獲得された絶望感(盲人ウエカジ公式ブログ)

~網膜色素変性症と司法試験とモー娘。と・・・~

村上春樹「海辺のカフカ」上巻を読んでいる。

2012-11-03 12:15:57 | 雑感
 網膜色素変性症な私デスペア。視野狭窄と視力低下が進行しいまでは紙にかかれた文字がよめない。読めなくなったが、よめていたころよりも本をたくさん読むようになった。読むといっても録音図書を聞く。

 サピエ図書館という視覚障害者のための音声データ(ボランティアが本を朗読したデータ)をダウンロードできるサイトのおかげ。村上春樹がノーベル賞を受賞できなかったことがマスコミにとりあげられていたので村上春樹の本を読んでみる。今は海辺のカフカを読んでいる。

 ノーベル賞作家の大江健三郎の本を15年ぐらい前に読んだ。たしか緑の木?って題名だったかな。宗教家のはなしだった。大江健三郎の小説はかっぱえびせんのように読み出したらやめられないとまらないってことはない。いま一番人気の作家東野圭吾はミステリーということでだれが犯人なのかが知りたくてやめられないとまらない。

 村上春樹は大江健三郎と東野圭吾をたして0.9で割ったような感じかな。純文学に必須ないわゆる自分探しとミステリーに必須ななぞがうまくがたいしている。

 柵や寝床について私は中田さんがジョニーウォーカーの前にいるシーン。このあと中田さんはどうなるのかとても気にな音声再生機プレクストークリンクポケットの停止ボタンを押せない。結局0300まで起きていた。上巻を読み終えた。ジョニーウォーカーがミミさんに手をかけようとしたとき私は中田さんの行動を待ち望んでいた。ミミはシャムネコなのだが、そこまで私がミミをいとおしくおもったのは、ミミの話すことばを中田さんが私に伝えてくれたため。言葉があってはじめて人は他人を主観的に、自分のことのように思えるのだとあらためて思った。

 ということは逆に言うと、言葉のわからない外国人や知的障害者やコミュニケーション障害者がなぜか自分とは別の世界の生き物のように感じ、すくなからずの恐怖を感じる。それが排斥や虐殺の源なのだろう。そこで村上春樹は想像力が大事だという。たしかにそうだ。

 だけど、目が悪くなってはじめてバスで席をゆずってもらい、あるいは目の前の席があいえていているのにかかわらず誰もその席があいていることを教えてくれず始発かあ終点までずっと空いた席の前で立ってみてはじめて、視覚障害者というものがわかった私。想像力はだれもがもっているものでないし、その想像を現実化できる人はもっと少ない。

 バスの運転手という職業的ペルソナで想像力を日地調とする人でも突っ立っている私に目の前の席があいてますよと教えてくれる人は10人の中で1人ぐらいしかない。ここで気づいた。彼らにとっては私は別の世界の生き物なんだな。

 中田さんは食べ物を親切な人にわけてもらうときに遠慮はしない。「ありがとうございますいただきます。サトイモは中田の大好物であります。」

 私も席をゆずってもらったり席をおしえてもらったりしたときは「座ります。ありがとうございます。」必ず言う。時にはその言葉をいったのか忘れてしまうことがある、それほど私の中では当たり前になっている。だけど、中田さんのようにはきはきと大きな声で言えていない私デスペア。中田さんにあこがれる。
そしていつかバスに乗った途端に私はこういいたい。

 「デスペアは目が悪いのであります。席が空いているのかどうかもわかりません。どなたかこのデスペアに席があいているかどうか、もし空いているのならどのあたりが空いているのか教えていただけませんでしょうか?。私デスペアは目が悪いのであります。」
コメント
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