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網走市 北海道立北方民族博物館②ニヴフ(ギリヤーク) ウリチ ナナイ ドゥハ(ツァータン)コリャーク ハンティ   

2024年08月07日 09時11分23秒 | 北海道

北海道立北方民族博物館。網走市字潮見。天都山・道立オホーツク公園内。

2022年6月16日(木)。

ニヴフ(ニブフ、Nivkh)は、主としてロシアに住む少数民族である。その多くは樺太(サハリン)、アムール川(黒竜江)下流域に住んでいる。ロシア革命(1917年)以前は、ギリヤーク(Gilyak)と呼ばれた。アイヌとも、ツングース・満洲系諸族やモンゴル系民族とも系統の異なる民族であり、古シベリア諸語(旧アジア諸語)の一つである固有の言語ニヴフ語を話す。歴史的にはアイヌやツングース・満洲系の諸民族と密接なかかわりを有し、文化要素においても共通性が認められる。

アイヌは樺太北部東岸のこの種族を「ニクブン」、樺太北部西岸や大陸の住人を「スメレンクル」と呼んだ。

民族学者の佐々木高明は、ニヴフの本来の居住地は樺太であり、和人に追われて北上したアイヌに圧迫されて、一部がのちに大陸に移住したとしている。それに対し、歴史学者の洞富雄はアムール川下流域がニヴフの故地で、満洲化したゴルド族(ナナイ)らの圧迫で河口部に追いつめられ、一部が樺太北部に移ったとしている。

民族学者のゾロタリョフは、エヴェンキをはじめとするツングースの移動が、ヤクート人のオホーツク海沿岸地域への移動を促したという仮説に立ち、パレオアジア系(古シベリア系)民族はかつてアナディリ川流域(チュクチ自治管区)からアムール川流域に至るまでの長い海岸線とそれに連なる一帯に住んでいたと考え、そこにくさびを打ち込んだのがツングース系諸族の民族移動であったと主張している。

いずれにせよ、ニヴフはこの地域でおそらく最も古い先住民(のひとつ)で、この地域の新石器時代からの文化的伝統を継承してきたことは、おおよそ認められている。

オホーツク文化3世紀から13世紀にかけて営まれた「海の民」による海獣狩猟・漁撈文化であり、そこでは、木舟を用いた広範囲な活動が展開されていた。オホーツク文化の広がりは、北海道北東部、サハリン島(樺太)、千島列島を中心に、一部はカムチャツカ半島、アムール川河口部にまでおよんでいたと考えられる。考古学的な成果からはホッケやニシンなどの魚、アザラシ、トド、イルカなどの海獣を食していたほか、ブタの飼養もおこない、精神文化の面ではクマ信仰のあったことが判明している。

ニヴフの先祖は、同じ樺太先住民であるウィルタ(ツングース系)や樺太アイヌ(系統不明)とともにオホーツク文化の担い手であったと考えられている。

杜佑『通典』をはじめとする中国の史料は、640年、唐の都長安に「流鬼国」からの遣使が訪れ、唐に入貢したと伝えているが、これは樺太島からの使者であった可能性が指摘されている。樺太は環オホーツク海文化圏とユーラシア大陸を結ぶ扇の要であった。歴史学者・考古学者の菊池俊彦は、この使節は現在のニヴフに連なる人びとであったろうとしている。また、このとき流鬼国の使者は「自分たちの住む地より北に1ヶ月行程の先に夜叉という国がある」と唐側に伝えたが、菊池俊彦は、この「夜叉」とはコリャーク人の先祖ではないかという見解を示している。

元朝の史料では、アムール川下流域から樺太地域にかけて居住していた吉里迷(ギリミ)は、モンゴル帝国の将軍のシディの遠征によって1263年(中統4年)、モンゴルに服従した。翌1264年(至元元年)、吉里迷の民は「骨嵬(クイ)や亦里于(イリウ)が毎年のように侵入してくる」とクビライに訴えた。ここに登場する「吉里迷」はギリヤーク(ニヴフ)を指しており、「骨嵬」は樺太アイヌであると考えられる。

1282年、元朝は女真族に対し樺太遠征のための造船を命じ、1284年から1286年にかけて樺太に侵攻した。特に1286年は「兵万人、船千艘」という大軍による侵攻であった。しかし、ニヴフは必ずしも一枚岩ではなく、樺太アイヌに味方する者が現れ、1296年にはニヴフのホフェンやブフリといった勢力が反元朝の行動をとるようになって、戦況が変わった。1297年以降、樺太アイヌの「瓦英」「王不廉古」が大陸へ渡り、元軍と衝突した。1305年、樺太アイヌの側が攻勢をかけたが、1308年、樺太アイヌの首長たちはニヴフを通じて元朝に投降し、毛皮の貢納を条件に和を請うた。

明朝の永楽帝は1411年、宦官イシハに命じて兵1000余名、巨船25艘を与えアムール川河口のヌルガンを遠征させ、ヌルガン郡司を開設した。1412年、イシハは樺太アイヌらに衣服や米を与えて饗応し、1413年にはかつて観音堂があったという場所に永寧寺を建立した。なお、現在のハバロフスク地方ウリチ地区ティル村に所在する永寧寺の遺構は、ロシアの考古学者によって発掘調査がされた。

17世紀、コサックによるシベリアへの東進が著しいロシア・ツァーリ国と満洲の地より勃興して中国大陸を支配するに至った大清帝国とが国境をめぐって対立した(清露国境紛争)。1650年代初頭、エロフェイ・ハバロフ率いるコサックの一派はアムール川に臨む清側の拠点ヤクサ(雅克薩)を奪い、同地をアルバジンと改めて東方進出への拠点とした。ロシア人はアムール川を下りながら先住民からヤサク(毛皮税)を徴収したが、そのときの台帳によれば、17世紀中葉のギリャーク(現在のニヴフ)の居住域は、最近までのそれとほぼ同じであることが判明している。

1652年、現在のハバロフスク周辺とみられるアチャンスクで清露の戦闘が起こった。1658年には朝鮮国軍も動員した清国側が勝利し、アムール川流域からロシア人を駆逐してニヴフやウリチを貢納民に加えた。

1746年から1747年にかけて、満洲族(女真族)が樺太に来航し、北緯51度から52度一帯のニヴフは清朝の影響下に入った樺太アイヌの首長ヤエビラカンがニヴフや外満洲のウリチ(山丹人)の交易者を殺害した事件を契機として樺太アイヌも清朝の影響下に入ったが、清は植民活動は行わず、各地域の首長が貢物を持参することで良しとした。

こうした状況のなか、江戸時代中期以降、北海道 - 樺太 - アムール川(黒竜江)流域を舞台に山丹交易とよばれる大規模な交易が展開されたウリチやウィルタ、アイヌとともにニヴフもこの交易に加わった。

山丹交易の中心は、南樺太のアイヌとアムール川下流域に住んでいたウリチ(山丹人)であり、アイヌは、樺太で捕獲されたテンやカワウソ、キツネの毛皮、日本製の鉄鍋や小刀を持ち込み、一方、ウリチ側からは「蝦夷錦」として珍重された中国製の絹織物の官服、青玉、鷲羽などがもたらされた。

1700年(元禄13年)、松前藩が江戸幕府に提出した『松前島郷帳』の「からと島」の項に「おれかた」「にくふん」の記載がみえる。「おれかた」は「オロッコ(ウィルタ)」、「にくふん」はニヴフと考えられる。

間宮林蔵は、1800年(寛政12年)に蝦夷地御用御雇に任じられ、1808年(文化5年)樺太探検を命じられた。このとき、林蔵は樺太西岸のニヴフの集落を訪れ、デレンに置かれた清朝の出先機関のことを聞いている。1809年(文化6年)の探検によって林蔵は、樺太が島であることを確認し、ニヴフの人びととともに、のちに「間宮海峡」と称される海峡を渡って外満洲からアムール川下流地域へ到達、さらに清朝官吏が現地人の撫育と交易のために設けたデレンの役所を訪れ、官吏と面会した。

清露間の国境は、1858年のアイグン条約によってロシアがアムール川左岸地域の領有とアムール川航行権を獲得し、1860年の北京条約ではウスリー川以東の外満洲(現、ロシア沿海州)の領有も清に認めさせた。これにより、ニヴフの居住域のアジア大陸側はロシア帝国の支配するところとなった。かつての山丹交易路は分断され、これに頼っていたニヴフらの少数民族にとっては深刻な打撃であった。

1875年の樺太・千島交換条約により、サハリン全島がロシア領となってニヴフの居住域は完全に帝政ロシアの支配するところとなった。

1945年以降は樺太全島がソビエト連邦領となったが、ニヴフやウィルタのなかには北海道へ移住した者もいた。

ニヴフは、伝統的には、漁撈を主業とし、狩猟を副業として半定住の生活を営んできたが、歴史的にはさかんに交易にたずさわってきた民族である。漁撈がニヴフにとって一年を通じての主要な生活手段であり、狩猟はあくまでも補助的な役割しか持たない。

漁撈で最も重要なのはサケ・マス漁で、川沿いに網をかけて行う。海獣狩猟ではトドやアザラシが重要で、トドは固定網で狩り、春の初めから夏にかけて行われるアザラシ猟では、棍棒や銛が用いられた。

陸地での狩猟は周辺諸族に比較すれば重要性は低いものの、クマやクロテンなどがおもな狩猟対象で、銃、わな、弓矢が用いられた。

イヌを重視することは樺太アイヌ以上であり、常に多数飼っていた。伝統的な交通手段は、主として犬ぞりとスキーであった。犬ぞり用に訓練された多数のイヌを飼うには大量の魚や海獣の肉が必要であり、漁撈・海獣狩猟の経済とイヌの飼育は分かちがたく結びついていた。イヌは、ニヴフにとって貴重な財産であり、贈り物や儀礼の際には供儀としても用いられた。イヌは食用としても、毛皮で衣服をつくったりするのにも利用された。水上の主要な交通手段としては、大型の外洋船と河川用の丸木舟があった。

ニヴフ社会は「女尊男卑」の社会であり、間宮林蔵『東韃紀行』にも、ニヴフでは、たとえ女性にどんな過失があっても女性を殺すことは絶対に許されないことが記されている。女性は全体として数が少なく、早婚であったため大切にされ、特に裁縫の上手な女性はとても大切にされた。

社会生活は氏族制の原理によって支配され、伝統的にはシャーマニズム(巫俗)を奉じてきた。

生者と死者の世界を取り結ぶ動物として、クマが大切にされてきた熊祭りは、アムール川下流からサハリンにかけての諸民族に広がっており、ニヴフ・アイヌのほか、ウリチ族・オロチ族にもみられる。

熊儀礼、物質文化、豊かな口承文芸の世界など、アイヌ文化との共通点も少なくない。

漁撈とアザラシ猟を生業とするニヴフは、当然ながら魚の豊富な地点を選び、なるべく水際に住もうとする一方、住地としては、春の雪解けによる氾濫で浸水しないような高燥な沿岸の、舟着場をともない、なおかつ高い森林や繁茂する灌木に囲まれて冬の嵐や吹雪が避けられるところを理想としてきた。したがって、夏の条件と冬の条件をともに満たすような場所には定住的な集落が営まれるが、そうでない場合は夏用の村、冬用の村が別個につくられることになる。その場合、年に2回、夏村と冬村の間を移動することになるが、いずれも定住的な集落である。

半地下式住居は、かまどと囲炉裏をともなう冬用住居で、1920年代以前にはオンドル装置によって煙を暖房に使ってから外部に排出していた。アイヌから伝わったともいわれる住居で、外観は土まんじゅうの形をなしており、冬には雪に覆われ、煙出しの部分だけが外部にあらわれる。

内部は木でピラミッド状の骨組みが組まれ、その上から土をかぶせて外壁としている。囲炉裏の火は絶やさぬよう常に灯されていた。入口は必ず東向きに、土まんじゅうから突き出して設けられた。半地下式なので敷居と土間の間に高低差があり、出入口に階段をともなう場合とともなわない場合がある。

夏季用住居は地上にそのまま建てる地上式と、杭上に建てる高床式があった。

かつては、家を建てるのに先立ち、悪い霊が近づかないようにするため、一連の儀式が執り行われた。それは、家の四隅でそれぞれ生贄となるイヌを1匹ずつ殺し、その血を隅の柱に塗り付けるというものであった。家が完成すると祝宴が開かれ、殺された4匹のイヌの肉が客にふるまわれた。また、その頭蓋骨は屋根の上に置かれ、魔除けとされた。

代表的な履物は、アザラシの皮を用いた長靴である。足の甲の部分と靴底は毛を取り除いて利用し、胴の部分は毛を表にした皮を膝まで伸ばし、ズボンをその中に入れて紐で縛り付けて異物が靴のなかに混入するのを防ぐ。

ニヴフの母子母親は魚皮を縫い合わせたシャツを着ている。また、子どもをゆりかごに立たせて育てる風習が描かれている

ニヴフ社会は数十もの外婚的父系氏族に分かれていて、1つの氏族は多くて80人、だいたいが50人ないし60人から成っている。氏族の成員は、結婚費用の支払いや葬儀、殺人事件の賠償などといった際には相互に扶助する習わしになっていた。氏族間の婚姻には族外婚規制が厳重に守られ、父方が同じ親族とは結婚できない。

19世紀末から20世紀初頭にかけてギリヤークの氏族は67を数えた。氏族の名はクマ、アザラシ、鳥などの動物名、人のあだ名、一年の月名、場所名などに由来するものが多かった。

ニヴフの伝統社会では、父親の地位は相当に高く、家庭内で妻子は父に対して敬語を使うことになっており、また他人の前、公式の場では女性は男性を立てることが求められた

婚姻は、古いグループ婚の名残りをとどめる。表面的には一夫一婦制であるが、兄(従兄を含む)の妻は弟(従弟も含む)にとっても妻であり、弟側は兄嫁に髪を漉いてもらったり、シラミをとってもらったり、性交渉権さえもっている。弟はいつでも兄の代理を務めることができ、また、妻と弟の間にできた子どもは社会的には兄の子として扱われる。

宗教では、伝統的なアニミズム的信仰が人びとの精神生活を支配している。ニヴフの人びとは、宇宙を海、山、大地、天空の世界に区分し、それぞれに最高神(タヤガン)=「主(ぬし)」がいるとされ、その下に諸々の神(クス)や悪霊(ミルク)がいて人間に恵みや善、災いや悪をもたらすと考えてきた。「主」のなかでは、とりわけ、「山の主」と「海の主」が重要とみなされ、「山の主」「海の主」は、それぞれ山の幸、海の幸をもたらすものとして尊崇され、定時をもって儀礼を行い、供物をささげて豊穣を祈願する一方、感謝の念をも伝えてきた。

クマは山の世界の人間とみなされており、下界に対応する氏族をかたちづくると考えられている。熊送りの行事や「水の主」の儀礼は、それゆえ氏族の祖先崇拝儀礼の意味を有している。氏族全体で行われる熊祭りには「婿の氏族」の代表者が招待される。

熊送りの行事は、森のなかで子グマをとらえて数年飼い、多くは冬の佳日を選んで育てたクマを殺し、「山の主」に捧げて祝宴を開き、踊りや犬ぞり競走などを行うという一連の営みをともなっている。クマはニヴフの同族とみなされ、祭りの際も人びとはクマに様々なかたちの敬意を示し、殺すことを怒らないよう懇請する。殺されたクマの霊魂は森林のなかの同族のもとへ赴き、人間がクマに対し親切だったこと、人間はクマの友であり、彼らと友だち付き合いをしなければならないことを物語るものと考えられた。

それぞれの氏族がそれぞれのクマを持っており、各氏族の守護者とみなされた。祭りの残骸となったクマの鼻や爪、頭骨などは氏族の神聖な遺物として大切に保管され、殺されたクマはその子孫として復活するものと信じられた。

ニヴフにおいては、人生は「地上の時代」の次に他界(ムルィヴォ)と「自然界」の時代を経るとみなされていた。「地上の時代」は最も短く、他界では人間の霊魂は新しい物質的形態を獲得して氏族の仲間たちと暮らすものと考えられている。そこで死ぬと、人間は第三の世界に落ちて、草や木、鳥、蝶や蚊などの昆虫に転生するとみなされる。

この世のはじめの天空には複数の太陽と月があったが、余分の太陽・月が征伐されて1個ずつとなり、地上に秩序がおとずれたとする射日神話」をもつが、これはアムール川地域のすべての民族にみられる伝承である。

ニヴフは、洪水神話をともなわないながらも、原初の大海原を漂っていた兄と妹が夫婦となって氏族の祖となったという神話が言い伝えられており、こうした兄妹始祖神話はアムール川流域のツングース・満洲語諸族のみならず、北方の古アジア諸族にもみられ、ほぼ同様の構成要素をもっている。

北方諸民族の間で古来伝えられてきた音楽は比較的単調で、楽器は片面太鼓、口琴、弦楽器、笛類などが一般的である。このうち、片面太鼓はシャーマンが呪術的・宗教的行為にともなって使用することが多かった。

ニヴフに伝承されてきたトンクル(Tuŋkuř)ないしトゥングルンは、円筒型の胴に棒状の棹(サオ)がつけられた擦弦楽器(弓で弦をこすって音を出す弦楽器)である。アイヌ民族の撥弦楽器(指やバチで弦を弾いて音を出す楽器)である「トンコリ」とは、形状も演奏法も異なるが、名称はよく似ている。

アイヌのトンコリ(原トンコリ)は、かつては擦弦楽器だった可能性があり、のちに撥弦楽器に転用されて使い続けられたと考えられる。

ニヴフの身体的特徴は、やや低い中肉で黄褐色の皮膚をもち、頭髪はだいたい黒色剛直である。髭は濃いがアイヌほど多毛ではなく、鼻は狭い。蒙古ひだが発達している。著しい短顔と蒙古型の容貌を大きな特色としている。

ニヴフのY染色体ハプログループの構成は、C2が8/21=38.1%、O(O1a,O2を除く)が6/21=28.6%、P(R1aを除く)が4/21=19.0%、R1aが2/21=9.5%、その他(A,B,C,D,E,Kを除く)が1/21=4.8%である。

2012年に行ったサハリン州の52人のニヴフ族のY染色体ハプログループの分析では、C2が71%、O2が7.7%、Qが7.7%、D1が5.8%、O1aが3.8%、O1bが1.9%、Nが1.9%となっている。

著名な日本国籍のニヴフ人として、中村チヨ(1906年 - 1969年)がいる。樺太生まれ。父がウリチ。母がニヴフ。ニヴフと結婚し、1947年に北海道に移住した。後志支庁岩内郡に2年住んだのち、網走市に移った。ルーマニア系アメリカ人の言語学者アウステリッツ(1923-1994)は網走に出向いて中村チヨの口述を採録し、『ギリヤークの昔話』として刊行した。

ウリチ族(Ulch)は、ツングース系民族の一つで、主にロシア連邦のアムール川下流域(ハバロフスク地方ウリチ地区)に居住する。ナーニ、オルチャ、マングンなどともよばれる。山丹交易で知られる山丹人はウリチに推定されている。ウリチはアムール川最下流に居住するニヴフ、上流に住むナナイに挟まれる形でアムール川下流域に居住しており、北でネギダールと、南でオロチと接している。

主な生業は漁労であり、チョウザメやコイをかぎ針、網などを用いて採集する。狩猟は二次的な生業であり、冬期に食用としてクマを、毛皮用にテンやリスを狩猟する。

間宮林蔵が記録した山丹人の自称「マンゴー」とウリチの呼称の一つ「マングン」が一致すること、山丹人の居住地が概ね現代のウリチの居住地域と一致することなどから、ウリチは日本語史料に登場する山丹人であると推定されている。

遺伝子では、ウリチは他のツングース系民族と同様、ハプログループC2 (Y染色体)が高頻度であり、69%見られる。

ハプログループC2は、「M217, P44, PK2」によって定義されるグループである。C-M217の最も近い共通祖先は約35000年前にユーラシア大陸北東部で生まれたと考えられる。民族の総人口に占める割合としては、ユーラシアではツングース系民族、モンゴル系民族、カザフ、ハザーラ、コリャーク、イテリメン、ユカギール、ニヴフに多く見られ、アメリカ大陸ではナデネ語族話者に比較的多く見られる。日本人(東京)には3%ないし6%ほど観察されている。

ナナイ(Nanai)は、ツングース系の民族。分布は主にアムール川(黒竜江)流域で、ロシア、中国に居住している。中国内のナナイはホジェン族という。

ナナイ族と言語・文化の点で最も近いのはウリチ(オルチャ)の人びとで、居住地はナナイ族よりも下流の一帯である

ツングース・満洲語のグループで最も南に分布している。ロシアにおける分布の中心は、ハバロフスク地方のナナイスク地区である。中国では、黒竜江省に集中している。

ナナイ(ゴリド人)の猟師デルスウ・ウザーラは日本でも有名である。

ナナイの主な生業は、河川でのサケ・マス漁などの漁撈であり、居住地は魚の豊富な大河や湖の沿岸、ないし河川の河口部である。白樺樹皮の工芸でも知られる。夏季と冬季では集落と住居が異なり、そのどちらも定住的な生活の場である。

ナナイは、かつてサケ・マスなどの皮から春から秋にかけての普段着(魚皮衣)や靴をつくった。また、婚礼の衣装として華麗な刺繍を施した魚皮衣もつくられてきた。今日では魚皮衣は嫁入り道具として、あるいは博物館等への出品のためにつくられるだけで、日常的に着用する衣服ではなくなってきている。

伝統的な住居は、河川の近くに穴を掘り、白樺樹皮や木材を用いて独特の半円形の家屋をつくって夏季の住まいとし、冬季には狩猟に適する場所に半地下式の住居が用いられた。

ナナイ族は、クマやトラに対し、これを人びとの保護者として尊敬を捧げてきた。彼らは太陽、月、山、水、木の精霊(セオン)を崇拝し、また、火などの無生物にも精霊が宿るという宗教観をもっていた。その信仰はシャーマニズム(巫俗)で、シャーマンは神に祈りを捧げることで、悪霊(ブセウ)を追い出す力を持っていると考えていた。

シャーマンは、透視力はじめ超自然的な能力の数々を有しており、善霊や悪霊を操る驚異的な力を具備した人格として、ナナイの人びとから恐れられ、特別な尊崇を受けていた。ナナイでは、宇宙はさまざまな精霊や悪霊に満ちていて、シャーマンはこれら神霊と直接交渉して、不妊の婦人に子どもを授けたり、災厄や疾病の原因となる悪霊と対決してこれに打ち勝ち、原因を除去するという特別に強靭な霊魂をもつ存在と信じられた。シャーマンは踊り、手太鼓を打ち、シャーマン服に取り付けた金属板を鳴らしながら叫び歌うことで自身や信者を忘我の状態に導き、それによってシャーマンの霊が神霊の世界へと飛んで神霊と交渉し、神霊が彼に憑依して神がかり状態のなかで、シャーマンの口から神の意思が告げられるのである

ナナイでは、身体は魂の外殻に過ぎないので、人が死んでも魂は生き残ると観念されていた。そして、ひとりひとりが魂と精神の両方を持っているとされ、死ぬとそれらが分かたれると考えられた。人の精神は、その死後、悪意を持って生きている親戚に害をなすものとされた。時間が経つにつれ、悪い精神は飼いならされて礼拝が可能になるが、そうでなければ悪霊を追い出す特別な儀式が必要となる。

死後、故人の魂は7日間の後「パヨ」と呼ばれる木偶に移され、最終的な葬送の儀式までそのまま保管される。「パヨ」はその間、あたかも生きている人のように世話される。死者の最終的な儀式(葬儀)は3日間続く。その間多くの宴席が設けられ、故人の魂を他界(ブニ)へ送る旅の準備が行われる。葬儀の最終日、故人とほぼ等身大の人形に魂が移される。人形は、死後の世界に向かうための犬ぞりに乗せられる。「ブニ」は、この地上世界と変わらないが、より豊穣で極楽のような場所と考えられている。

ドゥハ族(ツァータン)のシャマン衣装。

収集年月日: 2004年9月 4日(製作: 2004年2月)。収集地:モンゴル国フプスグル県ツァガーンノール郡。製作者: 50歳台男性とその家族

ドゥハ族(ドゥカ族)Dukha,モンゴル語ではツァータンTsaatanとよばれる。ツァータンとは“ツァー=トナカイ”を飼う人のことである。もともとは現在のロシア・トヴァ共和国のトルコ(チュルク)系民族トヴァ民族であり、トヴァ語を話す。フブスグル湖の奥深いタイガ(山岳森林地帯)でトナカイを飼育する狩猟民族である。

自然の精霊との交信をすることができるというシャーマン(呪術師)の儀式は夜に行われる。太鼓とバチを持ち、鳥のような装束を着たシャーマンが、歌を歌い身体を動かすと、精霊(オンゴット)が様々なことを告げてくれるという。

本資料は、全体として「鳥」を象徴している。「羽根飾り付きかぶりもの」は、長さ54cm、帯状の布に羽飾りや紐が付けられたかぶりもので、後頭部で紐を締めて装着するようになっている。羽飾りにはライチョウの羽が24枚使用され、帯部分の中央には人の顔の形が縫いこまれている。縫い付けられた人の顔は、チンギス・ハーン時代に仏教と戦い、当地のシャマンに崇拝された英雄ゴナン・オラーン・バートルである。

上衣は丈約100cm、裄約73cm、前開きで、 3ヶ所の紐で閉めるようになっている。上衣の前面4ヶ所には、 紐の束が縫いつけられている。襟のすぐ下に付けられた紐には、半円型の金屈板が結びつけられている。そしてそのすぐ下には、円錐型の金具が7つ付けられている。シャマンの服に付けられた房、羽、金具などについて、シャマンをあらゆる事態から守るよろいとされる。布製の履物は、靴というよりは、内履きのようにみえる。

枠の部分に9つの突起を持つほぽ円形の太鼓は、長径が62.0cm、最大厚が12. 5cmである。雌シカの皮が張られており、表面上方には木が、下方にはシカの母仔が赤い色で描かれているシカの母仔はシャマンの乗物であり、木は自然界の象徴であるという。太妓はシャマンの乗物、ばちは鞭である。

(「北海道立北方民族博物館所蔵、ツァータンのシャマン衣装」 J-Stage中田篤著 · 2009 より抜粋)

ハンティ人(Khanty)西シベリアにあるオビ川流域とイルティシ川東岸側に住むウラル系民族で、旧称オスチャーク族。西シベリア、ウラル山地の東側を流れるオビ川の中下流域には、ハンティ、マンシ、ネネツなどの北方先住民が暮らしている。

形質的にはモンゴロイドとコーカソイドとの混合型であるウラル人種に属し、ハプログループNが高頻度~中頻度で見られる。

ハンティ語は、マンシ語とともにオビ・ウゴル諸語に分類され、ハンガリー語とも類縁関係にある。

ハンティとマンシは元来同じ民族であったが、鉄器時代以降紀元1世紀頃に分かれたとされる。古くは騎馬文化を持っていたようであるが、シベリアの環境への適応から、狩猟・漁猟・トナカイ飼育の生活を導入するようになった。10世紀頃にはロシア人との接触をはじめ、11世紀までには定期的な交易を行っていた。

モンゴル帝国の拡大にともないマンシ人と共に服属し、西シベリア汗国に含まれた。その後、ロシア帝国のイェルマークによるシベリア征服で、西シベリア平原がロシア帝国による支配を受けた。

ハンティ人は、ロシア人との同化が、マンシ人と比較すると遅く17世紀以降であったという。

生活様式は狩猟・漁猟・トナカイ飼育が基本で、農業は行わなかった。シャーマニズムを信仰し、多くの神々と精霊と交わり、生贄など儀式を行う祭事場にはトーテムの像や神像を安置し、シャーマンを通じて交信した。基本的に父系社会で、同一の系族(リニージ)内での結婚はできなかった。また試罪法で争いを解決した。

コリャーク人(Koryak, Koriak)は、ロシア、カムチャツカ半島とその周辺地域に居住してきた先住民族である。体つきや生活習慣などが極めて似ているチュクチ人と同系であるほか、カムチャツカ半島のイテリメン人とはやや遠い類縁関係にある。

コリャーク人は西にエヴェン人、東にケレク人、北にチュクチ人、南はカムチャツカ半島の最狭部でアレウト人領域に隣接している。

コリヤークは、おもな生業の違いから、海岸地域でおもに海獣狩猟や漁撈をおこなってきた海岸コリヤークと、内陸のツンドラ地帯でトナカイ遊牧をおこなってきたトナカイ・コリヤークの二つのグループに分けられる。

このうち、トナカイ飼育は他民族から伝えられたと考えられているが、コリヤークはこれを発展させ、トナカイの肉や毛皮を徹底的に利用する遊牧文化を作り上げた。

コリャーク語はチュクチ・カムチャツカ語族である。コリャーク人のY染色体遺伝子は、ハプログループC2 (Y染色体)が33.3~59.2%、次いでハプログループN (Y染色体)が22.2%である。

コリャーク人の起源は未詳である。更新世後期、ユーラシア大陸と北アメリカ大陸は地続きであった。人々は現在コリャーク人が居住する地域を通ってアメリカ大陸へと渡っていった。氷期を通じて、人々はその地域を通って両大陸へ渡った。さまざまな民族が氷河期終焉以前に行き来し、そしてコリャークは北アメリカからシベリアへの逆移住である可能性が高いとする見解も示されている。文化と言語において、ニヴフ人とコリャーク人には類似点があるとされ、古代オホーツク人との関連性も指摘されている。

コリャーク人はかつて極東ロシアのより広汎な地域を移動していた。7世紀ごろに北東アジアに存在した流鬼国の民が640年に唐に入貢した際、「自分たちの住む地より北に1ヶ月行程の先に夜叉という国がある」と伝え、その「夜叉」が古コリャーク人であるとする説がある。ハバロフスク地方のニヴフ人居住域と重なるまでに拡大していた彼らの行動域は、エヴェン人の登場とともに、現在の地域へと限定された。

おおよそ6-7家族で集団を作り、首長は支配的な主権を持たず、構成員がすべて平等である小グループといった体をなす。

シャーマニズムを媒介として、コリャーク人はアニミズム的信仰を持っている。コリャーク人の神話は、最初の人間でありコリャーク人の守り手である Quikil(大烏の意味) という超自然的なシャーマンを中心とした物語である。大烏の神話は、トリンギット、ツィムシャンなどアメリカ北西部の海岸沿いのアメリカ先住民にも見られる

網走市 北海道立北方民族博物館①エスキモー・イヌイット アメリカ・インディアン



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