仙台ドクタークラブ(2004~2008)

仙台市医師会野球部ホームページ
(広報部編集)
2004~2008年の活動の記録

ドクタークラブ便り  第8回三市医師会親善野球大会 

2007-06-06 | 2007年 三市医師会親善野球大会
とき  平成19年6月2日(土)~3日(日) 
前夜祭会場  ウェルサンピア八戸
試合会場  八戸高校野球場
天候  快晴   気温  28.0℃

窓を開けると暗い海が見えた。
雨の音かと思ったのは海鳴りだった。

「仙台にもずいぶん行ってないわ」
「たまには出てくればいい」
「行ったら戻らないわよ」
「・・・」
「困るでしょ」
「別に」
「3年に一度なんて七夕よりひどい」

男と女は地酒「桃川」を注ぎ合った。ここは港町。
遠征先で昔の恋人に会うのは不思議な気分だ。

「奥さん元気?」
「ああ」
「今日はゆっくりできるんでしょ」
「それが・・・」
「だめなの」
「今日はある人に大切なものを返しに行くんだ」

男は仙台での試合には出てこないのに、八戸遠征には必ず出席するのだった。それはドクタークラブ七不思議の一つと噂されているが、男はその理由(わけ)を人に話したことはない。


北へ向かう旅は、なぜ心を揺らすのだろう。万緑の中、バスは東北自動車道を疾走する。天気が良いのに雨の匂いがするのは、梅雨が近いせいだ。岩手山が端正な姿を見せたのは1時間ほど前。夕焼けが左側の車窓を赤く染め始めた頃、バスは八戸の街に入った。

この大会は仙台、八戸、弘前の三市医師会が持ち回りで開催する。今回は8回目となる。1,2回目は八戸、3,4,5回目は仙台が優勝した。6回目は弘前が地元で悲願の初優勝を遂げた。三回り目に入った昨年の仙台大会では、圧倒的な戦力を揃えた八戸が栄冠をさらい、仙台と優勝回数で並んだ。その前夜祭では、「弘前の太陽」前田慶子女史の訃報が伝えられ、全員で黙祷を捧げたのであった。

午後7時、前夜祭は八戸市民フィルハーモニー「アンダンテ」の弦楽四重奏で始まった。粋な演出である。八戸市医師会長村上壽治から熱烈歓迎の挨拶があり、応えて仙台市医師会副会長松井邦昭、弘前市医師会長田村瑞穂が祝辞を述べた。次いで前八戸市医師会長にして野球部「エルツテ」部長、土井三乙の乾杯の音頭で宴会になった。アトラクションは八戸市民病院の研修医二人による安来節(どじょうすくい)である。豆絞りの手拭をほっかむりし、鼻に割り箸を突っ込んでの珍妙な踊りに会場は爆笑の渦となった。その一人、坂井寛は島根県立浜田高校野球部時代、現ソフトバンクの和田毅と甲子園に出場したという経歴の持ち主である。

弘前のケーシー高峰こと鳴海康安は、故・前田慶子女史の葬儀委員長を無事務めたことを報告し、「偲ぶ会」に仙台、八戸両医師会からも多くの参加者があったことに礼を述べた。「無口な女であった」、「82歳の短い人生であった」と会場を笑わせることは忘れなかった。

今日のハイライトはその後にあった。突然挙手して登壇した浅沼(達)が、自分はここに時価500万円以上するお宝を持っている、と絶叫したので場内は騒然となった。それは村上壽治会長の学部一年時の生化学のノートであった。二人は同級ではない。浅沼が5学年下である。村上会長が昭和41年に同級生に貸したノートが、授業に出ない不良学生の間を巡り巡って、ついに浅沼の所で止まった。以来引越しの度にこのノートを目にし、早く返そう、いつか返そう、今さら返せない、と煩悶するうちに40年の月日が経ってしまったのだという。村上会長は、当時ノートが行方不明になって難儀したことであろう。しかし怒るどころか、今となっては3000万円の価値がある、感動した、と述べた。人が良いのである。(その大学の生化学の講義内容は5年間変わらなかったのだろうか。真面目にノートを取る学生は5年に1人しか出現しなかったのだろうか。)

感動冷めやらぬ中、時計は定刻を指し、苫米地怜青森県医師会常任理事の「明日は野球で点数入れよう!」、「選挙はちゃんと武見に入れよう!」という韻を踏んだシュプレヒコールで閉会となった。

閉会後は、地下のカラオケルームでの2次会に行く者、街に繰出す者、温泉に浸かりに行く者と、思い思いに港町の夜を過ごした。ドクタークラブの怪しき3人組はタクシーで闌(すが)れた屋台村に出動し、得体の知れない焼肉をたらふく食し、翌朝腹具合が良くないと嘆くのだった。

弘前の太陽の加護であろう。雨の心配される6月の試合であったが、当日の空は快晴であった。会場となった八戸高校は高校総体の時期にあたり、ひっそり閑としていた。さすが青森は教育県である。校舎は新しく立派で、野球場はもちろん、野球の屋内練習場、サッカー場、ラグビー場まで完備しているのには驚いた。奥南の地の俊英達はこの学び舎で叡智を磨き、臥牛の山を、太平洋の激浪を越えて雄飛して行くのである。1957年、天城山で愛新覚羅慧生と心中した学習院大生、大久保武道の母校と思えば、なお感慨は深い。その恋は天国に結んだであろうか。

■第1試合 弘前対八戸

試合に先立ち、2年ぶりに優勝杯返還のセレモニーが行われた。一昨年優勝した弘前は二度と会えるか分からない優勝カップとの別れが忍びなく、昨年ついにカップを持参しなかったのであった。連覇を狙う八戸にとって弘前戦は眼中にない。仙台戦に照準を合わせてエース原田を温存しているのが不気味である。弘前は補強選手3人を入れて9人と、今回もやっとのメンバーであり、連勝など端から頭にない。仙台から1勝すればよいとの魂胆で、こちらもエース佐藤淳を温存している。この試合無欲で臨んだ弘前ではあったが、被安打8、失策3はともかく、四球12、死球3、ワイルドピッチ4を与えては、勝利の女神も振向いてはくれなかった。4回に佐藤誠剛の放ったランニングホームランが唯一の見せ場となった。

              計
弘前 0 1 0 3    4
八戸 3 0 8 7    18
(時間切れのため4イニングで終了)

■第2試合 仙台対八戸

事実上の決勝戦である。八戸医師会は、若手勤務医を野球に取り込むために、勤務医の医師会費を大幅値下げしたという。メンバー表を見ると、20歳代の選手が5人、30歳代が4人、40歳代が3人となっている。対してドクタークラブは20、30歳代ゼロ、40歳代5人、50歳代4人、60歳代が1人という構成である。平均年齢は計算しないことにした。ド・クのエース安藤は2年前の5月8日のこども病院戦での黒星以降、10連勝中である。八戸の先発原田は大学野球経験者で、130キロの速球を低めに投げ込む。どちらも手抜きなしの総力戦である。先攻はド・ク。原田の速球は今年も衰えず、初回ド・クは3者連続三振を喫した。その裏、安藤は先頭打者にライト前ヒットを許す。さらに内野の失策が絡み、1死2,3塁となったところで、5番渡邊にセンターオーバーの2塁打を浴び、2点を先取された。

原田のスピードボールは打てないと早々に見切ったド・クは、足攻を仕掛ける。捕手のスローイングに弱点があることを見抜いたのである。2回、内野安打で出た板垣が2盗、パスボールで3進。さらに安藤のゴロをショートが暴投する間に生還して1点を返した。3回は宮地が四球で出て、パスボールで2進。佐藤(韶)のライト前テキサス・リーガーズ・ヒットの間に生還して同点とした。しかし4回裏八戸は坂井のランニングホームランで1点をリード。

最終回、追い詰められたド・クは綿谷が内野安打で出塁。すかさず2盗。さらに3盗を敢行。捕手の3塁への悪送球を誘って生還、同点とした。2死後、板垣が四球を選び、またも2盗、3盗を決めた。ここで迎えるは安藤。強振した打球はボテボテの投ゴロ。これをどうしたことか、原田が1塁に暴投しド・クが逆転した。このまま5回裏を抑えれば3年ぶりの優勝が見えてくる。

僅差での最終回の守備は嫌なものであるが、八戸の攻撃も2死2塁。あと1人というところまで来た。次打者は3塁ゴロ、打球を3塁手ががっちり取った。仙台の勝利は決まったと思われた瞬間、3塁手は走ってきた走者を一瞬見た。投げずにタッチに行こうという弱気な考えが頭をかすめたのだった。思い直して一塁に送ったボールはわずかに左に逸れ、1塁手の足が離れセーフとなった。次打者は1回に先制打を放った渡邊。安藤が投げた渾身の直球はこのラッキーボーイに左中間に弾き返され、2走者が帰ってド・クは無念の逆転サヨナラ負けを喫した。仙台が敗れはしたが、この試合は大会史に残る名勝負として長く語られるであろう。

               計
仙台 0 1 1 0 2   4
八戸 2 0 0 1 2×  5

■第3試合 仙台対弘前

すでに八戸の優勝が決まり、消化試合となった。弘前先発佐藤淳の球速は90km。直前まで130kmのボールを見過ぎたせいでタイミングを合わすのが難しい。初回ド・クは、先頭の菊地(達)が安打で出ると、盗塁、パスボールで生還。1点を先取した。ド・クの先発は浅沼(達)。昨年は中巨摩戦で1イニングを投げ、0点に抑えた。年間防御率0.000がキラキラ輝いている。但し今日は監督から、点を取られたらすぐ交代、と申し渡されている。投球はすべて(少し回転する)ナックルボールである。球速は50km。1回は3者凡退に抑えたが、2回に入ると弘前も目が慣れたか、2点を奪った。打者は、投手が左足を上げてから、「1、2、3」か「1、2の3」のタイミングでバットを振るのが一般的だが、浅沼に対しては「1、2、3、4の5」でちょうど良いことに弘前打者も気がついたのである。

しかし3回表、ド・クは綿谷の3塁打で逆転する。綿谷は3塁を回ってホームを狙うも、外野からの好返球でタッチアウトとなった。綿谷は入部以来、まだホームランがない。スライディングすればセーフかと思われたのでなおのこと惜しまれた。その裏から酒仙松井がマウンドに登る。昨日の酒は残っていない。開幕戦での失敗から悟りを得たようだ。人生は若いときの失敗が多いほど、その晩年、風合いが増していくものである。松井は3,4回を3人ずつで抑えた。三振も2つ取った。

3対2で5回表を迎える。ド・クは2死満塁の好機を作り、4番板垣がライトオーバーのランニングホームランを放った。板垣得意の駄目押し長打にも見えたが、その裏弘前がランニングホームランで2点を入れたので、この4点がなければ、2試合連続の逆転サヨナラ負けとなったところであった。弘前の三塁を守った補強選手、佐藤誠剛の守備は秀逸で、ド・クは安打4本、推定6得点を損した。今日のグランドは硬式用で、しかも連日の好天が土をさらに固くしていた。外野を抜けた打球は止め処なく転がり、3試合でランニングホームラン5本の乱れ打ちとなった。

              計 
仙台 1 0 2 0 4  7
弘前 0 2 0 0 2  4

最優秀選手賞は八戸の渡邊真平に贈られた。渡邊は八戸市民病院の研修医である。仙台戦で最終回、右中間に起死回生の逆転サヨナラ安打を放った。前田慶子賞は原田と堂々と投げあい、前田好みのジャニーズ系(であった)ということもあり(?)、仙台の安藤に贈られた。優秀選手賞は八戸のエース原田、満塁ホームランの仙台板垣、サードで鉄壁の守備を見せた弘前佐藤にそれぞれ贈られた。若さの八戸と知略の仙台、そして衰勢の弘前。この2強1弱時代は当分続きそうである。優勝回数は八戸4回、仙台3回、弘前1回と、八戸が頭一つ抜け出した。

今日の味方は明日の敵。休む間もなく来週は骨肉相食むブロック対抗野球である。わが青葉ブロックは安藤を立てる太白ブロックと緒戦で激突する。安藤に今日の疲れが残っていることを密かに願うものである。

帰路の東北道で、車窓から藤の巨木を見た。人跡無き山峡に凛として咲く薄紫の花。その気高い姿に津軽の女医の孤高な生涯を想ったのであった。

前田先生 
ご覧になっていますか
貴女が産んだこの大会は 
今年も盛会のうちに終了しました
私たちはあなたの写真の前で 
泣くことをしません
そこに貴女がいないことを   
知っているからです
きっと貴女は背番号100の 
ライトグレーのユニフォーム姿で
津軽の空を悠々と 
飛遊しておられるはずです
春には鬱金の桜を咲かせ
夏は太陽となって野球を見守る
秋には林檎に紅を指し
冬は雪となってお山を白く眠らせる
のんびり紫煙をくゆらせて 
球友たちが行くのを待っていて下さい
そんなに時間はかかりません
来年は三年ぶりに弘前におじゃまします
空が晴れて岩木山が見えたら 
貴女が微笑っていると思いましょう

文責 宮地辰雄



背番号100は前田先生。背番号1は葬儀委員長鳴海康安先生。
 (2005年6月12日 つがる克雪ドームで)