仙台ドクタークラブ(2004~2008)

仙台市医師会野球部ホームページ
(広報部編集)
2004~2008年の活動の記録

ドクタークラブ便り  対米沢市医師会戦

2005-07-27 | 2005年 米沢市医師会戦
 
 とき  平成17年7月24日(日) 
 ところ  ウエルサンピアみやぎ泉
 天候  曇りのち晴れ   気温 26℃

梅雨は明けそうで明けず、大型の台風7号が接近する中での試合になったが、天候はまずまず、気温もこの時期としては涼しい野球日和となった。一昨年の対戦は0対0の息詰まる投手戦、昨年はアウェーで主力を欠いたとはいえ、1対17と思い出したくもない大敗を喫した。ド・クは2年間で1点しか取れていない。米沢の主戦・篠村(元山形東高校野球部投手、30歳)に2年連続で抑えられたのが効いている。今年は何としてもその120キロの速球を打ち崩さなければ勝利はない。

しかし当日になって篠村は急用で来仙しないことが判明した。高校の先輩である板垣と宮地が野球道を教示すべく待ち構えていたのに残念なことであった。代わって仙台戦初登板となる米沢の先発・大道寺は右の本格派。名前も大きいが身体もでかい。長身から投げ下ろす速球は篠村に劣らないように見えた。一方仙台は昨年の雪辱を果たすべく、投手4枚看板を準備した。エース安藤が先発し、後ろには松井、花田、伊藤(孝)が控えるという豪華布陣である。さらに山形に赴任している正捕手菊地(達)も遠路駆けつけた。これで勝てないはずはない、が、万一負けたらどうしよう、という程のベストメンバーである。

試合が始まってみると、大道寺は球威こそあるものの、ストライクを取るボールが真ん中に集まる難点があり、それをド・クの各打者に狙い打たれた。さらに捕手の出すサインが1塁コーチャーから丸見えであることに総監督・佐藤(勤)が気付いた。

1回裏、3番松井のライト前ヒットでド・クがまず先制。松井はパスボールで2進、佐藤(韶)の3塁打で快足を飛ばして生還した。還暦を迎えてさらにスピードを増した走塁にベンチは沸いた。1回裏の攻撃で相手捕手のサインの解析を終えた佐藤(勤)から、情報が打者に即時伝えられる。これがド・クの目指すID野球である。こうして4回までに大道寺に単打4本、2塁打1本、3塁打2本を浴びせ、6対0と一方的にリードした。

これで大勢は決したと監督・佐藤(徳)が左手にウチワを持った途端、米沢の猛反撃が始まった。5回表、まず先頭の大道寺が意地のレフト前ヒット。1死後堀内がセンター前に火の出るような一撃で続き1,3塁。ここで1番石橋の打ち上げた飛球はイージーフライと見えたが、センターがこれを落球して1点。(これがド・クの本日唯一のエラーであった。マーフィーの法則に「野球の試合において、エラーは最も出てほしくない場面で出る」とあったような気がする。)さらに横山のセンター前ヒット、中條のセンターオーバーの2塁打で3点を追加し6対4と試合は俄然緊迫した。

米沢の集中打は見事であったが、6点差をひっくり返されてはベストメンバーのド・クに何の面目があろうか。必死のド・クはその裏4安打、1四球、6盗塁で4点を挙げ、10対4とした。この回松井は四球で出塁後果敢に2盗。さらに安藤のレフト前ヒットで3塁に向かった際、足に肉離れを起こしてリタイヤとなった。次のペガサス戦での登板が憂慮される。初回に走塁を褒めたのがよくなかったのかもしれない。ここで再び6点差に戻って米沢はついに気力が萎えた。6回、7回は、セットポジションからワインドアップに代えた安藤に3三振を奪われ万事休した。安藤は後ろに3投手が控える安心感からペース配分を気にせずに伸び伸びと投げ、完投してしまった。ド・クの15盗塁のうち4つは3盗であったが、これは1塁送球に自信のない米沢の3塁手がベースの1メートル前に守っているのを見抜いての頭脳的走塁であった。大道寺はストライクゾーンの4隅でカウントを取れるようになれば飛躍するであろう。20年後が楽しみである。

表彰式は仙台国際ホテルで行われた。最優秀選手は仙台の安藤、優秀選手には米沢の横山、中條、大道寺が選出された。乾杯の後は勝敗を忘れての和やかな歓談となった。話題は、最近の子供達の野球離れ、昔の軟式球はよく割れたこと、ボールが貴重だった頃はボールが割れたりファウルで紛失した場合打者はアウトになったこと、軟式球でナックルボールは可能か、そんぴんラーメンのお勧めの店、米沢牛は「鳥勝」という店がよい、など古今東西多岐に渡って尽きることがなかった。

今回は米沢が遠征メンバーの動員に苦心したという。これで2年連続ホームチームの大勝となった。この対戦はアウェーで勝ってこそ意義がある。来年は是非ベストメンバーで米沢に乗り込みたい。今年のド・クは3勝4敗(勝率0.429)となった。弘前で2連敗して、一時は1勝4敗と落ち込んだが5割復帰も目前である。開幕戦の記事で「ベガルタと楽天の勝率を上回ることは間違いない」と宣言したが、この日の時点でベガルタは9勝9敗4分(同0.500)、楽天は28勝61敗1分(同0.315)である。8戦目以降のベガルタの頑張り(8勝4敗3分)は想定外であったが、最終的にド・クの勝率が両者を上回ると確信している。

循環器医・佐藤(韶)が毎回野球鞄に忍ばせているAEDは本日も出番がなく、佐藤はいかにも残念そうであった。いつの日か出番が来ることを、いや来ないことを(どっちだ?)祈っている。

米沢 0000400 4
仙台 202242× 12

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【附】 「1989年の球児たち」

 毎年この時期になると1989年の高校野球を思い出す。暑い夏であった。甲子園には東北旋風が吹き荒れていた。ベスト4に仙台育英と1年生エース・中川申也を立てた秋田経法大付属が残り、優勝旗が初めて白河の関を越えると期待されていたのである。仙台育英は準々決勝で元木大介(現巨人)と種田仁(現横浜)を擁する上宮を撃破して波に乗っていた。準決勝の仙台育英対尽誠学園戦では、仙台育英のエース・大越基と尽誠学園のエース・宮地克彦との死闘が大観衆を釘付けにした。仙台育英は延長10回、3対2で勝ち決勝に進んだ。同じく準決勝、帝京対秋田の試合は、エース吉岡雄二の帝京が秋田を下した。仙台育英と帝京との対決になった決勝は、延長10回2対0で帝京が勝ち、東北に優勝旗が来ることはなかった。

それから16年が経つ。宮地克彦は仙台育英との試合、40度の発熱を押して投げていたことを後に聞いた。親戚ではないが同姓ということもあって気にかかる選手であった。その秋、彼はドラフト4位で西武に指名された。ちなみに1位は潮崎哲也、3位は大塚光二であった。プロ入り後は故障に悩まされ、1993年野手転向。長い間二軍の首位打者に甘んじた。東尾監督後期にようやく一軍に定着、続く伊原監督下では100試合に出場してリーグ優勝に貢献した。しかし2003年オフ、若返りを図るチームの方針から解雇され、ダイエーにテスト入団。2004年は規定打席不足ながら0.310の好成績を残した。そして今年、激しいレフトの守備位置争いを制しレギュラーに定着した。 前半戦打率0.333と堂々パ・リーグ2位に着け、プロ16年目にして初のオールスター出場を果たした。

吉岡雄二はドラフト3位で巨人に入団するが、やがて野手転向。4年目の1993年に1軍初出場を果たすも、長嶋監督のスター選手優遇方針の下で出場機会に恵まれず。1996年オフに石井浩郎とのトレードで、石毛博史とともに近鉄に移籍。1998年にようやく素質が開花し13本塁打。1999年からレギュラーに定着。2001年からは2年連続で26本塁打。2003年は3割も記録。ローズが抜けた2004年は、主砲として期待されたが、オープン戦で走塁中にアキレス腱を断裂。1年を棒に振る。同年オフ、新球団となる東北楽天に移籍。仙台育英の優勝を阻んだ男が仙台市民の声援を受けるという皮肉な巡り合わせになった。

大越基はプロの誘いを蹴って早稲田大学に入学。1年生時、大学野球で全国制覇を成し遂げるが、野球部になじめず中退。単身渡米して大リーグ傘下サリナーズでプレー。翌1992年のドラフトでダイエーに1位指名で入団。投手として数試合登板するも結果を出せず野手転向。俊足に期待がかけられた年、アキレス腱断裂。2000年、不屈の闘志で復活し開幕から1軍に定着したものの出番は守備固め、代走のみであった。2003年引退。現在は指導者を目指し大学でスポーツ科学を学んでいる。

あの夏、われわれの胸を熱くしてくれた選手たちの軌跡である。彼らにしても野球の道は決して平坦ではなかった。3人の球児は今年34歳になる。                        文責 宮地辰雄