皆様、ごきげんよう!
前回のアップからまたもや結構な日々が過ぎてしまいました。
いやいや、大丈夫、元気でございます。
先々週に誕生日を迎え、その数日後に満月を迎え、
誕生日前から何やらかんやら、
当日はとても嬉しいことがあったり、
自身の中での「リニューアル」とか(主に化粧品、笑、いや、大事よ)
何だか頭がやたら忙しい日々が過ぎて、
そこに先週英語の歌詞を書かせていただくお仕事が舞い込んできて、
作詞だけでなく、それに合わせて「一人でゴスペルの多重録音」という
仮歌(仮として歌を入れる)の宅録をして・・・
現在に至っておりますです。
そんな、誕生日と満月を超えてのお話でも、と思ったのですが、
実は書きかけのブログがありまして、
それが今回の「Passionについて語る」、です。
厳密に申しますと、
書きかけじゃないのよ。
全部書き終えていたのに、
こちらの痛恨のミスにより、
途中から最後まで全部
消しちまった・・・
しばらくそこから立ち直れなくてですね、
一旦「Let Go」したわけです。
そう、アナ雪のエルサのように
レリゴーーーーーよ。
で、本日ブログを久々に書こうと思った時に、
「やはりアレをちゃんと完成させたい」という、
それこそPassionが湧いてきたので、
湧いているうちに書く。
消えてなくなった後半を、
今の私の言葉で書いてやるんだいっ!
ということで。
AYUKO、今回はPassionについて語る。
語りたいのです。
厳密に言いますと、PassionとCompassionについて語りたいのです。
Compassionについてはもうちょっと後でね。
Passionとは、日本語では『情熱』。
そして私は自分のことを「情熱の人」と思っている。
人生を振り返れば、これまで私を突き動かしてきたものは情熱であったと思います。
何かに対してエンジンがブオン!とかかる。
そのブオン!が私の情熱で、一旦エンジンがかかれば突き進みます。
情熱とは私にとっては
車が進むためにガソリンが燃える、燃え続ける、
それがないと前に進めない、
そんなようなものでして、
情熱がなければ私は動かない。
先の「何かに対してエンジンがブオン!とかかる」の
「何か」がなければ、基本的に私は動かない。
駐車場に停まったまま
車の中で日々を過ごす。
・・・そんな感じです。(え。どんな感じかいな。)
情熱というのは不思議なもので、
自分の意思でどうこうできるものではなくて、
それこそ自然と「湧いてくる」もののように思います。
「突き動かされる」というのはまさに
自分の頭の意思と関係ない、そんな感じです。
私にとって、音楽・歌とはPassion,情熱です。
でも情熱がいつも湧いてくるとは限らない。
駐車場で死んだようになっている時もあります。
それでも再びPassionが湧いてきて、
エンジンがブオン!とかかり、
私(車)は前に進み始めます。
そんなことの繰り返しです。
そして、今も私は歌う。
これもまた不思議で
情熱とは意思とは関係なく湧くけれど、
湧いてない時は「無いのか。消えてしまったのか。」と言ったら多分違うのです。
きっとずっと奥の方に存在するのです。
息を潜める時はあっても、決してなくならない。
時が来れば、
また私を突き動かす。
絶え間なく燃え続けるものが
私の中にずっと存在している。
時には激しく、時には静かに。
消えることがない炎が・・・ある。
そんなPassionの人である私ですが、
今の私のテーマは実は「Compassion」の方なのです。
Compassionとは、直訳すれば慈悲。
しかし「慈悲」と言われても何のことやら。
ちょっと難しいような、高尚な響きと言いますか。
私はCompassionを
人の苦しみや悲しみを共に感じることであり、
人が体験するそれらを思いやれる心・・・
と訳すことにしました。
Compassionという言葉を調べると、
この言葉は「Com」と「Passion」に分かれ、
「Co」とか「Com」「Con」というのは
「共に、一緒に」という意味がある。
(例えば、「Co-operate」→共に操作する→協力する。と言った感じです。)
Compassionの「Com」についてはわかった。
だが、じゃあ、なぜ、Passionが付くのだ?
だって、Passionって情熱でしょ?
どうして、それが慈悲とか、人と共に苦しみや悲しみを感じる、になるのだ?
そこで、私は今度は「Passion」を調べました。
そして驚くべき事実が!!!
以下、調べた結果。
↓
passionはラテン語やギリシア語のsufferingの意の語に由来します。
したがって「苦しむ、被る」というイメージが根幹にあります。
ここから、「被る」→「強い感情にとらわれる」→「情熱」というように
意味がつながっているわけです。
PassionとはSuffering(苦しむ)が語源とな?!
となると、先の「Compassion」についてはよく分かる。
共に苦しむ、悲しむ、という意味で。
がしかし、単体の「Passion」については、
情熱という意味づけをするにはちょっと、なんか・・・
他にあるんじゃないの?と言いたくなる。
何も「苦しみ」が語源というのはどうなのよ。
そしてこれにも納得いかない。
非常に短絡的な解釈だと思っている。
例えそれがとんでもなくお偉い言語学者の先生であっても!
ここから、「被る」→「強い感情にとらわれる」→「情熱」というように
意味がつながっているわけです。
被る?
囚われる?
は???
(断固として学者先生に歯向かう覚悟)
なので、私は自分なりに
Passionの意味に納得するために考えた。
必ずPassionとCompassionは繋がるはずだ。
(なぜなら私はPassionの人であり、
いつも苦しんでいると思われたらたまらんからだ。
違う。そういうんじゃない。
そしてCompassionは今の私のテーマだからだ。)
Passion...
Suffering...
Passion...
Suffering...
Passionは深いところから湧き上がるもの。
そして自分を突き動かすもの。
私はそれは魂から出てくるものだと思っている。
何のために、何に向かって、自分を突き動かすのか。
頭の中の思考なんかを軽々と超え、
「その先へ」と私を動かす。
何に対しての情熱かというのは、人それぞれ。
人それぞれの魂が決める。
でも共通するのは、
情熱を注ぐことによって、
必ず自分は「変容させられる。」
変容せざるを得ない。
いつまでも同じ自分のままではいられないのだ。
情熱という炎が
古い自分を焼き尽くす。
古い自分が焼き尽くされると、
新たな自分が誕生する。
逆説的に言えば、
古い自分が焼き尽くされないと
新たな自分は誕生しない。
そう、不死鳥のように。
その古い自分が焼かれてゆく、
それがSufferingなのではないかと思うのです。
生まれ変わるための苦しみ。
そして、Passionは自分を決して諦めない。
例え、自分の方がPassionを諦めても。
Passionには使命があるのだから。
その使命を果たすまでは消えない。
それこそ、私(車)が「駐車場でじっとしている」時があっても
Passionは常に次にブオン!とエンジンをかける
タイミングを待っている。
Passionとは
自分が変容するための炎であり、
古い自分を焼き尽くすところからくる苦しみ。
「産みの苦しみ」。
私はそんな風に解釈することにしました。
そして、私が解釈するPassionを
Compassionに当てはめると・・・
「人の苦しみや悲しみを共に感じる。」
という時の苦しみや悲しみ・・・
それは生きていると、必ず、必ず、
誰しにもある。
そして私が思う、その生きている中での苦しみや悲しみ・・・
それは人を高みへと変容させるものなのだ。
そこには、その苦しみや悲しみと向き合い、
焼き尽くされた後に残る、
新たなあなたがいる。。。
もうあなたはそれまでのあなたとは違う。
Compassion...
人の苦しみや悲しみを共に感じる、というのは、
その人が通っている変容のプロセスを、
「自分だってそうである」と
心で寄り添うことであろうと思うのです。
その相手がとんでもなく嫌な人間で、
自分に酷いことをしたような人でも、
その人自身も、その人の今いる場所で
変容の道を歩いている。
自分だってそうである。
CompassionというのはForgiveness(許すこと)とも
似ていることです。
Forgivenessというのは、
誰かがあなたにした酷いことを
「いいよ。」と言って認めることでは決してないのです。
その過去にされた「酷いこと」に
もうしがみつかずに、「あなたをそこから自由にすること」です。
そこで初めて
あなたはその人に対してCompassionを持てる、
そのように思います。
さて、私はPassionの人であるが、
今のテーマはCompassionである、と先に書きましたが、
それはズバリ、
私がまず自分自身に対してCompassionを持てるか、ということです。
決して完璧になることのない、不完全な人間である私に対して、
その魂の変容の道、苦しみや悲しみの炎を通る自分、
時にはみっともない姿で泣きながら前に進もうとする自分に対して、
「それでいいんだよ。十分にやっているよ、あなたは。」と
心から言ってあげられるか、です。
みっともないんじゃない、
それも立派なあなただ、と言ってあげられるか。
それを学んだ時、
私の世界はどう変わるだろう。
私はどんな気持ちで歌うだろう。
私はどんな歌を歌うのだろう。
PassionとCompassion...
そんな風に私の中で繋げました。
今度こそ消去しないぞ、笑。

私のオフィシャル・ページを
どうぞご訪問くださいませ。
プロフィール、経歴、ライブ情報、
それから私の歌も視聴できます!
https://www.ayukosaito.com

Instagram https://www.instagram.com/ayuko.is.here/
Twitter https://twitter.com/AyukoSaito
↓私の過去のlLIVE映像などはYoutubeでアップしています
https://www.youtube.com/channel/UCZiH2XUoIk7XVpWLuowKDUA
前回のアップからまたもや結構な日々が過ぎてしまいました。
いやいや、大丈夫、元気でございます。
先々週に誕生日を迎え、その数日後に満月を迎え、
誕生日前から何やらかんやら、
当日はとても嬉しいことがあったり、
自身の中での「リニューアル」とか(主に化粧品、笑、いや、大事よ)
何だか頭がやたら忙しい日々が過ぎて、
そこに先週英語の歌詞を書かせていただくお仕事が舞い込んできて、
作詞だけでなく、それに合わせて「一人でゴスペルの多重録音」という
仮歌(仮として歌を入れる)の宅録をして・・・
現在に至っておりますです。
そんな、誕生日と満月を超えてのお話でも、と思ったのですが、
実は書きかけのブログがありまして、
それが今回の「Passionについて語る」、です。
厳密に申しますと、
書きかけじゃないのよ。
全部書き終えていたのに、
こちらの痛恨のミスにより、
途中から最後まで全部
消しちまった・・・
しばらくそこから立ち直れなくてですね、
一旦「Let Go」したわけです。
そう、アナ雪のエルサのように
レリゴーーーーーよ。
で、本日ブログを久々に書こうと思った時に、
「やはりアレをちゃんと完成させたい」という、
それこそPassionが湧いてきたので、
湧いているうちに書く。
消えてなくなった後半を、
今の私の言葉で書いてやるんだいっ!
ということで。
AYUKO、今回はPassionについて語る。
語りたいのです。
厳密に言いますと、PassionとCompassionについて語りたいのです。
Compassionについてはもうちょっと後でね。
Passionとは、日本語では『情熱』。
そして私は自分のことを「情熱の人」と思っている。
人生を振り返れば、これまで私を突き動かしてきたものは情熱であったと思います。
何かに対してエンジンがブオン!とかかる。
そのブオン!が私の情熱で、一旦エンジンがかかれば突き進みます。
情熱とは私にとっては
車が進むためにガソリンが燃える、燃え続ける、
それがないと前に進めない、
そんなようなものでして、
情熱がなければ私は動かない。
先の「何かに対してエンジンがブオン!とかかる」の
「何か」がなければ、基本的に私は動かない。
駐車場に停まったまま
車の中で日々を過ごす。
・・・そんな感じです。(え。どんな感じかいな。)
情熱というのは不思議なもので、
自分の意思でどうこうできるものではなくて、
それこそ自然と「湧いてくる」もののように思います。
「突き動かされる」というのはまさに
自分の頭の意思と関係ない、そんな感じです。
私にとって、音楽・歌とはPassion,情熱です。
でも情熱がいつも湧いてくるとは限らない。
駐車場で死んだようになっている時もあります。
それでも再びPassionが湧いてきて、
エンジンがブオン!とかかり、
私(車)は前に進み始めます。
そんなことの繰り返しです。
そして、今も私は歌う。
これもまた不思議で
情熱とは意思とは関係なく湧くけれど、
湧いてない時は「無いのか。消えてしまったのか。」と言ったら多分違うのです。
きっとずっと奥の方に存在するのです。
息を潜める時はあっても、決してなくならない。
時が来れば、
また私を突き動かす。
絶え間なく燃え続けるものが
私の中にずっと存在している。
時には激しく、時には静かに。
消えることがない炎が・・・ある。
そんなPassionの人である私ですが、
今の私のテーマは実は「Compassion」の方なのです。
Compassionとは、直訳すれば慈悲。
しかし「慈悲」と言われても何のことやら。
ちょっと難しいような、高尚な響きと言いますか。
私はCompassionを
人の苦しみや悲しみを共に感じることであり、
人が体験するそれらを思いやれる心・・・
と訳すことにしました。
Compassionという言葉を調べると、
この言葉は「Com」と「Passion」に分かれ、
「Co」とか「Com」「Con」というのは
「共に、一緒に」という意味がある。
(例えば、「Co-operate」→共に操作する→協力する。と言った感じです。)
Compassionの「Com」についてはわかった。
だが、じゃあ、なぜ、Passionが付くのだ?
だって、Passionって情熱でしょ?
どうして、それが慈悲とか、人と共に苦しみや悲しみを感じる、になるのだ?
そこで、私は今度は「Passion」を調べました。
そして驚くべき事実が!!!
以下、調べた結果。
↓
passionはラテン語やギリシア語のsufferingの意の語に由来します。
したがって「苦しむ、被る」というイメージが根幹にあります。
ここから、「被る」→「強い感情にとらわれる」→「情熱」というように
意味がつながっているわけです。
PassionとはSuffering(苦しむ)が語源とな?!
となると、先の「Compassion」についてはよく分かる。
共に苦しむ、悲しむ、という意味で。
がしかし、単体の「Passion」については、
情熱という意味づけをするにはちょっと、なんか・・・
他にあるんじゃないの?と言いたくなる。
何も「苦しみ」が語源というのはどうなのよ。
そしてこれにも納得いかない。
非常に短絡的な解釈だと思っている。
例えそれがとんでもなくお偉い言語学者の先生であっても!
ここから、「被る」→「強い感情にとらわれる」→「情熱」というように
意味がつながっているわけです。
被る?
囚われる?
は???
(断固として学者先生に歯向かう覚悟)
なので、私は自分なりに
Passionの意味に納得するために考えた。
必ずPassionとCompassionは繋がるはずだ。
(なぜなら私はPassionの人であり、
いつも苦しんでいると思われたらたまらんからだ。
違う。そういうんじゃない。
そしてCompassionは今の私のテーマだからだ。)
Passion...
Suffering...
Passion...
Suffering...
Passionは深いところから湧き上がるもの。
そして自分を突き動かすもの。
私はそれは魂から出てくるものだと思っている。
何のために、何に向かって、自分を突き動かすのか。
頭の中の思考なんかを軽々と超え、
「その先へ」と私を動かす。
何に対しての情熱かというのは、人それぞれ。
人それぞれの魂が決める。
でも共通するのは、
情熱を注ぐことによって、
必ず自分は「変容させられる。」
変容せざるを得ない。
いつまでも同じ自分のままではいられないのだ。
情熱という炎が
古い自分を焼き尽くす。
古い自分が焼き尽くされると、
新たな自分が誕生する。
逆説的に言えば、
古い自分が焼き尽くされないと
新たな自分は誕生しない。
そう、不死鳥のように。
その古い自分が焼かれてゆく、
それがSufferingなのではないかと思うのです。
生まれ変わるための苦しみ。
そして、Passionは自分を決して諦めない。
例え、自分の方がPassionを諦めても。
Passionには使命があるのだから。
その使命を果たすまでは消えない。
それこそ、私(車)が「駐車場でじっとしている」時があっても
Passionは常に次にブオン!とエンジンをかける
タイミングを待っている。
Passionとは
自分が変容するための炎であり、
古い自分を焼き尽くすところからくる苦しみ。
「産みの苦しみ」。
私はそんな風に解釈することにしました。
そして、私が解釈するPassionを
Compassionに当てはめると・・・
「人の苦しみや悲しみを共に感じる。」
という時の苦しみや悲しみ・・・
それは生きていると、必ず、必ず、
誰しにもある。
そして私が思う、その生きている中での苦しみや悲しみ・・・
それは人を高みへと変容させるものなのだ。
そこには、その苦しみや悲しみと向き合い、
焼き尽くされた後に残る、
新たなあなたがいる。。。
もうあなたはそれまでのあなたとは違う。
Compassion...
人の苦しみや悲しみを共に感じる、というのは、
その人が通っている変容のプロセスを、
「自分だってそうである」と
心で寄り添うことであろうと思うのです。
その相手がとんでもなく嫌な人間で、
自分に酷いことをしたような人でも、
その人自身も、その人の今いる場所で
変容の道を歩いている。
自分だってそうである。
CompassionというのはForgiveness(許すこと)とも
似ていることです。
Forgivenessというのは、
誰かがあなたにした酷いことを
「いいよ。」と言って認めることでは決してないのです。
その過去にされた「酷いこと」に
もうしがみつかずに、「あなたをそこから自由にすること」です。
そこで初めて
あなたはその人に対してCompassionを持てる、
そのように思います。
さて、私はPassionの人であるが、
今のテーマはCompassionである、と先に書きましたが、
それはズバリ、
私がまず自分自身に対してCompassionを持てるか、ということです。
決して完璧になることのない、不完全な人間である私に対して、
その魂の変容の道、苦しみや悲しみの炎を通る自分、
時にはみっともない姿で泣きながら前に進もうとする自分に対して、
「それでいいんだよ。十分にやっているよ、あなたは。」と
心から言ってあげられるか、です。
みっともないんじゃない、
それも立派なあなただ、と言ってあげられるか。
それを学んだ時、
私の世界はどう変わるだろう。
私はどんな気持ちで歌うだろう。
私はどんな歌を歌うのだろう。
PassionとCompassion...
そんな風に私の中で繋げました。
今度こそ消去しないぞ、笑。

私のオフィシャル・ページを
どうぞご訪問くださいませ。
プロフィール、経歴、ライブ情報、
それから私の歌も視聴できます!
https://www.ayukosaito.com

Instagram https://www.instagram.com/ayuko.is.here/
Twitter https://twitter.com/AyukoSaito
↓私の過去のlLIVE映像などはYoutubeでアップしています
https://www.youtube.com/channel/UCZiH2XUoIk7XVpWLuowKDUA