出塁(四死球だけで!)、最多得点のおまけまで付いた。この怪記録は日本のプロ野球はもちろん、MLBの記録も検索してみたがヒットしなかった。草野球では、バットにボールが当たりさえすれば結構な確率で無人のスペースに飛んだり、ボテボテのゴロが内野安打・強襲安打と判定されてしまうので、「安打を打たないようにする」ということは案外難しいものである。そう考えるとこれは狙って出来るものでもないが、狙わなくては決して出来ない大記録といえる。来年の板垣には2年連続での怪記録達成を期待する声と、多少は安打を打ってもらいたいと望む声とがある。 

 静かに眼を閉じてみると、寒風吹きまくる開幕戦、米沢で見た伊藤(幸)の闘魂、猛暑の八戸でのダブルヘッダー、評定河原での猪股の美技と謙遜、山梨まで出かけて大雨に降られた最終戦――などのシーンが次々と浮かんで来る。野球をしていると1年はあっという間である。

 シーズンを終えるにあたり、対戦して下さった各チームの選手、ご支援を戴いた県・市医師会の諸先生方、事務局の皆様、そして拙稿の題材になりながら笑って許してくれたチームメート達に心から御礼申し上げます。来年もドクタークラブにご支援をお願いいたします。それではまた春にグランドでお会いしましょう。 
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 ドクタークラブは野球好きの新入部員を募集しています。老若男女を問いません。医師会事務局伊藤清志かド・ク会員にお知らせ下さい。                                    (文責 宮地辰雄)






総集編 2005年 国保連・全国土木国保戦

2009-04-15 | Weblog
ドクタークラブ便り  開幕戦 (対国保連合会及び全国土木国保戦)
 
 とき  平成17年4月24日(日) 
 ところ  ウエルサンピアみやぎ泉
 天候  快晴  気温18℃

 今年の開幕戦は春らしい絶好の野球日和となった。満開の桜の下、残雪の泉ケ岳をはるかに望みながらグランドに立つと、健康でスポーツができることの幸福をしみじみ感じたのである。
  今やかの 三つのベースに人満ちて そゞろに胸のうちさわぐかな  正岡子規

■第1試合 対国保連合会

 一年の計は国保連戦にあり。国保連にはここ2年連続で負けており、大敗すると1年の成績が振るわないというジンクスが定着しつつある。何としても3連敗を免れたいド・クは秘密兵器を準備した。総監督佐藤(勤)が南光台から発掘してきた若手投手(とは言っても40才)・花田佳典である。おそらくは松井か安藤の先発を予想してきた国保連は、初見参の花田が投げ分けるインコースへのシュートと大きく外に逃げるカーブとの配球に面食らい、内野ゴロの山を築いた。

 ド・クは1回裏、3ゴロ失で出塁した板垣が二盗。これを安藤がレフト前安打で迎え入れ1点を先制した。一方国保連は2回表に先頭打者が安打で出塁後二盗。直後にセンター前安打が出て同点に追いついた。その後は双方とも安打が散発ででるものの後続が絶たれ、息詰まる接戦となった。しかし国保連は最終回1死3塁から、次打者の内野ゴロの間に3塁走者が生還し、貴重な勝ち越し点を挙げた。その裏ド・クの攻撃は2死走者無しとなり、健闘もここまでと思われたが、実は見せ場はここからであった。9番河村が、勝ちを急ぐ国保連のエース深町義昭の3球目をセンター前に打ち返し、さらに綿谷、高橋が連続で四球を選んで満塁とした。ここで打順は3番板垣。

・・・制球に難のある深町は、押し出しを怖れて初球を必ず真ん中に投げてくる・・・と読んだ板垣は初球打ちに賭けた。追い込まれると弱い、という性格もある。はたして予想より外目に来た初球をたたいた打球は、1塁手の後方に力なくふらふらと上がった。ライトの前に落ちれば逆転サヨナラである。ナインはベンチから身を乗り出して行方を追う。しかし無情にも、飛球は前進してきたライトがようやく差し出したグラブに吸い込まれてしまったのである。そう言えば1年前の開幕戦もこの形でゲームセットを迎えたのであった。最後のワンプレーで勝敗が逆転するのはサッカーにはない野球独特の醍醐味であり、怖さでもある。惜しくも1点差で敗れはしたが、バックもノー・エラー、併殺で花田を盛り立てた。若さで勝る国保連を追最後まで苦しめたことは讃えられて良い。ちなみに一昨年は12点差負け、昨年は3点差負けであった。毎年着実に勝利に近づいている。

 国保連 01001 2
 ド・ク  10000 1

 この試合、花田が許した安打は5、外野への飛球は2つのみ、しかも無四球と、上々のデビューであった。ド・クの投手陣はこれで安藤、松井、伊藤(幸)と合わせて4枚看板となり、一躍投手王国の時代を迎えたのである。

■第2試合 対全国土木国保

 全国土木国保とは耳慣れないチームである。10年以上前は医療職野球大会に出場していたというが、最近の活動に目覚しいものはない。ド・クとしては大勝して弾みをつけたいところである。

 しかし土木は初回、先発安藤の立ち上がりに2安打を放ち、2点を奪った。ド・クもその裏2四球に相手失策でたちまち同点とし、2回以後は立ち直った安藤が安打を許さない。3回表、1死1塁の場面で土木の3番打者が放った痛烈な3塁ゴロを、ド・ク内野陣は5―4―3の併殺で処理した。その連携のあまりの見事さに、観客からは期せずして「ビューティフル!」の歓声が上がった。これで勢いに乗ったド・クはその裏、2四球、3失策で出た走者を2本の2塁打で迎え入れ、6点を奪って試合を決めた。

 土木  20010  3
 ド・ク  2064× 12

 第1試合ではヒーローになりそこねたものの、板垣は今年も快調である。今日だけで4盗塁、4得点を決め、早くも盗塁王、得点王当確となった。ただし第2試合の最終打席で、実に2年ぶりの安打を打ってしまい、2年連続の「年間無安打の盗塁王」への夢は儚く消えた。1塁ベース上で板垣は、「嬉しいような、残念なような、やっぱり嬉しいような」表情を浮かべていた。

 第1試合は惜敗したものの、第2試合は予定通りの圧勝であった。昨年の不成績を真摯に反省したナインが、冬期間自主トレに励んだ成果であろう。例年開幕戦で交わされる「太ったんでないの?」という会話が今年は聞かれなかったこともそれを裏付ける。新戦力に加え、今年はホームでの試合が多いため、ベガルタ、楽天より高い勝率を残せることは間違いない。
                              (文責 宮地辰雄)
   ドクタークラブの試合・懇親会の写真が下記サイトでご覧になれます。
   「2004~2005年ドクタークラブ活動の記録」 http://blog.goo.ne.jp/doctorclub/



総集編 2005年 三市医師会親善野球大会

2009-04-15 | Weblog
ドクタークラブ便り  第7回 三医師会親善野球大会 

 とき  平成17年6月11日(土)~6月12日(日) 
 ところ  つがる克雪ドーム(五所川原市)
 天候  雨   気温 19℃

弘前藩は公称10万石であるが、未開であった津軽平野の新田打ち出しにより実高は30万石を超えていたと推定される。城下は日本有数の豊かな町である。市内に保存されている武家屋敷はサワラの生垣と黒い薬医門を特徴とする。弘前城の天守閣は東日本で唯一現存するもので、岩木山とともに弘前の人々の心の原風景となっている・・・紀行文を書いている場合ではなかった。われわれは優勝しに行くのである。弘前まで4時間のバス旅と、「熱烈歓迎」の衣を被った前夜祭のアルコール攻撃に耐えて、翌日の試合に望まなければならない。

この大会も今年で6回目となる。1,2回目は八戸が、3,4,5回目は仙台が優勝している。今回は唯一優勝経験の無い弘前のホームゲームである。今年を逃すと優勝はまた遠ざかり、チームの衰亡が懸念される。仙台はもちろん4連覇を狙う。今回優勝すれば来年はホームであり、5連覇が見えてくる。一方八戸は今回勝って、優勝回数で仙台に並びたいと考えている(はずである)。

前夜祭はホテル・ニューキャッスルにおいて定刻に始まった。弘前市医師会玉田友一理事の開会の挨拶に続いて、田村瑞穂弘前市医師会長から心温まる歓迎の挨拶を頂戴した。応えて土井三乙八戸市医師会長と佐藤勤仙台市医師会副会長が祝辞を述べ、今村憲市弘前市医師会副会長の音頭で乾杯となった。

アトラクションには、鯵ヶ沢甚句と津軽じょんがら節が披露された。小学生のりんご娘5人による手踊りはリズム感に富み、何とも可愛らしいものであった。さらに弘前市医師会有志による勇壮なえふり太鼓の演奏が行われた。いずれも弘前の人々の郷土に対する愛情と誇りが伝わってくる素晴らしい演目であった。

宴たけなわで登場した弘前のケーシー高峰こと鳴海康安は今年も舌好調であった。伊達62万石を褒めたと思えば、人口100万の仙台チームは、合併してようやく19万人の弘前に勝って当然とプレッシャーをかけた。また青葉城には銅像しかないが、弘前には城と堀が現存し、桜祭には今年275万人が訪れ、ついに博多どんたくを抜いてNO.1となった、道州制が敷かれた暁には東北の中心は弘前が担う予定である、と高らかに謳った。

続いて、1986年のNHK大河ドラマ「いのち」のモデルにして弘前の太陽、前田慶子が登壇し、毒、もとい独演会が始まった。多忙な前田は産婦人科支部総会と山本富士子トークショーをキャンセルしてこの会に出席したという。昨年よりパワーアップしたボディアクションとどこまでもヒートアップしていく演説に、聴衆はあんまり笑いすぎて話の内容を忘れてしまったほどである。「出身県でわかる人の性格・県民性の研究」(岩中祥史著・草思社)によると、弘前の人は陽気でおしゃべりだが、強情なので周囲と摩擦を起こしやすい、とある。このお二人にあてはまるというわけではない。ついでにいうと、八戸の人は無口でおっとり、仙台衆は目立ちたがりで諦めが早い、のだそうである。

前夜祭終了後、外は強い雨であった。出席者はタクシーに分乗して鍛治町の2次会場に向かった。ここに千田仙台市医師会長が駆けつけ、「長崎は今日も雨だった」を朗々と歌い上げ、万雷の拍手喝采を浴びた。昨年4次会まで連れ出されて臍を噛んだエース松井は、今回は2次会までで自重した。

翌朝、バスは新緑美しいアップルロードを通り、五所川原市に向かう。つがる克雪ドーム(通称「ほたてドーム」)は平成14年に五所川原市に完成した全天候型多目的ドームである。延べ床面積3700坪、野球場としては両翼86メートル、中堅85メートルの広さを有する。豪雪地帯の人々に年間を通じてスポーツ・レクリエーションを提供する目的で総工費50億円を投じて建設された。さらに年間維持費1億5千万円を計上しているという。「克雪」のネーミングに人々の心意気が込められている。津軽平野は今日も雨だった。ドーム球場の面目躍如である。

今回はアウエーでの無観客試合。北朝鮮とのワールドカップ予選を思い出す。選手の掛け声がはっきり聞こえ、ボールを打つ音が銀傘に大きく反響する。いかにも野球をしている実感があるが、フライは捕りにくい。練習中からドスの利いた檄を飛ばしているのはどこの監督であろうか。

■第1試合 仙台対弘前

弘前・三国谷と仙台・松井両エースの投手戦となった。1回表、仙台は三国谷を攻め、2死1,2塁のチャンスを作ったがあと1本が出ない。その裏松井は3者連続三振と素晴らしい立ち上がりを見せた。3回裏、弘前の攻撃。1死2塁から9番打者の打ち上げた飛球を1塁手が落球。すぐ拾って1塁に送球したが、カバーに入った2塁手が打者走者と交錯して落球。さらにホームに悪送球して1点を献上し、これが決勝点になってしまった。仙台打線は阿部の2安打のみに抑え込まれ、被安打3、与四球1と好投した松井には気の毒な敗戦となった。

仙台 00000 0 
弘前 0010× 1


■第2試合 八戸対弘前

第1試合に勝った弘前には初優勝の幻影がちらつき始めた。優勝経験のない悲しさか、前試合完璧だった弘前の守備陣が金縛りになる。初回、失策と四球で走者を出したところで2安打を浴び、八戸に3点を取られた。前年3対12で大敗した記憶がよみがえる。ところが、ここでタバコを吸い終わった「弘前の太陽」前田慶子がベンチに戻って状況は一変する。背番号100はベンチ中央に陣取り、ドスの利いた檄を飛ばし始めた。檄は銀傘に乱反射してドーム全体に反響する。弘前ナインはこれに鼓舞され、逆に八戸ナインは激しく動揺した。3点を取られたその裏、弘前はすぐさま2点を返し、その後立ち直った三国谷は八戸に追加点を許さない。4回裏、黄川、三国谷の連打でついに3対3の同点に追いついた。しかし5回表、八戸はリリーフ佐藤から3四死球で1点を取り、再び1点をリードした。そして八戸は余力のある長谷川に代えて秘密兵器・田中をリリーフに送った。田中は弘前大学時代、投手として東医体の準硬式野球に出場し、4連覇したというプロ中のプロである。投球練習では140キロはあろうかという速球がビシビシと捕手のミットに決まり、弘前の健闘もここまでと誰しも思った。しかし野球はわからないものである。プレーボールとなって打者が打席に立つとまったくストライクが入らない。それも全球ホームベースの1メートル手前でワンバウンドし、球速があるためキャッチャーが補球できない。これは硬式の投手が軟式球を投げる際にしばしば見られる現象である。田中は結局2四球、3ワイルドピッチの末あえなく降板。ここで再びマウンドに登った長谷川から3番小原がレフト前ヒットを放ち4対4の同点。八戸は4番佐藤を敬遠して満塁策をとったが、すでに流れは弘前にあった。続く5番黄川が初球をセンター前に弾き返し、3塁走者小原を迎え入れ劇的な逆転サヨナラ勝ちを決めた。ここに「前田慶子の目の黒いうちに弘前に優勝旗を!」の悲願が現実のものとなった。弘前ナインはもちろん、事務局職員全員の目に大粒の涙が光った。


八戸 30001  4
弘前 20012× 5

■ 第3試合 仙台対八戸

弘前の初優勝が決まり、消化試合となったためか、のびのびした打撃戦になった。仙台は初回浅沼、佐藤(韶)の連打で幸先良く1点を先取。しかし、その裏八戸は打者一巡の猛攻で5点を奪った。還暦を迎えた松井に連投はきつい。第2試合の間、肩が冷えたことも影響した。八戸はさらに2回裏、4番田中の柵越えの満塁本塁打で4点を追加。2対9となり、勝敗は決したかと思われた。しかし仙台は4回表、2四死球に5安打を集中し、5点を返し7対9とした。最終回には秘密兵器・鈴木カツ子を代打に送る奇襲を見せたが、反撃もあと一歩及ばなかった。


仙台 11050 7
八戸 5400× 9


球場近くの温泉で行われた表彰式では、苦節6年の勝利を喜ぶ弘前ナインの姿が涙を誘った。6年といえば、一人の医者が出来上がる星霜である。弘前市医師会員のみならず市民の歓喜はいかばかりであろう。これでひとまず弘前チームの衰亡問題、ひいてはこの野球大会の存続の危機が回避されたことは喜ばしい。

会の最後に恒例の前田慶子賞が贈呈された。仙台では千田会長、鈴木カツ子、宮地が受賞した。会長はこの大会への長年の貢献が、鈴木は野球における男女出場機会均等法制定に努力している点が評価された。宮地に対しては「ドクタークラブ便り」執筆になお研鑽するようにとの叱咤激励であった。この賞をもらうと寿命が3年縮む、いや延びると言われている。

賞の贈呈が終わると、連日の前田慶子独演会になった。「千田会長の叙勲祝いに呼ばれなかったのが悔しい」、「仙台チームは去年3勝5敗、今年はこれで1勝4敗。チーム力の陰りが顕著である。」と舌鋒は鋭く仙台に向けられた。その記憶力は今なお驚異である。背番号100は、100歳まで生きる宣言と見た。悲願は成就したが、弘前の太陽はまだまだ沈みそうにない。

帰途、2日間降り続いた雨が上がり、車窓に岩木山が端正な姿を現した。・・・弘前に愛をありがとう、3年後にまたおいでなさい・・・と微笑んでいるような気がした。
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前田先生からいただいた手書きの賞状は額に入れて、医師免許証の代わりに待合室に掲示しました。毎日患者さんが興味深げに見上げています。大会を準備してくださった弘前市医師会の先生方と三医師会事務局の皆様に仙台ナインを代表してお礼を申し上げます。来年は仙台でお待ちしております。   

                         
         (文責 宮地辰雄)
     

総集編 2005年 中巨摩医師会戦

2009-04-15 | Weblog
 とき  平成17年6月25日(土)~6月26日(日) 
 ところ  東北福祉大第1球場
 天候  曇り   気温 30℃

中巨摩地区は山梨県の中西部に位置し、富士川の支流である釜無川を挟む西部地区と東部地区からなる。西部は果樹・田園地帯で、平成15年4月に6町村が合併し南アルプス市になった。東部は甲斐市を中心として甲府のベッドタウン・住宅商業地区として発展している。人口は175,000人で、仙台では宮城野区の人口と同じくらいである。今では「日本で最も住みやすい場所」の5指に入るというが、40年前までは日本住血吸虫が猛威を奮っていた。この地方の医師たちは顕微鏡を田圃に持ち込み、文字通り泥にまみれてこの風土病を撲滅したのである。このたび来仙したメンバーはその気概溢れる医師たちの末裔である。医師会員数は仙台市1,579名に対し、中巨摩136名である。

この大会は仙台の浅沼孝和と中巨摩の嶋崎嘉人が大学の同級という縁で始まった。昨年は富士山麓の野球場で第1回戦が行われたが、雨でぬかるんだ球場整備に時間がかかり、4回表、仙台が7対6とリードしたところで時間切れとなった。仙台は「劇的勝利」、中巨摩は「ノー・ゲーム」とそれぞれ公式記録簿に記載した因縁の試合である。今回は是非とも決着をつけなければならない。

中巨摩メッツ(以下MEDS)一行12名は25日14時に甲府を発ち、4時間かけて仙台に到着した。楯無の鎧こそ着込んでいないが、甲府駅では風林火山の旗に見送られたという。海のない県の人をもてなすため、前夜祭のテーブルには海の幸が並べられた。会の始めに佐藤(勤)総監督が歓迎の挨拶を述べた。総監督は、昨年の試合でノーヒット試合を免れる唯一の(ボテボテの遊撃強襲)安打を放った嬉しさがいまだに忘れられないという。続いて中巨摩の最年長、西野義久が、仙台戦が始まったおかげで野球部への県予算が5万円増えたと喜びを述べた。仙台市医師会理事の宮川菊雄(仙台逓信病院院長)と青沼清一も山梨県出身の縁で特別参加した。MEDSから甲州名産印伝と、特別限定醸造ルバイヤートワインをお土産にいただいた。新幹線車内で既に出来上がっていたせいもあるが、中巨摩の選手達は陽気で磊落であった。体型も立派で声も大きく、何人もの信玄公が大挙来襲したような迫力であった。一行は仙台駅から国分町まで歩く間、通りすがる仙台女性の美しさに感動しっ放しだったという。高尾太夫の祟りもそろそろ時効なのであろうか、あるいは単に他県の女性の流入が進んだだけのことなのであろうか。この辺のことには深入りしないでおく。

宴たけなわとなった頃、千田会長が到着、歓迎の言葉を述べた。その中で信玄公と政宗公の話題に触れたため、フロアーではこの両者もし戦えば、という議論が始まった。議場は紛糾したが、明日野球をすればわかる!という会長の一声で一次会はお開きになった。今回の試合は、武田勢と伊達勢のヴァーチャル対戦の性格も帯びることとなったのである。一次会終了後、両軍の精鋭達は佐藤(勤)総大将を先頭に、二次会、三次会、四次会へと繰り出していった。

翌日、試合は10時開始の予定だったが、両チームとも足はふらつくもののやる気満々。15分繰り上げての開始となった。仙台は久々にベストメンバーを組む。スタメンの平均年齢は仙台53.1歳、MEDS54.8歳。相手にとって不足はない。

MEDSは初回、先頭吉田が松井の初球を3塁線に絶妙のセーフティバント。虚を突かれたサード板垣は、投げても間に合わないと判断して見送った。まさにラインの上を転がったボールはベース手前で惜しくも左に切れファウルとなった。結局吉田は三振に終わり、松井は初回を3人で抑えた。

その裏仙台は、菊地(達)がショートのエラーで出塁。続いて3本のタイムリーが出て、あっという間に4点を奪った。仙台は2、3回にも板垣のランニングホームランなどで小刻みに加点し7対1。ベンチの応援団は早くも左うちわとなった。MEDSは2回に内野のエラーで出た走者が内野ゴロの間に生還して1点を取るのがようやくであった。初回のバント以外、MEDSの見せ場は最後までなかったのである。

3回までに大勢は決したが、「去年3勝5敗、今年1勝4敗、チーム力の陰りが顕著である」と弘前の太陽に喝破された仙台は攻撃の手を緩めず、4回に4点、5回に5点を追加した。ベンチは左うちわ、右うちわとなった。終わってみればド・クは11安打、5四球、12盗塁。さらに相手の7失策に乗じて縦横にダイヤモンドを駆け回り、大量16点をあげた。松井は被安打3、奪三振6、与四球2と今年一番の快投を見せた。前日は4次会まで付き合い、最後はテキーラで仕上げたという。朝は顔色不良にして言語を発せず、周囲は不安を覚えたが、一球投げるごとにアルコールが抜け、尻上がりに調子が戻った。リリーフを準備していた安藤も、前日の様子に不安を覚えた佐藤(韶)が持ち込んだAEDも出番がなかったのは幸いであった。宿酔いには野球が一番である。これは今後の患者指導に生かしたい。今日の松井はまさに主戦、ならぬ酒仙投手であった。

 中巨摩 0100000  1
 ド・ク 421450× 16

1塁ベンチには仙台選手の小学生になる息子さんが応援に来ており、無邪気な質問をしていた。「どうしてずっと仙台ばっかり打ってるの?」(山梨の人は守るのが好きなんだよ)、「あっちのピッチャーは疲れないの?」(こういう試合に慣れてるんだよ)・・・MEDSの1塁手吉田は質疑応答が逐一耳に入り、ますます平常心を失っていったという。戦いには心理戦も重要なのである。かくて武田と伊達のヴァーチャル対戦は、伊達の火縄銃隊が武田騎馬隊を散々に撃破した結果となった。公式記録簿に仙台は「2年連続劇的勝利」、MEDSは「去年のノーゲームに続いて今年は惜敗」と書き込んだ。

表彰式は仙台駅前のホテル・モントレ仙台で行われた。駅を眼下に見る13階の展望天然温泉はMEDSナインに好評であった。山梨の河住監督から、来年はホームで軍勢を立て直し、雪辱を果たさずおくべきや、との捲土重来宣言がなされた。伊達軍も心して甲斐入りしなければならない。甲州軍退散のあとに、破れかけた旗が残された。

旗の文字は、

甲軍の攻撃の終わること「風」の如く速く
大敗にベンチの静かなること「林」の如し
投手は連打失策で「火」だるまとなり
守備陣の動かざること「山」の如し

と読めた。
                                        (文責 宮地辰雄)



総集編 2005年 米沢市医師会戦

2009-04-15 | Weblog
 
 とき  平成17年7月24日(日) 
 ところ  ウエルサンピアみやぎ泉
 天候  曇りのち晴れ   気温 26℃

梅雨は明けそうで明けず、大型の台風7号が接近する中での試合になったが、天候はまずまず、気温もこの時期としては涼しい野球日和となった。一昨年の対戦は0対0の息詰まる投手戦、昨年はアウェーで主力を欠いたとはいえ、1対17と思い出したくもない大敗を喫した。ド・クは2年間で1点しか取れていない。米沢の主戦・篠村(元山形東高校野球部投手、30歳)に2年連続で抑えられたのが効いている。今年は何としてもその120キロの速球を打ち崩さなければ勝利はない。

しかし当日になって篠村は急用で来仙しないことが判明した。高校の先輩である板垣と宮地が野球道を教示すべく待ち構えていたのに残念なことであった。代わって仙台戦初登板となる米沢の先発・大道寺は右の本格派。名前も大きいが身体もでかい。長身から投げ下ろす速球は篠村に劣らないように見えた。一方仙台は昨年の雪辱を果たすべく、投手4枚看板を準備した。エース安藤が先発し、後ろには松井、花田、伊藤(孝)が控えるという豪華布陣である。さらに山形に赴任している正捕手菊地(達)も遠路駆けつけた。これで勝てないはずはない、が、万一負けたらどうしよう、という程のベストメンバーである。

試合が始まってみると、大道寺は球威こそあるものの、ストライクを取るボールが真ん中に集まる難点があり、それをド・クの各打者に狙い打たれた。さらに捕手の出すサインが1塁コーチャーから丸見えであることに総監督・佐藤(勤)が気付いた。

1回裏、3番松井のライト前ヒットでド・クがまず先制。松井はパスボールで2進、佐藤(韶)の3塁打で快足を飛ばして生還した。還暦を迎えてさらにスピードを増した走塁にベンチは沸いた。1回裏の攻撃で相手捕手のサインの解析を終えた佐藤(勤)から、情報が打者に即時伝えられる。これがド・クの目指すID野球である。こうして4回までに大道寺に単打4本、2塁打1本、3塁打2本を浴びせ、6対0と一方的にリードした。

これで大勢は決したと監督・佐藤(徳)が左手にウチワを持った途端、米沢の猛反撃が始まった。5回表、まず先頭の大道寺が意地のレフト前ヒット。1死後堀内がセンター前に火の出るような一撃で続き1,3塁。ここで1番石橋の打ち上げた飛球はイージーフライと見えたが、センターがこれを落球して1点。(これがド・クの本日唯一のエラーであった。マーフィーの法則に「野球の試合において、エラーは最も出てほしくない場面で出る」とあったような気がする。)さらに横山のセンター前ヒット、中條のセンターオーバーの2塁打で3点を追加し6対4と試合は俄然緊迫した。

米沢の集中打は見事であったが、6点差をひっくり返されてはベストメンバーのド・クに何の面目があろうか。必死のド・クはその裏4安打、1四球、6盗塁で4点を挙げ、10対4とした。この回松井は四球で出塁後果敢に2盗。さらに安藤のレフト前ヒットで3塁に向かった際、足に肉離れを起こしてリタイヤとなった。次のペガサス戦での登板が憂慮される。初回に走塁を褒めたのがよくなかったのかもしれない。ここで再び6点差に戻って米沢はついに気力が萎えた。6回、7回は、セットポジションからワインドアップに代えた安藤に3三振を奪われ万事休した。安藤は後ろに3投手が控える安心感からペース配分を気にせずに伸び伸びと投げ、完投してしまった。ド・クの15盗塁のうち4つは3盗であったが、これは1塁送球に自信のない米沢の3塁手がベースの1メートル前に守っているのを見抜いての頭脳的走塁であった。大道寺はストライクゾーンの4隅でカウントを取れるようになれば飛躍するであろう。20年後が楽しみである。

表彰式は仙台国際ホテルで行われた。最優秀選手は仙台の安藤、優秀選手には米沢の横山、中條、大道寺が選出された。乾杯の後は勝敗を忘れての和やかな歓談となった。話題は、最近の子供達の野球離れ、昔の軟式球はよく割れたこと、ボールが貴重だった頃はボールが割れたりファウルで紛失した場合打者はアウトになったこと、軟式球でナックルボールは可能か、そんぴんラーメンのお勧めの店、米沢牛は「鳥勝」という店がよい、など古今東西多岐に渡って尽きることがなかった。

今回は米沢が遠征メンバーの動員に苦心したという。これで2年連続ホームチームの大勝となった。この対戦はアウェーで勝ってこそ意義がある。来年は是非ベストメンバーで米沢に乗り込みたい。今年のド・クは3勝4敗(勝率0.429)となった。弘前で2連敗して、一時は1勝4敗と落ち込んだが5割復帰も目前である。開幕戦の記事で「ベガルタと楽天の勝率を上回ることは間違いない」と宣言したが、この日の時点でベガルタは9勝9敗4分(同0.500)、楽天は28勝61敗1分(同0.315)である。8戦目以降のベガルタの頑張り(8勝4敗3分)は想定外であったが、最終的にド・クの勝率が両者を上回ると確信している。

循環器医・佐藤(韶)が毎回野球鞄に忍ばせているAEDは本日も出番がなく、佐藤はいかにも残念そうであった。いつの日か出番が来ることを、いや来ないことを(どっちだ?)祈っている。

米沢 0000400 4
仙台 202242× 12

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【附】 「1989年の球児たち」

 毎年この時期になると1989年の高校野球を思い出す。暑い夏であった。甲子園には東北旋風が吹き荒れていた。ベスト4に仙台育英と1年生エース・中川申也を立てた秋田経法大付属が残り、優勝旗が初めて白河の関を越えると期待されていたのである。仙台育英は準々決勝で元木大介(現巨人)と種田仁(現横浜)を擁する上宮を撃破して波に乗っていた。準決勝の仙台育英対尽誠学園戦では、仙台育英のエース・大越基と尽誠学園のエース・宮地克彦との死闘が大観衆を釘付けにした。仙台育英は延長10回、3対2で勝ち決勝に進んだ。同じく準決勝、帝京対秋田の試合は、エース吉岡雄二の帝京が秋田を下した。仙台育英と帝京との対決になった決勝は、延長10回2対0で帝京が勝ち、東北に優勝旗が来ることはなかった。

それから16年が経つ。宮地克彦は仙台育英との試合、40度の発熱を押して投げていたことを後に聞いた。親戚ではないが同姓ということもあって気にかかる選手であった。その秋、彼はドラフト4位で西武に指名された。ちなみに1位は潮崎哲也、3位は大塚光二であった。プロ入り後は故障に悩まされ、1993年野手転向。長い間二軍の首位打者に甘んじた。東尾監督後期にようやく一軍に定着、続く伊原監督下では100試合に出場してリーグ優勝に貢献した。しかし2003年オフ、若返りを図るチームの方針から解雇され、ダイエーにテスト入団。2004年は規定打席不足ながら0.310の好成績を残した。そして今年、激しいレフトの守備位置争いを制しレギュラーに定着した。 前半戦打率0.333と堂々パ・リーグ2位に着け、プロ16年目にして初のオールスター出場を果たした。

吉岡雄二はドラフト3位で巨人に入団するが、やがて野手転向。4年目の1993年に1軍初出場を果たすも、長嶋監督のスター選手優遇方針の下で出場機会に恵まれず。1996年オフに石井浩郎とのトレードで、石毛博史とともに近鉄に移籍。1998年にようやく素質が開花し13本塁打。1999年からレギュラーに定着。2001年からは2年連続で26本塁打。2003年は3割も記録。ローズが抜けた2004年は、主砲として期待されたが、オープン戦で走塁中にアキレス腱を断裂。1年を棒に振る。同年オフ、新球団となる東北楽天に移籍。仙台育英の優勝を阻んだ男が仙台市民の声援を受けるという皮肉な巡り合わせになった。

大越基はプロの誘いを蹴って早稲田大学に入学。1年生時、大学野球で全国制覇を成し遂げるが、野球部になじめず中退。単身渡米して大リーグ傘下サリナーズでプレー。翌1992年のドラフトでダイエーに1位指名で入団。投手として数試合登板するも結果を出せず野手転向。俊足に期待がかけられた年、アキレス腱断裂。2000年、不屈の闘志で復活し開幕から1軍に定着したものの出番は守備固め、代走のみであった。2003年引退。現在は指導者を目指し大学でスポーツ科学を学んでいる。

あの夏、われわれの胸を熱くしてくれた選手たちの軌跡である。彼らにしても野球の道は決して平坦ではなかった。3人の球児は今年34歳になる。                        文責 宮地辰雄



総集編 2005年 ペガサス戦

2009-04-15 | Weblog
 とき  平成17年8月24日(水) 午後6時30分
ところ  シェルコム仙台
 天候  晴れ   気温 25℃
       
白亜の塔で日々研究にいそしむ東北大学の教授連と、患者の傍らで昼夜奮闘する臨床医に接点は少ない。慣れ親しんだ講座名は既になく、学生時代に講義を受けた教授達も退官された。古い医学生は、覚えられないほどに長くなった新講座名を目にするたびに、これは昔の第○外科、これは昔の第○内科、といちいち翻訳しないわけにはいかない。今年で19回目となるこの野球大会は、ともすると遠くなりがちな大学と医師会との距離を引き戻してくれる。大学のアカデミズムと臨床医のヒューマニズムとが年に一夜だけ邂逅する、七夕のような行事なのである。

過去の対戦成績はド・クの9勝、ペガサスの5勝である(引き分け2回、雨天中止2回)。第2回からは試合経験豊富なド・クが5連勝していたが、最近10年に限ってみると4勝4敗2引き分けとまったくの互角である。一昨年はド・クが勝ったものの途中から登板した野田を打ちあぐんだ。昨年はペガサスが野田の怪投で大勝している。さらに、今年ド・クはここまで3勝4敗とこの試合に5割復帰がかかっている。ド・クとしては何としても野田を打ち崩して勝たなければならない。

 意気込みとは裏腹にド・ク選手の集まりはよくない。臨床医は夕方が忙しいのである。6時集合だが、定刻に到着していたのは佐藤(徳)監督以下3名であった。試合開始までにはなんとか9人が揃ったが、シートノックの際、セカンド予定の佐藤(勤)総監督が第一歩を踏み出した途端、その場にうずくまってしまった。左下腿の肉離れで立つこともままならず、即リタイヤとなった。試合中の肉離れには驚かないが、なにしろボールに触れてもいないうちである。一同唖然とする中、瀬戸スコアラー75歳が代役として守備に着かざるを得なくなった。瀬戸も6月のブロック対抗野球で足を負傷している。不安な状況の中、スタンドからうら若き女性の声援が聞こえて来る。思わずその方向を見ると2名の美女軍団が観戦していた。一瞬北の国からの応援団かと錯覚したが、よく見ると見覚えある女性MRさんたちであった。ベストメンバーには程遠いとはいえ、この力強い応援にはド・クも奮い立たないわけに行かない。

初回ド・クの先発安藤は、2死満塁のピンチを招いたが、強打者森を三振に取り、まずまずの立ち上がりを見せた。一方ペガサス野田は不調であった。立ち上がり3四球でやはり2死満塁とした。ここで7番氏家の3塁ゴロが失策となる間にド・クが2点を先制した。2回裏も野田の調子は上がらない。この回は何と6四球+2死球、さらに(エラーとしてもなんら支障がない)2内野安打、2失策で8点を献上するという悪夢の回となった。打者2巡となる寸前で、野田はマウンドを森に譲った。10対0と大差をつけたものの、ド・クにはヒットらしいヒットがなかった。逆に大量失点で吹っ切れたか、ペガサスは3回、林、下瀬川(3塁打)、吉田のクリーンな3連打で2点を返した。4回の表を終わって10対2。時刻は7時45分。このあと懇親会の予定もあるのでド・クはコールドゲームの提案をしたが、あくまでも逆転の望みを捨てないペガサスはこれを頑強に拒否、試合続行となった。

 4回裏、ド・ク花田が目の覚めるようなセンターオーバーのランニングホームランを放ち、ようやく野球らしくなってきた。さらに5回裏、会議で遅れて到着した佐藤(韶)の3塁打の後、氏家がそつなく犠牲フライを打ち上げて加点した。この回花田はまたも左中間を破り、2打席連続のランニングホームランかと思われたが、ペガサス外野陣の好返球に本塁寸前、惜しくも憤死した。ペガサスは6回、森がセンターオーバーのランニングホームラン、続く小野がレフトオーバーの3塁打を放って最後の抵抗を試みたが、焼け石に水であった。時刻は8時15分。ここに至って、ペガサス首脳陣もようやく逆転は不能と悟った。

 記録には残らないが記憶しておきたいプレーというものがある。2回裏、ド・クは5点を取ってなお1死満塁。2塁走者板垣の不必要に大きな離塁を見て、遊撃手森が背後からスルスルと2塁ベースに入り、呼吸を合わせた野田が振り向きざま鋭く牽制球を投じた。板垣は完全に釣り出されアウトかと思われたが、野田の投球の「間」に痺れを切らした打者伊藤(幸)が直前にタイムをかけており、板垣は難を逃れた。と思ったのもつかの間、その直後である。アウトカウントがわからなくなり離塁したままスコアボードを見ていた板垣は、またしても牽制で釣り出された。さすがに今度はタイムもかかっていない。巻き爪を手術したばかりの3塁走者氏家は迷惑そうにホームに向かい、今度はこちらが3本間に挟まれた。タッチをかいくぐること10数回、氏家は挟殺陣の隙を突きヘッドスライディングで3塁に帰塁した(足がもつれて頭から転がりこんだとも表現できる)。走者が生き残った結果、スコアブックにはこの間の事情が残らないことになったのでここに記載しておく。くれぐれも牽制球には気をつけたいものである。

 懇親会は国際ホテルにおいて、午後9時半という遅い時刻から始まった。千田仙台市医師会長が開会を宣言した後、佐々木巌教授が「第一外科の佐々木です」と昔の名前で挨拶して喝采を浴びた。ジョッキになみなみとつがれた生ビールは、吉田克己教授の乾杯の音頭とともに空になった。野田が試合の講評を担当し、1回と2回がなければペガサスが3対2で勝っていたと、分子遺伝学的な側面から分析したが首肯する者は少なかった。大味な試合になったが、安藤は被安打5、奪三振8、与四球2と相手の守乱にシンクロしない投球をした。野田は昨年より体重を7キロ減らして準備してきたが、4ヶ月前50歳になったその日に五十肩を発症。それ以来続く肩痛にコントロールが定まらず、減量の効果どころではなかった。ド・クの重量打線(体重のことではない)相手に8年間投げ続けた末の勤続疲労であろうか。引退をほのめかす野田に、今日死球を受けた76歳、伊藤(幸)から、「野球で50歳はひよっこだ、まだまだ投げろ」とエールが贈られた。野田には伊藤の米沢戦での死闘の記録を是非読んでもらいたい(仙台市医師会報・平成16年8月号73頁)。下瀬川はこの試合に備えてマイバットを2本用意した成果があり、目の覚めるような2塁打、3塁打を連発した。ゴルフも野球も「最後は道具」と決まっている。また初出場の森は艮陵野球部で板垣の同期生である。ライバル板垣を2度にわたって牽制で誘い出したプレーと、刀折れ矢尽きた野田をリリーフした投球は印象に残った。その板垣は野球部時代にしごかれた野田の前では蒲柳の質になる。ここ数年ノーヒットであったが、今日はサード前にボテボテの内野安打を放って一矢を報いた。

会には武山実、阿部信一の両理事も出席して、話題は野球から医療行政にまで幅広く及んだ。おりしもこの日、国立大学の独立法人化後初となる2004年度決算が発表され、東北大学は東大、京大、阪大に次ぐ1031億円の経常収益を計上した。これは大学全体がコスト削減に取組んだ結果であることは言うまでもないが、大学病院の収益が大きく貢献しているとみられる。研究・教育・診療に加えて、経営の責任も抱えることになった教授陣に医師会員から慰労の言葉がかけられた。夜11時を回ってもまだまだ宴はたけなわであったが、翌日の激務を慮り、ド・ク松井助監督の締めの挨拶をもって会はお開きとなった。

【ペガサス参加メンバー】
野田哲生(分子遺伝学教授)
吉田克己(保健学科教授)
佐々木巌(消化器外科教授)
林富(小児外科教授)
丸山芳夫(細胞生理学教授)
下瀬川徹(消化器内科教授)
小野栄夫(病理学教授)
荒井啓行(先進漢方医学教授)
八重樫伸生(婦人科学教授)
佐々木毅(免疫血液教授)
森弘毅(腎高血圧内科助手)
永瀬智(産婦人科助手)
吉永浩介(産婦人科助手)

【試合経過】
      1  2  3  4  5  6     計
ペガサス  0  0  2  0  0  1     3
ド・ク    2  8  0  1  1  ×    12