
国名勝・ピリカノカ 黄金山(こがねやま)。石狩市浜益区実田(みた)。
2022年6月22日(水)。
旭川市の神居古潭を見学後、新十津川町から日本海沿岸部へ進み、石狩市浜益区にある国名勝・ピリカノカの黄金山(こがねやま)を眺められる場所へ向かった。しばらくすると、北側にマッターホルンのようなピラミダルの鋭鋒が見えてきたので、何度か車を降りて眺めた。


黄金山は、標高739.1mの山である。暑寒別天売焼尻国定公園内に位置する。その形から「浜益富士」、「黄金富士」ともよばれる。この山は、新生代新第三紀鮮新世(530万年前〜180万年前)にマグマが地表付近に上昇して冷えて固まり、その後、周囲のもろい部分が崩落して今のような姿になったと考えられている。ピリカノカ(アイヌ語で、「美しい形」の意)の一つとして国の名勝に指定された。
南麓の浜益温泉付近から登山道があり、人気のある登山対象である。
浜益温泉を通過して日本海沿岸に着き、川下海浜浴場 (はまますピリカ・ビーチ)の駐車場に車を停め、海岸近くや国道の東側に回り込んだりして姿を眺めた。



旅行前の下調べで「アイヌをもっと知る図鑑 (別冊太陽)」を読んでいると、アイヌ文化に関する国名勝・ピリカノカに指定されている10か所のうちに黄金山があり、アイヌユカラ『虎杖(いたどり)丸の曲』の主人公ポイヤウンペ(ポンヤウンペ)が本拠としたチャシだという記述が写真とともに紹介されていた。
岩波書店の「図書」に2020年10月から2022年9月まで24回に渡り連載されていた「アイヌユカラ『虎杖丸の曲』を読む」を読んでいたので、これは必見と思ったのである。アイヌユカラ『虎杖丸の曲』は1980年代に岩波文庫で読んでいる。
筆者の中川裕氏は千葉大学教授を長く勤めたアイヌ語研究者で、『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』の著者である。
「アイヌユカラ『虎杖丸の曲』を読む」は、アイヌの英雄叙事詩の中でも最もよく知られているであろう「虎杖丸の曲」という一篇を取り上げ、それを採録者・訳者である金田一京助とは別の視点から再吟味し、その面白さを説き起こして行こうという試みであり、歴史的背景の考察も行っていて興味深い。
「黄金山」という名前は文化4年(1807)には、すでにあり、名前の由来は、その昔この付近で金が採掘されていたからだと伝わる。
アイヌはこの山を「ピンネ タイオルシペ」あるいは「タヨロウシヘ」と呼んでいた。意味は「木原にそびえる男山」「水木の多い山」。浜益のアイヌにとってこの山は特別な山で、儀式の祭壇を設置する場合、この山の方向に向くように作ったという。
この山は、英雄ユカラ「クトネシリカ(虎杖丸の曲)」などに出てくるポイヤウンペの住む「高杯を立てたような山」の候補の一つとして知られる。クトネシリカの内容は、山の上の砦に住むポイヤウンペが育ち、石狩河口まで空を飛んで黄金のラッコを捕え、日本海沿岸のアイヌや海の向こうの民族と戦った末、美しい娘と結婚するといったもので、壮大なスケールの物語である。
新札幌市史 第1巻 通史1
人間の英雄を主人公とするユーカラ(英雄詞曲)には数種類のものがあるが、いずれもただ主人公の名が違うだけで、物語の筋も謡い方も大同小異、その中で「クトネシリカ」(金田一京助は虎杖丸と訳す)を例にとると、トメサンペチ川が大きく紆曲して流れるほとりのシヌタプカの山城に、(アイヌ自身は、石狩川の川口に近い浜益近辺だろうと理解―榎森進「ユーカラの歴史的背景に関する一考察」)ポイシヌタプカウンクル、あだ名を「ポイヤウンペ」(若い本土びと)と称する少年英雄がおり、この少年は幼くして父母を失い孤児として一族の者に育てられ、長じて異民族との間に壮烈な幾多の戦闘をくり返し、敵中に美少女を得て故郷に凱旋するという物語の民族的叙事詩で、少年英雄の行った戦闘の数によって幾段にも分かれ、多くの挿話を含んだ長大なものである。
知里真志保は、このユーカラの歴史的背景について物語を総じて「ヤウンクル」(内陸の人)と「レプンクル」(沖の人)との戦いで、「レプンクル」の中には「サンタ」(山丹人)も出てくるのに対して、英雄たちはヤウンクルで「イヨチびと」「イシカリびと」「チュプカびと」「レプンシリびと」というように、支配する土地の名を負うているが、それらの土地はオホーツク式土器の出るオホーツク文化圏内の土地を指しており、北海道の日本海岸の中部から、オホーツク海岸の各地に橋頭堡を確保して住んでいた「レプンクル」(渡来の異民族)との民族的な戦争の物語で、共通の敵に対する団結を通して同族意識を高揚・自覚し、後世のアイヌ民族形成の地盤がつくられていったとするのに対して、いろいろ異論は出ているが、榎森進は「ユーカラの主要テーマになっているレプンクルとヤウンクルの闘いは、歴史上におけるオホーツク文化人をはじめとする北方諸集団と擦文期のアイヌ社会との抗争・矛盾関係が投影されたものと理解できる。」としている。
中世日本の北方社会とラッコ皮交易 : アイヌ民族との関わりで (改訂版) 関口明
北海道大学総合博物館研究報告, 6, 46-57 2013-03
(抜粋)
普通ユーカラという場合,人間の英雄を主人公とする叙事歌謡であるが,このユーカラをアイヌ史研究の資料として本格的に位置づけたのが知里真志保である。
知里はユーカラを,「ヤウンクル」(内陸・の・人) を北海道を本拠とする擦文人,「レプンクル」(沖・の・人)を大陸から海を越えて北海道の日本海岸の中部からオホーツク海岸の各地に橋頭堡を確保して住むオホーツク人と見立て,両者の聞で起とった民族的な戦争の物語と解釈し,ユーカラの内容も,オホーツク文化が本道沿岸に栄えた時期に実際に起こった民族的な葛藤を歌ったものであると考察した(知里 1973b)。
榎森進は知里の見解を前提にしつつ,ユーカラの史的背景を再検討することにより,近世以前のアイヌ社会の実態にアブローチした。
ヤウンクルは,人名の語葉表現上の特質から,一筋の河川を中心に形成された河川共同体を形成する擦文人であるとし,レプンクルは,遠距離にありながらも一部でヤウンクルと接触を保つ集団であり,オホーツク人を中心とする北方の諸集団に比定できるとした。
そのうえでユーカラは,オホーツク人をはじめとする北方諸集団と擦文人との抗争,矛盾関係が投影されたものと理解した(榎森 1979)。
金田一京助が大正 2年 (1913)に平取の鍋沢ワカルパ翁から採録した「虎杖丸の曲 変怪の憑依,恐怖の憑依」(金田一 1993a)の第1段では、物語のヒーローの名前が「ポイヤウンペ」であり.住処は石狩市浜益あたりの「シヌタプカ」の山城であることがのちに分かる。次いで物語は,第Ⅱ段に進みとここで初めてラッコが登場する。
石狩の河口に黄金のラッコが 出没する。 ここを以て石狩彦 近き郷には音信を跳ねとばし 遠き郷には 音信をぶつけて 云ひけるやうは 黄金のラッコを潜りてもって 手捕りにしたらん人に わが妹をば わがもっ宝を その後ろに ひとつに束ねて一緒にして その座右に 献ずるであろう」
突然にラッコが石狩川の河口に出没した。そこの首領である石狩彦はそのラッコを捕えたものに,妹と宝物を与えようと呼びかける。ポンチュプカ人 レプンシリ人 ポンモシリ人らが呼びかけに応えるが,ことごとく失敗する。ところがポイヤウンペは養兄・養姉に内緒で参加し,成功することで話は大きく展開する。
オホーツク文化のラッコ猟は 7世紀から 9世紀にかけて根室地方を中心に栄えた可能性を指摘し,ラッコ猟が栄えた背景に唐の建国を契機とした北東アジアにおける毛皮交易の隆盛を想定する見解がある(種市 2004)。千島列島のラッコ皮が樺太を経由してシベリア方面に渡り,それが中国へもたらされた可能性は高いと考えている。
しかし 10世紀初頭,中国では唐帝国が滅亡し,五代十国の分裂時代に入る。一方北海道では 9世紀ごろから擦文人が道北地方に進出し始める。その結果,道東地方のオホーツク人は次第に樺太から切りはなされ,擦文文化の影響を受けるようになる。これがトピニタイ文化である。
トピニタイ文化に変容したオホーツク人は. 13世紀には擦文文化に飲み込まれアイヌ文化への途を歩みはじめる。この間,千島→樺太→アムール川涜域のラッコ交易のルートは,しだいに細くなり,それに代わり擦文人・アイヌ民族がラッコの交易権を掌握するようになったと察せられるのである。
日本側の史料にラッコ関連の史料が現れるのは 15世紀以降であるのだが,それはそれ以前がアイヌ民族によるラッコ皮の交易ルートの掌握過程にあったことを示唆している。
「虎杖丸の曲」に.石狩川の河口に出没した黄金のラッコをポンチュプカ人・レプンシリ人・ポンモシリ人が捕獲に失敗し,最終的にポイヤウンペが成功するエピソード,さらにポイヤウンペが捕えた黄金のラッコをチュプカ人・レプンシリ人・ポンモシリ人が奪取に来るエピソードは,ラッコ皮の交易権をめぐる争いが北海道・樺太を巻き込んで展開されていたことを示していると推測できる。
この争いを経て,千島→北海道太平洋沿岸→道南部→日本海(十三湊・若狭)のルートが整備され,15世紀の史料の存在につながると考えられる。
アイヌの伝承
北海学園大学の藤村久和氏のご教示によれば、黄金山は古くから川下地区のコタンの守り神的な山として敬われてきたといいます。このことは安政 4 年の記録に「古来より山頂へ登る人なし」(資料1『入北記』)と記されていることや、「正月の祭壇はこの山の方に向けて作っていた」という聞き取り(資料2:「石川惣吉氏の話」)からも裏付けられます。
先の『入北記』の記載は、入山禁止などの禁忌をともなった規制があったことも想像させます。また、この山は浜益川を挟んで西側にある「摺鉢山」と男山と女山との関係にあると伝承を持っており、川下地区のアイヌ達にとっては二山一体で神聖な存在として認識していたと考えられます。
一方、この山を含む一帯は、英雄ユカラに登場する主人公(ポイヤウンペ)の本拠地だという言説で全道的に知られています。英雄ユカラは金田一京助氏による伝承の研究、紹介で一般的となったものです。(資料3「アイヌの詞曲について」)
このユカラに登場する地名は積丹、余市、石狩、シヌタプカ、宗谷、利尻、礼文、樺太などで、日本海側が舞台となっている詞曲です。これらの地名のうちシヌタプカというのがポイヤウンペの住んでいたチャシがある場所であり、それが毘砂別地区並びに黄金山、摺鉢山などを含む一帯に相当するという説があります。(資料4:「西蝦夷地のアイヌ道を歩く」)
こうした説は、金田一氏の研究が発表された大正期から昭和初期に全道的に広まったと考えられます。しかし、シヌタプカの所在地が浜益であるという考え方は、少なくとも明治時代からあったと推定されます。
例えば明治半ば出版された永田方正氏の『蝦夷語地名解』(資料5)には、川下地区に隣接する毘砂別の語源について、「軍勢ヲ出シタル処 上古ノ土人「ポイヤウンペ」ト云フ者此ノ川上ニ砦テ構ヘ兵ヲ出シ戦争ヲセシコト「ユーカリ」ニアリ今「ピサンペツ」ト云」とあります。つまり、毘砂別は、英雄ユカラの主人公ポイヤウンペが砦を構えた「トミサンベツ」であったとされているのです。
また、吉田巌氏によれば洞爺湖には英雄ポイヤウンペが湖のオヤウカムイという羽の生えた蛇神と戦って傷つき、石狩へ遁れそれからトミサンベツの黄金山(コンカニヤマ)の金の館に難を逃れたという説話があるとされています。
さらに、浜益には浜益川がかつてトミサンベツと呼ばれていたという聞き取りもあります。(資料6:「星野菊太郎氏の話」)
これらの事から、少なくとも明治期には、浜益に「シヌタプカ」があり、そこを流れる川の上流に、ポイヤウンベが居住するチャシなどが存在したという伝承があったと考えられます。ポイヤウンペの居城のある「高杯の立つ、さも似たる」山がどこにあるかについて諸説ありますが、黄金山もその一つとなっています。(資料7「原始文学としてのユーカラ」)
以上のように黄金山は川下アイヌの守り神で聖なる山であり、さらには英雄ユカラに登場する主人公の居城のある山伝承を持つ。これらの点から黄金山はアイヌの信仰、あるいは文化に深く結びついた山と考えられます。
「虎杖(イタドリ)丸」は、主人公ポンヤウンペが持つ妖刀の名前で、鞘の中が見事に刳り抜かれて「イタドリがたの鞘」(中空の茎)となっていることからの名称である。
鞘の口元に夏狐の異様な形相、鞘全体に龍神の雌神、柄に狼神、鍔に龍神の雄神が彫られている。持ち主が危機となると、神々が持ち主に憑依して彫刻の形象が生ける神となって動き出し、敵を刺し殺す力を持つ。
「虎杖丸の曲」最後の考察。中川裕。「図書」2022年9月号。から。
かつては、ポイヤウンペや余市人らのヤウンクル(北海道人)連合と、海の向こうに拠点を置くレプンクル連合の戦を描いたものとして成立したと考えられていた。(「誰と何のために戦っているのか?」2020年11月号)
これに対し、奥田統己は、そういう集団対集団という構成を持っているのは沙流や胆振という限られた地域の伝承の特徴であり、他の地域では主人公はひとりで戦う「孤独な英雄」であると論じている。
虎杖丸でもヤウンクルが集合する場面はシヌタプカへの敵の襲来の場面にしかなくあとはポイヤウンペがひとりきりかオマンペシカ人を相棒として戦っている。
ということは、虎杖丸はもともと「孤独な英雄」の冒険譚であったものに、シヌタプカの場面での連合対連合という図式を後から挟み込んだのかもしれないという見方もできる。