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新潟県佐渡市 蓮華峰寺(れんげぶじ)小比叡騒動で獄門にされた住職快慶の供養塔

2024年03月02日 14時09分21秒 | 新潟県

蓮華峰寺(れんげぶじ)。新潟県佐渡市小比叡(こびえ)。

2023年10月2日(月)。

佐渡最古の金山跡・西三川砂金山の笹川集落から小木方向へ向かい、12時過ぎに蓮華峰寺の広大な駐車場に着いた。旅行前に読んだ司馬遼太郎の『街道をゆく 佐渡のみち』では、長江の熱串彦神社とともに印象的な記述であった。坂道を下って寺域に入ると書いてあったので京都の泉涌寺を想像したが、小木港へ下る斜面に建てられた伽藍群という感じだった。

1976年10月、司馬遼太郎は蓮華峰寺を訪ね、廉直な役人が追いつめられて立てこもった「小比叡騒動」に思いを馳せている。

獄門にされた住職快慶の供養塔。蓮華峰寺金堂、小比叡神社鳥居横にある。

小比叡騒動とは、慶安5年(1652年)3月、相川町奉行であった辻藤左衛門信俊(1611~52)が上役との軋轢から騒乱となり、一族と共に蓮華峰寺に立てこもり自害した事件である。

佐渡奉行所の西三川金山役であった辻藤左衛門は、寛永6(1629)年6月に佐渡奉行として着任した伊丹播磨守が西三川を巡検した際、砂金山に至るまでの道や橋の補修を担当した。そして奉行に同行し、 砂金稼ぎは水流しが重要であるので、用水を整備しなければできない。このため、峠の頂上に溜池を普請すれば、旱魃の時にも用水に差支えがなくなる。そうすれば、砂金の上納も増すであろう」と、砂金稼ぎの道理を説明した。

この提案はただちに伊丹奉行に採択され、溜池の普請が行われた。しかも藤左衛門は、普請人足に対しては潔白・公平、憐憫をもちながら接したので、普請は順調に進んだ。この成果が認められ、藤左衛門は、筋金の管理を行う運上屋役となり、慶安2(1649)年6月には相川の町を治める町奉行に昇進した。

藤左衛門は、「政事清廉にして人の賂を受けず、言行相応にして理非分明なり」という性格から、当時、佐渡奉行所に横行していた役人の腐敗、不正を憤り上役に綱紀粛正を迫った。こうした辻藤の行動は上役、同輩から疎んじられ、抜擢人事への妬みもあり次第に孤立していった。些細な不始末を理由に慶安4(1651)年9月小木町番所役に降格、左遷されると辻藤は江戸への告発を試みる。しかし、知人に託した訴状が船の難破で海岸に漂着し上役に知られると、辻藤と奉行所の対立は決定的になってしまう。

役向きで相川に向かった辻藤が旧知の住職を訪ねるため蓮華峰寺に立ち寄ると、奉行所側はこれを謀反篭城であると断罪して武力鎮圧に向かった。辻藤とその一族は蓮華峰寺と、寺に隣接する小比叡城に立てこもり応戦するが、最後には全員が自害した。辻藤に加担したとみなされた蓮華峰寺住職の快慶は獄門にかけられた。

この事件の発端は奉行所と一役人の間のささいな感情のもつれであったが、慶安の変直後の世情とあいまって奉行所側の過剰反応を誘発してしまったとするのが定説である。

蓮華峰寺は、小高い山に囲まれた谷地に建てられた真言宗智山派の寺院である。山号は小比叡山(こびえさん)。金剛寺(河内長野市)、室生寺とともに真言の三大聖地の一つとされる。佐渡四国八十八札所の第六番札所。

創建の時期や事情については明らかでないが、寺伝では大同元年(806年)、佐渡が京都の海上の鬼門にあたることから、王城鎮護の霊場として空海によって開かれたという。王城鎮護の山とされる比叡山とは御所から見て同一線上にあり、このために小比叡山と呼ばれたともされる。

嵯峨天皇の勅願寺と伝わり、江戸時代中期の最盛期には佐渡国を中心に40か寺以上の末寺を従え、徳川家の廟所ともなった。

慶安5年に起きた「小比叡騒動」の戦火で客殿、庫裏を焼失したが、室町時代前期の建立と考えられる金堂をはじめ、弘法堂(奥の院、空海の祠堂)、骨堂などは喪失を免れ、南北朝時代から江戸時代初期に至る各年代の建築様式を良好に保存している建築物が多い。金堂、弘法堂、骨堂は国の重要文化財に指定されている。

仁王門は総円柱の八脚門、唐門は禅宗様四脚門で唐破風はない。鐘楼は正当な手法の袴腰付形式だが、桃山期の形式を伝えるものの、幕末期の取替材が少なくない。

三手先組物の八角堂と五手先組物の八祖堂は、絵様肘木や彫刻の多用、複雑な内部架構など、異色の造形をもつ。八角堂北側の覆屋内にある東照宮と台徳院御霊屋はともにこけら葺の一間社で、精緻な技巧を凝らした軸部や軒の彫刻及び彩色に見るべきところがある。

護摩堂、密厳堂、地蔵堂はいずれも三間堂であるが、異なる建築年代を反映して、規模や構造形式だけでなく、細部の造形にも時代差が認められる。

山門前には「子授け欅」と呼ばれる欅があり、この欅を人知れず抱くと子供を授かるという伝承がある。

階段状の坂道を下り、寺域に入る。

仁王門。

金堂東南にある東を正面とする八脚門で、両脇間後方に阿吽一対の金剛力士立像を収める。入母屋造桟瓦葺で総円柱、組物二手先の格式の高い細部をもつ。石製の礎盤12個にはそれぞれ寄進者の名前が刻まれており、崇敬を集めた様子が偲ばれる。

唐門。

金堂前庭と庫裏客殿の一郭を分ける四脚門で、唐破風はない。親柱を棟木近くまで立ち上げ、側柱とは海老虹梁で繋ぐ禅宗様四脚門の様式で、様式上江戸時代中期の建築とみられる。親柱筋の中央上部には成の高い蟇股を入れるなど、雄大な意匠をみせる。

金堂。重文。

本尊の聖観音菩薩が祀られた寺の中心的な仏堂で、立地的にも蓮華峰寺境内のほぼ中央に位置する。

建物は桁行5間、梁間5間、単層、屋根入母屋造の茅葺形式銅板葺で、南面する素木造である。正面2間通り外陣、中央2間内陣、両脇1間通り脇陣、後方1間通り後陣よりなり、柱は総円柱で四周に切目縁を廻し、正面中央1間に石階7級を設けてある。内部は総拭板を敷き、外陣1間通り及び脇陣後陣は化粧屋根裏、他は竿縁天井で、内陣中央間後壁に須弥壇を設けて厨子を安置している。

長禄3年(1459)に巡礼者が記した墨書が発見されたことにより、建立はそれ以前であることが明らかとなり、絵様・繰形の形式から応永年間(1394〜1427)以前の建物と推定された。安永4年(1775)12月の大雪により東側屋根破損、同6年(1777)に屋根を修理した記録があるほか、明治期に屋根を桟瓦に茸き替え、軒を二軒に変更する等の改変が認められる。また、昭和28年から同30年にかけては、弘法堂とともに解体修理が施され、現在に至る。

小比叡神社。石鳥居と本殿は重文。拝殿は県有形文化財。

小比叡神社は蓮華峰寺の旧鎮守社で、明治の神仏分離令によって独立した。現在は蓮華峰寺とは別法人であるが、境内地は旧来通り一体の空間を成している。

本殿は三間社流造、こけら葺で、覆屋の中にあるので当初材がよく残っている。様式手法には古風なものが混在しており、地方的性格を表わしている。

鳥居は小規模な石造明神鳥居で、地方色が濃い。柱に建立慶長十三(1608)年戊申七月三日の刻銘がある。

密厳堂(みつごんどう)。登録有形文化財(建造物。

金堂西方に建つ三間堂で、木造平屋建、宝形造桟瓦葺で、前面に一間向拝を付ける。建築面積29㎡。佐渡四国6番札所。天保15年(1844)の建築と伝え、小規模な堂であるが、組物を出組とし、内部の支輪等に彫刻をあしらうなど、密度の高い建築である。

八祖堂。登録有形文化財(建造物)。

木造平屋建、銅板葺、建築面積29㎡。金堂北側の丘の上に立つ入母屋造,茅葺形銅板葺の三間堂。組物を異例の五手先とするため,茅葺形と相俟って特に屋根の大きい印象を受ける。内部も虹梁や太瓶束等からなる架構を見せ,全体に彩色を施した迫力のあるもので,八角堂とともに異色の造形を持つ。

八角堂。登録有形文化財(建造物)。

木造平屋建、銅板葺、建築面積10㎡。経蔵北側に建つ銅板葺の八角円堂。江戸時代中期の建築と見られ,内部は柱間毎の三角形の小室に分かれ,それぞれに宮殿を収める。軒の組物は絵様肘木や彫刻を多用した三手先で,全体で雲中の竜を表現するなど異色の造形を持つ。

 

20分近く見学したあと、小木港方向へ向かった。

新潟県佐渡市 妙宣寺 佐渡国分寺跡 真野宮 倉谷の大わらじ 西三川砂金山 



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