deep forest

しはんの自伝的な私小説世界です。
生まれてからこれまでの営みをオモシロおかしく備忘しとこう、という試み。

115・沖縄の海

2019-05-28 23:30:15 | Weblog
 フェリーは、まる一日と一時間をかけて海を渡り、ついに沖縄本島に接岸した。港に降り立ち、ここからは再びヒッチハイクの旅だ・・・と思ったが、少し趣向を変えてみる。せっかくはるばるとやってきた南の島なのだ。海を堪能しない手はない。そこで、この旅ではじめてバスに乗ることにする。バス行でいけるところまで北上し、そこから徒歩行で海岸線を南下してみよう、と考えたのだ。行きあたりばったりの人生には、アドベンチャーが必要だ。海には、それがあるにちがいない。
 港発のバスは、陸路を往く(あたりまえだが)。小一時間というところか。サトウキビ畑を縫い、米軍キャンプの間を突っ切って、ノープランの旅人を名護という街で降ろした。もう日も暮れかけている。はやいところ、寝ぐらを探さなければならない。具合いのいい公園を見つけ、汚れた衣類を水道で洗濯し、洗ったものを草っ原にひろげて干す。その中心に寝そべり、一晩を明かすことにした。ハブの襲撃が怖いが、周囲に展開する垢染みの靴下が防衛ラインとなっている。この必殺の結界を信じるしかない。常夏の沖縄とはいえ、3月4月またぎのこの時期の夜は少々冷え込む。着られるだけの長袖を重ね着し、夢の中に逃避する。
 翌朝、毒ヘビの餌食になっていないことを確認し、新たな冒険の旅に出発だ。潮にやられたような色合いのシャッター街をしばらく歩くと、海はすぐに見つかった。沖縄県の地図を思い出せばいい。名護では、西に、つまり朝日の反対側に向かえば、自然と海岸線に出るのだ。
 名護の海を見た瞬間、「うつくしい!」という感動・・・はやってこなかった。確かに水は澄んでいるが、ひろびろとしていない。両サイドから岩塊が迫ってきて、ひどく窮屈な印象なのだ。そのために、せっかくのビューがカラフルに映えることなく、黒主体となっている。まばゆいばかりのエメラルドブルーを期待していたのに、ちょっと拍子抜けだ。しかし、海岸線を形づくるサンゴと岩の彫刻は興味深い。水面から突出した岩礁は、軟質で浸食されやすいのか、下部の波打ち際が異様に削げてくびれている。まるで、巨大な頭を細い首がかろうじて支えているかのようだ。そのたたずまいは、かの頭でっかちな門「守礼門」そっくりだ。なるほど、これに想を得てのあのデザインか、とひざを打ちたくなる。
 海辺には潮騒が響くのみで、浜を見渡しても、人っ子ひとりいない。浅瀬をのぞき込んでみると、そこは白砂でも、鮮やかなサンゴ礁でもなく、黒くてゴツゴツした岩場だ。その水中の岩陰に、瑠璃色をした小魚がキラキラとひらめいている。さすがにこいつはきれいだ。ただその周辺には、野太いナマコがにょにょにょっと横たわり、そのすき間に、ときんときんのウニが転がっている。そんな風景が、海一面にひろがっているのだ。岩礁に寄せる波間に敷き詰められた数知れない原始生物の光景・・・まさに地獄絵図ではないか。ちょっと足でも滑らせようものなら、にょにょにょとときんときんのベッドに飛び込むことになる。こんな危険な足場を、ここから島の南端に至るまで、綱渡りのように歩いていこうというのか、このオレは。どこでなにを間違えたのだろうか?
 しかし、オレとて冒険者を自認する男だ(ゆうべ、急に自認したのだが)。ゆくと決意したら、ゆかねばならぬ。水面から頭を出した最初の岩へと足を踏み出し、一歩、また一歩と慎重に安定を確保しつつ、踏査を開始する。このあたりの岩礁は、ゴツゴツとげとげと、異様なほどシャープに研ぎ抜かれている。なめらかな部分がなく、足の裏に受ける感触はまるでガレ場だ。転んだら、あのボーリングのピンほどもある大ナマコの群れにたどり着く前に、カミソリのような岩肌で、ズタズタの血まみれにされることだろう。しかしそのゴツゴツ感こそが、この豊饒の海を生成しているにちがいない。不意に波間にひらめく熱帯魚の色彩の多様さと言ったらどうだ。彼女たちは、この原始的な海だからこそ、環境と共生して長らえることができたのだ。南の魚とは、なんと南っぽい色をしていることか。翻って、金沢の海を泳ぐ魚たちの寒々しさを思う。あのおいしそうな色ときたら、なんと北っぽいことか。
 そんなこんなを考えながら、注意深く、息を詰め、次の一歩の出しどころを先の岩先に見つけていく。まったく、なんという試みをはじめてしまったのだろう。ところが、この陰鬱な海の光景が、次の瞬間には一転するのだ。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園