deep forest

しはんの自伝的な私小説世界です。
生まれてからこれまでの営みをオモシロおかしく備忘しとこう、という試み。

52・道草

2011-05-30 09:30:16 | Weblog
 コムツカシイ話になってしまったが、まあ若僧なりに、そんな高尚なことを考えながら日々を送っている。まだまだたいしたものがつくれるはずもないが、ゲージツを志す、という気概だけはいっぱしに持っている。なにしろ、上級生になるにしたがって、いよいよ授業のコマ数における美術の割合は増していく。芸術系大学の受験では、学科と実技の重要度の比率が1対10などと言われる。漢字の書き取りや分数の計算を捨ててでも、デッサン力と芸術観を身につけなければならないのだ。早朝から自主的に石膏像のデッサン、授業では美術概論、専攻科目では制作の技術を磨き、デッサンの授業に、放課後も自主デッサン、さらに日が暮れてから、美大の予備校ともいうべき「美術研究所」に向かう者までいる。本当に朝から晩までゲージツ漬けの毎日となっていく。
 そんな疲れ果てた心とからだを癒してくれるのが、学校のすぐ向かいにある駄菓子屋「すゞや」だ。午前中に早弁をかき込み、昼飯どきに購買のパンをむさぼり、デッサン中に「消しゴム用」の食パンをほおばっても、放課後には、育ち盛りのワカモノの胃は完全なエンプティになっている。そんな身に、すゞやのせまい店内から漏れるほの明かりは、しみじみとやさしい。生徒たちはそれぞれに、チロルチョコや、あずきバーや、チェリオや、マミーに手を伸ばす。カップ麵を買うと、おばちゃんが巨大なヤカンから熱々のお湯をそそいでくれる。そいつをみんなで回し食いしたりもする。割り箸の同じ側を使って男子と女子が交互に食べっこしたりすると、昭和時代におなじみの「間接キス」的ひやかしがはじまったりして、痛くも楽しい時間となる。
 あまりにも腹が減りすぎた日の下校時には、「さつき」というお好み焼き屋に駆け込む。「イカ入りお好み焼き」が210円という、衝撃の安さだ。しかもこれは、田舎者のオレにとっては、はじめてのB級グルメともいうべきもので、その濃厚、芳醇なうまさたるや、筆舌に尽くしがたいものがある。
 新岐阜百貨店の屋上にあるゲームコーナーにも通うようになった。50円硬貨がいっこあれば、「ディグダグ」や「クレイジー・クライマー」などというテーブルゲームで遊べる。ゲーセンを不良のたまり場と軽蔑し、近寄ろうともしなかったオレだが、はじめて自分の手で画面上のキャラクターを操る感覚には、雷撃のようなカルチャーショックを受けた。時代がここまで進んでいたとは、まったくの不覚だった。面白い!面白すぎる!ところが、眼下の電子的な動きに、わが原始的な脳みそはなかなか追いついてくれない。ものの数分でポケットを空にしてしまい、その後には、岸やイトコンのあざやかな手さばきに見とれるばかりだ。これまでの幼い人生を、田んぼに囲まれたのどかな風景の中で過ごしてきたオレは、場慣れた振る舞いをする同級生たちに誘われるままに、社会におけるいろいろな作法を学ばされる。はやくやつらのステージにまでのぼり詰めたいものだ。
 遊び場といえば、学校から駅へと向かうまでの道のりに、最大級の魅惑的なポイントが存在する。数ブロックもの幅と厚みでひろびろと展開する、東洋一のトルコ(現ソープランド)街「金津園」だ。この大人の遊び場では、警戒が必要だ。薄暮が迫る頃にこの一角は、まるでまじないのようなめくるめく輝きを放ちだす。街をまるまるひとつ分をも支配する広大な光の王国は、ちょうどわがチャリの通過時に合わせるかのように、えげつない熱を帯びはじめるのだ。従業員(?)の送迎用に使われているベンツが次々と店に横付けされ、きらびやかな姐さんたちが降り立つ。「ぼーや、寄っていきなさい」「いーことを教えてあげるわ」「学割もきくわよ」・・・美しき彼女たちは、しなをつくって誘惑してくる。そんな危険地帯を突っ切りつつ、高校生たちは、世間の仕組みを観察する作業も忘れない。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

51・リンゴと命

2011-05-29 07:15:13 | Weblog
 モデル台の上では物体と化すその人物が、休憩に入ると笑顔を見せ、コーヒーを飲み、話しはじめる。そのことが、なんとも不思議に思える。
 はじめのうちは、描く側のこちらがあまりにも緊張していたために、モデルさんとは口を利くこともできなかった。そういえば、自己紹介もなにもなかった。最初のその機会を逃すと、その後は気詰まりになり、なかなか会話の糸口が見いだせず、打ち解けることができないものだ。しかし、考えてもみてほしい。そもそも、今の今まで素っ裸でいた人物が、ハイ休憩です、とガウンを一枚はおるとして、なにを話せばよいものか・・・高校生の身には、思い浮かびようもないではないか。「いいからだっすねえ~」「毛の処理はどうしてんすか?」ではいくらなんでもヤバいし、「時給いくらっすか?」も失礼だ。「本職はなにを?」と訊いて、「風俗です」なんてのが返ってきたら、その後の会話の処置が大変になる。「じっと立ってて、しんどくないっすか?」あたりが正解なのだが、弱冠16、7歳にそんな気づかいの余裕はない。そんなわけで、休憩時間はいつも、し・・・ん、とした雰囲気になる。ダイアル式のタイマーが鳴り響くまでの無言の五分間は、地獄の業火にあぶり立てられるような気分だ。
 しかし、突破口はいつも女子が切り開いてくれる。彼女たちの配慮は素晴らしい。疲れた様子のモデルさんに、肩もみまでしてさしあげるのだから、恐れ入る。あの裸の人物に手を触れるなど、男子には及びも付かない。しかしこうして、われわれの間をはるか隔てていた距離感は、徐々に狭まっていく。いったん口を開くと、相手も気さくに応じてくれる。ようやく人間味のあるやり取りが可能になった。彼女の笑顔がとてもチャーミングだとも気づいた。
 モデルの女性は、舞台女優さんだった。女優さんとは言っても、華々しいものではなく、仲間たちでつくったつつましい小劇団ででも活動しているのだろうが。しかしなるほど、モデル台というのは、極限まで面積をせばめた舞台でもある。その上で彼女は、物体を演じているわけだ。「リンゴは動かない」と言って、セザンヌはモデルさんを叱ったというけど、彼女はその通り、舞台上でリンゴにでもなった心持ちでいるのだった。
 モデル台を降りた地上界では人間味を取り戻す彼女だが、ひとたびタイマーが鳴ると、一糸まとわぬ姿でリンゴを演じてくれる。驚異の集中力で、身も心も物体になりきるのだ。画学生たちは四方八方からその姿を・・・純粋な姿形=フォルムを見つめ倒し、解析し、画面上に再構築していく。ただ、その立ち姿は、リンゴとはまるで違う一点がある。「人間は、静止した状態にあるときでも、内部ではコマのように回転している」みたいな言葉を、確かマイヨールあたりが言っている。目の前のモデルさんはなるほど、空間内にきりりと動くまいとしてはいる。しかし、筋肉の緊張と重心は刻々と体内を移動し、常にバランスを探している。描く側は、肉の起伏やラインではなく、その内部の緊張感を写し取らなければならない。それが、リンゴと「命あるもの」との違いでもあるのだから。その「命」そのものを構築するために、ゲージツ家たちは生きた人間を描き込む。
 こうしてデッサンを山のように積み上げると、次にその肉体を立体に起こす作業となる。いよいよ「彫刻」だ。木とハリガネで骨組みをつくり、粘土をはり付けてボリュームを与え、削いでは付け、付けては削いで、人型にしていく。絵画などの平面技法は、ものを一面でしか捉えないが、立体造形は、あらゆる方向からの視点が必要だ。それを矛盾なく空間内に構成していくのは、骨の折れる作業だ。だけど、そここそが面白いところでもある。彫刻には、色もなければ、コントラストもない。圧倒的な実在があるきりなので、まやかしがきかない。手を動かし、正解を求める。しかし、どうにもうまくいかない。人体がいかに美しいものかを、まざまざと理解させられる。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

50・裸婦

2011-05-27 10:21:48 | Weblog
 肉体の成長は促されたが、精神の成長を促すべき劇的な機会もまた同時にやってきた。
「はだかの女が見れるぞ!」
 裸婦デッサン、なる授業が行われるのだという。つまり、素っ裸の女性をモデルにして画を描きましょう、というあれだ。人体のつくりを理解するために、裸婦の素描は芸術の世界では必須の課題なのだ。数週間後に、そんな夢のような出来事が実現する。ウワサを耳にした男子たちは、ざわめき立った。なにしろ、今まで幻想世界にしか存在していなかった、おっぱいや、尻や、もっと重要な秘部を、心ゆくまで凝視できるチャンスだ。心穏やかでいることなどできるわけがない。妄想はふくらみ、別のものもふくらむ。
「水泳用のサポーターパンツを二枚重ねてはいてけ」
「立って描いたらあかんぞ。ぜったい座ってデッサンしなかん」
 悪い先輩たちからさまざまなアドバイスを受け、オレたちは、反応するにちがいない体の部位対策を練った。そして本番当日を夢み、粗相などしでかさないように入念にシミュレーションをくり返し、指折り数えて寝苦しい夜を過ごすのだった。
 早くきてほしいような、こないでほしいような、そのときがついにやってきた。彫刻室は、窓という窓に真っ黒なカーテンが引かれ、内部の光景を決して外に漏らすことがないように、厳重に覆い隠された。この密室感が、またなんともたまらない。いつも過ごしている何気ない空間が、今や劇場のような雰囲気をかもし、いやが上にも気持ちの高揚を駆り立てる。生つばを飲んで、その瞬間を待った。
 果たして、それが開始された。着替え用に特設されたカーテンのブースから、薄いガウン一枚のみをまとったモデルさんがしずしずと登場だ。きれい・・・でもなく、かわいい・・・ともいえず、かといってブサイク・・・なわけでもない、普通の女性だ。30前くらいか。意外に、気分の盛り上がりはない。がっかりのような、安堵のような、奇妙な心地だ。と同時に、ピリピリとした緊張感が、部屋全体を包み込む。誰もが無言だ。期待していたストリップは、恐ろしいほどの厳粛さで幕を開けようとしている。
「では、お願いします」
 好々爺のタマイ先生が言うと、モデルさんは少しの躊躇もなく、はらりとガウンを肩からすべらせる。そして、部屋の中央に用意された、ちゃぶ台のようなモデル台の上に立ち上がった。
 その瞬間、ある種の「きょとん」が去来した。まばゆさも、興奮も・・・皆無だ。率直に言えば、それはストリップショーではなかった。下半身は、なんの反応を起こさない。目の前にあるのは、モノだ。生きた肉の質感を持つ物体。それが動かないで、空間の中に存在している。石膏像と、たいして違いはない。薄く呼吸をしているかどうか、だけの話だ。ただ、それは圧倒的にリアルだ。人体の理想型たる石膏像と比べてはなるまいが、幻滅をともないそうになる現実がそこにある。おちちにも尻にも、あらがいようのない引力が作用している。肉の起伏は、幻想界のもののようになめらかではない。つまり裸婦とは、すばらしく美しいわけでもなければ、エロいわけでもない。夢の中に思い描いていたものと、それはおよそかけ離れた、無慈悲な真実だ。しかし、骨格の上を筋肉が取り巻き、皮に覆われたその物体は、血液を走らせ、体温を発している。呼吸と鼓動のリズムが波打って表皮を駆け巡り、バランスを求めるからだの均衡は一時も固定されない。そのことが、こちらを決定的に感動させる。いやらしさではない、理由のわからないドキドキが止まらず、鉛筆を動かしながら、ただただ動揺しつづけるしかなかった。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

49・肉体改造

2011-05-26 11:47:18 | Weblog
 背が伸びて見栄えがするようになったとはいえ、オレは驚くばかりの虚弱で、3キロもの鉄アレイを持ち上げたら、肩が抜けてしまいそうだ。うんしょ、うんしょ、うんしょ・・・両手にそれをぐっと持ち、左右交互に肩の位置まで引き上げるのだが、三回も連続して上げると、へとへとになってへたり込みたくなる。それでも休み休みにやってみる。三回は四回に増え、五回になり、十回になる。やがてそれが百回を超えるほどもできるようになると、自分の中の野性が目覚めはじめた。枯れ枝のようだった腕がパンパンに張ってきて、なかなかたのもしい。見た目にうっとりとさせてくれる。回数をどんどんと増やしてやろう、という気になってくる。ガリガリ男の肉体改造計画は、こうして着手された。
 それにしても、パワーとは際限もなくついていくものなのか。二百回、三百回、五百回・・・やがてカールの回数をカウントすることに飽き、時間を単位にするようになる。十分間つづける。二十分間、三十分間・・・頭を空っぽにして、上げつづける。そして一時間以上もつづけられるようになると、3キロという重さがスカスカに思えてきた。工夫して、頭上に高々とプッシュアップしたり、腕を真横にひろげたり、負荷を強めてみるが、なんとなくおもちゃを扱っているような気分で、バカバカしくなってくる。そこで再び散財し、これまでの倍の重さの6キロの鉄アレイを手に入れた。片手で赤ちゃんふたり分という、笑えてくるほどのイカツい代物だ。こいつを夜な夜な持ち上げては、きりきりと筋肉がきしむ感触にほくそ笑む。これは、男子ならきっと経験しなければならない通過儀礼なのだが、改めて振り返れば、気味の悪い内部衝動ではある。
 こうしてしばらくは鉄アレイを偏愛したが、さらに、腕立て伏せにも入れ込むようになった。引く、に対して、押す、という筋肉の活動も必要だと気付いたのだ。数年前には、ジャッキー・チェンの映画が巷で大流行し、「ドランクモンキー・酔拳」なんてアクションコメディが大ヒットしていた。その秘密特訓のシーンを真似て、腕立て伏せの格好で地面についた手首を裏表交互に返してみたり、指立て伏せをしてみたり、「ロッキー」でシルベスター・スタローンが片手で腕立て伏せをするのに衝撃を受ければ、チャレンジしてみたりもする。膨張願望に取り憑かれた高校生は、テレビの中のヒーローの姿に自分を映し込もうと、我を忘れている。新日本プロレスも、ものすごい視聴率を取っている。アントニオ・猪木や長州力といったストロングスタイルも熱いが、ひと回り小さいウエイトのライトヘビー級では、タイガーマスク、小林邦明、ダイナマイト・キッドなんかがリング狭しと飛び跳ねていて、本当にドギモを抜かれる。あんなにたくましく、美しく、躍動的なからだになりたいものだ。
 毎晩、家族との晩飯を終えると、テレビを観るのもそこそこに自室に閉じこもり、自分を鍛え上げる。ペットにエサを与えるように、鉄アレイを振り回し、筋肉を育てていく。片腕立て伏せは、左右それぞれに15回を数えるまでになっている。野生の目覚めもあるが、もっと顕著に覚醒したのは、ナルシシズムだろう。腕が上がらなくなるまで筋肉をいじめ抜いた後に窓ガラスの前に立つと、おのれの上半身がボディビルダーのように張りつめていて、ギョッとする。力こぶが膨らみきったままで、腕がまっすぐに伸びない。ヨロイのような肩筋がつき、胸筋は盛り上がり、腹筋がチョコレイトのように区画化されていく。気づくとオレは、素手でクルミを砕き、リンゴを握力でまっぷたつに割れるまでの力を手に入れていた。

つづく

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48・進化

2011-05-24 20:07:01 | Weblog
 小・中学校時代はチビだったオレだが、高校に入った途端に、どういうわけか劇的に背が伸びた。日に日に、脳天が上空に運ばれていくのだ。視線も高くなり、周囲を見下ろすようになった。四肢が細長く引き伸ばされていく。学ランがみるみるうちにちんちくりんになっていく。まったく、不思議な感覚だ。
 満員電車が人類を巨大化させる、という説がある。ダーウィンの古典的な進化論の展開系だ。生物たちが激しい生存競争と淘汰律にさらされていた昔々、動物の中のある種は、高い枝に生える葉を食むために「自らの首を長く伸ばす」という選択をした。こうしてキリンは、他の四つ足動物では届かない高みのエサを独占し、効果的に子孫を繁栄させることができた。同様に、満員電車内で酸素を獲得するために、人類の背丈も伸びているのではないか?というのだ。確かに、暑苦しい人並みから頭ひとつ抜きん出た者は、電車という競争社会における優良種だ。オレのからだは、満員電車内での生存競争で揉まれるうちに、素直な進化を遂げたようだ。
 昭和時代の価値基準で「かっこいい」と称されてよろしい180センチのラインに到達し、オレはさらなるモテカードを手に入れた。ところが、美術科のクラスメイトはノッポぞろいだ。苅谷は180のオレが見上げるほども背が高く、ちんや川口もこのラインをクリアしており、日置も近いところにいる。苅谷はサッカー部ですでにまぶしいほどの活躍をしていたし、ちんは稀代の二枚目。川口は、このときすでにヒトヅマに童貞を提供し終えていたマセ高校生。日置は物静かだが、目がクリクリの優等生。男子が9人しかいない美術科で、背が高くなったとはいえ、オレはいまだにまったくの没個性だ。
 しかし、身体的な成長というのはなかなか愉快なものだ。日に日に大きくなっているという実感が、さらなるモチベーションを刺激する。そんな中、急に野心が芽生えた。ヒョロヒョロの節くれ立った四肢がコンプレックスのオレは、この骨と皮の間に筋肉を盛り込んでやろう、と思いついたのだ。すべてを成り行きまかせにしがちなぼんやりとした性格にして、はじめてともいうべき成長意欲だ。
 オレはさっそく小遣いをはたき、片方で3キロという鉄アレイを手に入れた。本当は「リングにかけろ」みたいなパワーリスト&パワーアンクルが欲しかったのだが、さすがにこいつは大げさすぎる。その通販品ときたら、普段、手首と足首に巻いておくだけで、いざはずしたときに、驚くべきパワーが発揮できるというのだ。しかしこんなものを常時身につけていて、日常生活に支障を来しては困る。その横で広告されている鉄下駄も、渋くてあこがれだ。そいつをはいて町内を一周しようものなら、脱いだときのキック力がハンパなくなるにちがいない。しかし、もしも買ったとして、いざはいてみたとして、ひょっとして、一歩も歩けなかったら困るではないか。まるで、地面に釘付けの刑だ。その画づらは悲惨すぎる。散歩以前の問題だ。楽をするにも苦労するものだなあ、としみじみと考え入らされる。それ以外にも、少年ジャンプの背表紙で必ず広告になっている「ブルワーカー」にも心引かれる。「ひ弱なあなたもたちまちムキムキ、モテモテ」みたいな殺し文句で名を馳せる筋トレ器具だ。入れ子になったスライド式の金属棒に板バネがくっついたもので、いろいろな態勢で伸び縮みさせると、たくましいからだになれるらしい。なにしろ、図説の少年のイラストがすごい。日陰のゴボウのようだったからだが、数週間でプロレスラーのようになり、自信満々となった彼は、周囲を取り囲む女の子たちからハートの目で見つめられている。こいつはどうしても欲しい。しかし、高額で手が出ない。そこまでの大枚は、高校生にははたけない。ところで今気づいたのだが、「アシが出る(出費過多)」と「手が出ない(高価断念)」とは、言葉としてリンクしてるんだろうか?まあ、それはいいのだが。
 とにかく、オレは悩みに悩み、鉄アレイ、すなわち、ただの鉄の塊を握り手で渡して持ち上げやすくしましたよ、という風情あふれる原始的なトレーニング用品を手に入れたのだった。ただ、こいつはなかなか使えるようだ。とりあえず、以後、肉体改造にはげむとする。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園