仙台ドクタークラブ(2004~2008)

仙台市医師会野球部ホームページ
(広報部編集)
2004~2008年の活動の記録

第7回三医師会親善野球大会 2006.5.20

2006-05-27 | 2006年 三医師会親善野球大会
ドクタークラブ便り  第7回三医師会親善野球大会 

巨星、墜つ 

とき  平成18年5月21日(日) 
  ところ  ウェルサンピアみやぎ泉
  天候  快晴   気温  23.7℃

青葉祭りには雨が降る、とは仙台では言い古されたジンクスである。運動会の日程をわざと青葉祭りとずらす小学校もあるほどである。今年の大会日程は青葉祭りと重なった上、1週間前に降水確率30%が出るに至り、ドーム球場を予約し損ねた関係者は遠来の客人の前での土下座を覚悟した。しかし降水確率は3日前に20%、前日には0%と改善し、雨の心配はなくなった。

今回で7回目となるこの大会は、1,2回目は八戸、3,4,5回目は仙台が優勝した。そして前回は弘前が悲願の初優勝を遂げた。弘前医師会の初優勝は地元紙東奥日報でも大きく報道され、市民がこぞって祝杯をあげたという。今回仙台はもちろんホームで4回目の優勝を狙う。4大会連続で優勝から遠ざかっている八戸は、仙台に優勝回数で並びたいと考えている。弘前ナインは二度と会えるか分からない優勝カップとの別れが忍びなく、ついにカップを持参しなかったため、優勝杯返還と贈呈のセレモニーは無しとなった。

前夜祭の冒頭、司会者より、「弘前の太陽」前田慶子女史が5月13日に逝去されたことが報告され、全員で黙祷を捧げた。わずか1週間前のことであり、会員の大半はここで初めて訃報に接したのであった。会場には背番号100のユニホームと遺影が飾られた。女史は1986年のNHK大河ドラマ「いのち」のモデルであり、女医会の発展にも尽力されてきた。この日東京で日本女医会第51回総会が行われていたのも何かの縁であろうか。

アトラクションタイムには、仙台市医師会員で構成されるアンサンブルドッグミヤギ(アンサン・ブルドッグではない)の演奏が披露された。このバンドは活動開始から34年目になる。「ブリーズアンドアイ」で軽快に始まった演奏は「エーデルワイス」、「テネシーワルツ」と優雅に続き、来賓に楽都仙台を印象づけた。

前夜祭終了後、国分町に河岸を移して2次会が行われた。昨年弘前で、先発松井を4次会まで連れ回されて臍を噛んだ仙台は、八戸のエース原田に毒酒をたらふく用意したが、奥寺監督のブロックサインを見た原田は早々に会場から逐電したのであった。

■第1試合 弘前対仙台

試合当日、まっ青な仙台の空に昇ったのは神々しい弘前の太陽であった。その加護の下、前田チルドレン達は思う存分にプレーを楽しむことが出来た。

弘前は今回ぎりぎりの人数で来仙している。しかもスタメンの平均年齢は57.9歳と高い。試合前、仙台ベンチには、弘前組みし易し、のムードが生まれていた。

1回表、ド・クの先発松井は弘前に1点を献上したが、その裏ド・クは58歳三国谷を攻め、相手の3失策に乗じ、1安打ながら4点を奪い、早くも楽勝ムードが漂った。しかし今季初登板となる松井の調子は上がらず2回表に2点を奪われる。仙台はその裏、2連打と犠飛で効率良く3点を取って再び7-3と突き放した。この試合を前田慶子の弔い合戦と位置付ける弘前は3回表、猛然と松井に襲い掛かり、打者11人で5安打を集中、一挙5点をあげ、ついに7-8と逆転した。この回の弘前打者には「弘前の太陽」の怨霊、もとい御霊が乗り移っており、打球は野手のいない所へ、いない所へと神がかりのように飛んで行った。

仙台もその裏、したたかに無安打で1点を取り、同点に追いつく。4回表、阿部新監督は八戸戦先発予定の安藤をリリーフに送り、弘前の反撃を断った。切り札の早期投入が後に響いてくるとは、そのときは神のみぞ知ることであった。

その裏、遊撃のエラーで出た菊地(達)がワイルドピッチで進塁。1死3塁となったところで試合時間は80分を越え、規定により新しい回には入らないことになった。勝ちのなくなった弘前は引き分けを狙い、4番、5番を敬遠して満塁策を取った。四球が許されない場面では投手の腕は縮む。草野球で満塁策は十中八九失敗する。果たして次打者高橋は、三国谷が真ん中に置きに来た初球を強振。打球は三遊間を抜け仙台のサヨナラ勝ちが決まった。

 弘前 1 2 5 0    8
 仙台 4 3 1 1×   9 

■第2試合 八戸対仙台

事実上の決勝戦である。3年間優勝から遠ざかっている八戸は必勝を期して4人の若手勤務医を補強してきた。若手を野球に取り込むために、勤務医の医師会費を大幅値下げしたという。前夜毒酒から逃れた先発原田(36歳)は130キロの速球を投げ込む。捕手田中(28歳)は去年松井から柵越えの満塁本塁打を打った記憶が生々しい。どちらも大学野球経験者である。一方仙台は主戦安藤を立てこれに挑む。ハイ・レベルの試合が期待された。

初回安藤は簡単に2死を取った後、3番原田に三塁強襲安打、4番田中にワンバウンドでレフトフェンスに当たる大2塁打を浴び1点を失った。原田は球速もコントロールも申し分なく、130キロがコーナーにビシビシ決まる。

1回裏、1,2番が連続三振に倒れた後、板垣が振り遅れながらライト前に弾き返した。ここで4番安藤が見事にセンターオーバーの2塁打を放ち同点とした。しかしここでアクシデントが起きた。2塁まで走った安藤が塁上で両腕を交差させ「×」のサインを出している。古傷の左足の肉離れの再発だった。先の試合でリリーフしたツケが回ってきたのである。安藤は無念にもここでリタイヤとなった。

2回表は、それまでベンチにいた伊藤(幸)のスクランブル登板となった。投球練習も無しに上がったマウンドであったが、伊藤は老獪であった。ただでさえ遅いボールをさらに遅く投げ、八戸の強力3、4番を見事内野ゴロに仕留めたのである。このときばかりは八戸ナインからも賞賛の拍手が贈られた。

原田の球威は最後まで衰えることなく、ド・クは反撃どころか、15アウトのうち10アウトを三振で取られた。1,2番に至っては2人合わせて6打数で5三振という有様であった。安藤がリタイヤした時点で勝負は着いていたとも言える。

 八戸 1 2 3 1 0   7
 仙台 1 0 0 0 0   1 


■第3試合 弘前対八戸

弘前が勝てば三すくみとなり、優勝は9人ずつのじゃんけんに持ち込まれる。ド・クは弘前を応援しつつ、後出しじゃんけんの練習に励む。八戸の先発は澤。弘前は58歳三国谷の連投である。

初回八戸は2点を先取したが3回表、弘前も2点を返す。沸き返る弘前・仙台ナインをよそに、八戸はその裏、疲れの見える三国谷から大量9点を奪った。これで11対2となり八戸の4年ぶりの優勝は決まったと思われたが、4回裏、八戸は刀折れ矢尽きた三国谷からさらなる9点を奪った。前夜、弘前の鳴海弘憲理事は八戸の奥寺監督に、今回は前田慶子の弔い合戦なので多少の配慮を、と頼み込んだというが、何ほどの効果もなかった。この執拗な攻撃は、見るものに文政4年の相馬大作事件を連想させた。南部藩末裔の潜在意識に江戸時代からの怨念がまだ生きている?・・・そんなことはありえないが。

 弘前 0 0 2 0 1    3
 仙台 2 0 9 9 ×   20 

最優秀選手賞は優勝した八戸の若きエース原田に、打撃賞は八戸の4番田中に贈られた。田中は2試合で6打数5安打(2塁打3本、単打2本)と打ちまくった。このバッテリーがある限り、八戸の黄金時代が続きそうである。わがドクター・クラブからは、第1試合で見事なサヨナラ安打を放った高橋と、第2試合で急遽登板し、今日唯一田中を討ち取った伊藤(幸)が優勝選手に選ばれた。これで優勝回数は仙台、八戸が3回と並び、弘前が1回となった。

東奥日報の訃報記事を引用する。
「前田慶子氏(まえだ・けいこ=県女医会会長、前田医院院長)
 平成18年5月13日午後7時48分、肺がんのため東京都内の病院で死去、82歳。自宅は弘前市桜林町×の×。通夜は23日午後6時半から、葬式は24日午前11時から、ともに弘前市南城西2の11の3、公益セレモニーホールで。喪主は妹の芙美子(ふみこ)氏。葬儀委員長は鳴海康安氏。東京女子医学専門学校卒。専門は産婦人科。1966年に前田医院開業。1991年、県女医会会長に就任。98年から2004年まで弘前市医師会副会長。2000年に県知事賞、2001年厚生労働大臣賞を受賞。」

この大会には、前田先生の演説を楽しみに参加する者も多かった。毒舌、毒演会と言われたが、言いたい放題に見えて、決して人を傷つけぬよう、一言一言には繊細な気配りがあったのである。その記憶力と観察力は80歳を越してなお驚異であった。昨年、筆者も前田慶子賞の栄誉に浴したが、診察室に飾った手書きの賞状と津軽塗の夫婦箸が形見となってしまった。

「前田慶子の処女を守る会」初代会長を務めた鳴海弘憲理事によると、意外にも女史は非常な潔癖家で、タクシーのドア、電話にも素手では触れず、同居の妹さんとも風呂、トイレを別にし、癌研に入院中もマイシーツ、マイタオル、マイ枕を通したそうである。そこまで潔癖な方がヘビースモーカーだったとは、人間はつくづく不可思議である。

弘前チームでは、「前田慶子の目が黒いうちに優勝旗を!」が合言葉だったという。背番号100は100歳まで生きる宣言だったが、昨年その悲願が成就したため娑婆への未練がなくなってしまったのだろうか。夢は追いかけるもの、叶ってはいけないのであった。病床での最後の一言は「私、寝るわ」だったという。
前田慶子賞は今後も継続され、大会の生みの親である帷子(かたびら)康雄先生から贈呈されることが理事会で決まった。

弘前市のりんご公園にある石坂洋次郎文学碑には次のような文章が刻まれている。

「物は乏しいが空は青く雪は白く、林檎は赤く、女達は美しい国、それが津軽だ。
私の日はそこで過され、私の夢はそこで育くまれた。」

美しい国で崇高な生涯を全うされた女性であった。ご冥福を心からお祈りします。合掌

                       文責 宮地辰雄