京都デモ情報《ブログ版》

京都周辺で開催されるデモ行進・街宣・イベント・裁判・選挙等の情報を共有するためのページです。

【書評】革命の哲学( 藤本進治 著)

2022年06月30日 | デモ




労働者を革命の主力に置く考え方は、今ではすっかりウケの悪いものになっている。労働者をマルチチュードや市民といった概念に包摂し曖昧にさせようというもの、非正規労働者と正規労働者の分断と敵対を強調するもの、それへの反発から労働者という言葉のみで両者を「団結」させようというものが、代役となっている。いずれも労働者の革命性が原理的に位置づかず、現象の一面を切り取っている感は否めない。なぜ労働者は革命的階級なのか。剰余価値を生産するからか。それなら剰余価値を生産しないサービス産業労働者は排除されるのか。搾取されるからか。それなら奴隷や農民も搾取されている。疎外されるからか。確かに労働者は、労働力を資本家に売り渡し生産手段と生産物から切り離されている。だがその反人間性は抵抗の理由にはなっても、新しい社会を建設できる力にはならない。

本書は労働者が革命的階級であるのは、主体性を発展させられる唯一の階級だからと喝破する。
「プロレタリアートが資本との闘争のなかでおこなっているものは、この不断の自己否定なのである。資本との闘争の底に流れている主体的原理ーこの不断の自己否定の展開過程に注目しなければならない」(p.64)
労働者は、私的商品所有者として資本家に労働力を販売し機械的工場製の労働者となることで、私的商品所有者に対立する社会的組織性を培養し巨大な生産力となる。この矛盾した二つの形態が資本の利害とも相容れなくなることで弁証法的敵対関係となり、私的商品所有者としての自己を否定する。これが、労働者が主体へと駆け上がる自己否定である。それは階級闘争となり労働組合として結実する。だが資本家体制の枠組みにある労働組合は、私的商品所有者と社会的組織性の内的対立を止揚出来ず、私的商品所有者の結合という限界を超えることが出来ない。
「もともと、主体が主体として対象と対峙することができるためには、その以前に、その対象とのあいだに交互作用が成立しており、その交互作用のなかでの、対象の自己展開を媒介として対象と切断され対決を余儀なくされるという過程が持続していなければならない」(p.164)
国家体制そのものとの対立を前に行き詰った労働者の主体性は、プロレタリア党を形成することで突破する。プロレタリア党と労働組合の政治的指導を媒介にした交互作用と、他階級との連帯で更に主体性を発展させ、プロレタリア革命に昇り詰める。というのが本書のあらましだ。この労働者に独自な内的矛盾の展開による主体性の成長を認識することで、労働者が外的にいくら細分化され不利な状況を迎えても、労働者間の紐帯と革命性を見失うことがなくなる。また生産において資本や機械や資源が主であり、労働者は従であるというニヒリズムめいた俗論にも惑わされなくなる。

この中で重要なのは、労働力の抽象化という論点だ。土地から切り離され機械製的工場制に繋がれた労働者は、単純工として取り換えが自在にできる質の無い抽象的なものになった。
「いまや、労働力は、質を持たぬ抽象となることによって、それは、無限の結合可能性をもつことを強制された。それは空虚な無になることによって、無限の有となったのである。労働力は、無と有をうちにふくんだ一つの矛盾となった」(p.100)
労働力の抽象化は現在も進行中で、派遣労働者や非正規労働者という形で企業からも労働者は切り離され、備品扱いされている。正規労働者とて、今や非正規労働者のプールという位置付けだ。労働者の分断を新自由主義は、全員投資家個人事業主という括りでまとめている。世間の空気としても全員投資家個人事業主括りは、精神の治安を維持するためなのか受け入れられている。この労働力の抽象化についてどう把握するか、全ての社会運動に問われている。ポピュリズムは国家、民族、差別、格差、宗教、ヒューマニズム、共同体と、左右問わず様々な意匠を凝らすが、源泉は労働力の抽象化への抵抗と実体を埋め合わせたい欲求にある。
「労働者は、いまや、あらゆる労働に自分を適合させることができるだけでなく、どのような結合にも堪えることができる。それはなにごとにもおどろかず、どの変化にも対応していくことができる。それは近代的主体である」(p.104)
このような抽象化に基づく主体の進行を捉えられないなら、それは労働者の利益を装う過去への郷愁と退行に導びかれる。冒頭に挙げた労働者の革命性が原理的に位置づけられない問題も、労働力の抽象化という問題を、脇に置いて見て見ないふりをしているせいだろう。

本書は、労働者が確かに革命を引き寄せ成し遂げる階級であり、その革命的原理は今も未来に向かって展開中であることを教える。路線争いとなる「素朴な試行錯誤的実践論」(p.256)に隠れた底流を見透させ、流れを促進するために何を解決すべきか、というテーマを我々に突き付ける。1964年発行の本だが、労働者と党が見失われ混乱する今こそ必要とされる書物だ。ソ連崩壊や非正規労働者が増加して以降、大衆運動の自然発生性を称揚する俗流アナーキズムや反党派的市民運動が幅を利かすようになった中で、マルクス主義復権の跳躍台となる一冊である。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。