deep forest

しはんの自伝的な私小説世界です。
生まれてからこれまでの営みをオモシロおかしく備忘しとこう、という試み。

76・第七餃子

2018-08-20 04:24:40 | Weblog
 金沢に名店数あれど、小立野台地(せまい!)にその名を轟かせる名店中の名店。マッタニがバイトをはじめた「第七餃子」は、美大生が入学して最初に巡礼する聖地だ。
 美大のほど近くにあるこの店は、毎日、腹を空かせた貧乏美大生と、その周辺のあまり上品でない人々とでごった返している。油でペタペタする暖簾をくぐると、餃子のにおいが渦巻く熱気に圧倒される。その熱量は、人いきれのせいもあるが、10基ばかりもあるガスコンロがフル回転していることによる。シンプルに四角い店内の中央に広々とした厨房があり、一直線の横並びになったガスコンロが、餃子を満載した鉄板に盛大な炎を送りつづける。多くの「餃子焼き職人」らは、ひっきりなしに鉄板を揺らし、油を注ぎ入れ、流し捨て、餃子の焼け具合いを確かめてはひっくり返し、皿に移しては、次から次へと客の前に運ぶ。餃子の投入から焼き上がりまでは流れ作業で、その流麗さはオートメイションの自動車工場を彷彿とさせる。そんなオープンキッチン・・・というか調理作業の模様がむき出しの厨房をコの字に囲んで、長々とカウンターが配されている。客は、25人ほどが内向きの横並びに座れるようになっており、この形状は、なるほど本当にキッチンスタジアムのようではある。が、調理の進み具合いが目前に鑑賞できるとは言っても、おしゃれというわけではなく、ただただ餃子がベルトコンベアのように移動して焼かれていく工程を見せられるだけなので、むしろ工場見学といった趣きだ。合理性と効率だけを追っかけたらこうなった、という、つまり最も粗雑な店内の構造だ。そしてこの構造のせいで、注文をした客はいよいよ待ちきれなくなり、ますます腹をすかし、よだれを湧き立たせて、ここのホワイト餃子に恋い焦がれてしまうのだった。
 さて、厨房の奥には座敷が三、四室あり、その中の一部屋では、おばちゃん(餃子包み職人)たちが日がな一日、餃子をくるくると包んでは、バットに並べている。その速さたるや、そしてその手から生み落とされる餃子の量たるや、そして次々に重ねられるバットの数たるや、ものすごい。その大量の餃子が、常時すき間なく席を埋める客と、途切れることなく後ろに行列をつくる客の胃袋に、またたく間におさまっていくわけだ。この餃子を包むおばちゃんたちが開始点だとすれば、この人物は最終点といえる。新入りのバイト生・マッタニは、厨房のいちばん端っこで、いつもフライパンを洗っている。尋常でない数の餃子が焼かれつづけるので、油まみれのフライパンも、ひっきりなしにマッタニの手元に放り込まれる。それを亀の子タワシでガシガシと磨くのが、やつの仕事らしい。
 オレは、ゴルフボール大の餃子が一皿15個で330円、という信じがたい安さ(そしてうまさ)のホワイト餃子と、150円ばかりの豚汁とを口に運びながら、あいつはえらいなあ、まったくたいしたやつだ、オレもやつのようにたくましく生きねばなあ・・・と、半ば憧れに似た想いを抱かされる。仕送りをもらって楽をしている自分を、情けないと感じざるを得ない。
 そんなある日、金沢市街のど真ん中の「片町」というかっこいい場所にある居酒屋「村さ来」の店先に、「学生アルバイト募集中!皿洗い、時給550円」の張り紙を見つけたのだった。マッタニの後ろ姿を思い浮かべ、「ようし!」とこぶしを握る。ひょいとその店に飛び込んだ。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

75・マッタニ

2018-08-20 04:03:12 | Weblog
 彫刻科の新入生、すなわち同窓の面々は、四浪が1人、三浪が2人、一、二浪が5人、そして現役通過は7人というバランスだ。同期の半数以上が、年上というわけだ。居並ぶ顔を見渡したところ、愚鈍そうなやつや真面目そうなやつはいても、ぶっ飛んだ芸術家はいそうにない。ましてや天才となると、オレくらいのものか。どいつもこいつも、競争相手として見栄えがしない。コツコツ型の小市民が集まるのが田舎美大というものだと知った。まあ、想定内だが。
 そのとき、不意に話しかけられた。
「じぶん同い年やろ。よろしくたのむわ」
 脳天のどの器官から発声しているのか、笛のような甲高い声だ。先刻の自己紹介によれば、たしか松谷という男だ。マッタニ、と読む。
「仲よーしょなー」
 マッタニはオレと同じ現役組で、行動・言動・脳の造りがどこまでも吉本流儀な、コテコテ関西人だ。一重で切れ長の目は細すぎ、まぶたのすき間からちゃんと外界が見えているのか心配になってくる。が、横方向には視野がよく利くらしく、油断がならない。つき合ってからわかっていくことだが、利にさとく、ゼニ勘定に強い。なのにどこか抜けていて、憎めないやつだ。優しさの裏返しのドライっぷりも気持ちのいい男で、オレたちはすぐにウマが合った。
 マッタニは、同い年なのにはるかに早熟で、人生経験で常にオレの数歩先をいっている。いつもタバコを横くわえにふかし、「モンキー」というスーツケースにおさまりそうなミニバイクにまたがって颯爽と(・・・いや、かなり滑稽に)登校し、時給が高いとウワサの人気ギョーザ店でさっそくバイトをはじめ、ヤニくさい部屋で仕送りなしの自活をしている。そして、小さなコタツの机面をひっくり返して麻雀牌をガラガラとかきまぜながら、「セックスは100回はしたで」とうそぶくのだった。オレは、やつのそんな細すぎる目を見て、う、む、むー・・・とうなるしかなかった。
 オレの下宿部屋には、コタツやストーブ、エアコンをはじめとする暖房器具が一切ない。生活用品を極限までしぼったはいいが、シンプルが過ぎたようだ。北陸の春を甘く見ていた。寒すぎる夜には、毛布にくるまってカキピーをポリポリとかじるしかない。温風を送ってくれる装置がない以上、辛いものでも食べて基礎代謝を上げ、内側から熱を出すくらいのことしかできない。温かい食べ物をつくろうにも、キッチンがない。人肌でぬくもろうにも、触れ合ってくれる彼女など夢のまた夢。ついでに言っておけば、この部屋にはテレビもなく、電話も共用。ましてやパソコンなど、近い未来にゲイツかジョブズが出現するのを待つしかない。つまり、夜になるとすることがない。こんな部屋でひとりきりで過ごしていると、精神崩壊の・・・いや、生命の危機というところにまで問題が及んでくる。
 そんなわけで、コタツ、電気ストーブ・・・機械的なぬくもりに満ちたマッタニの部屋は、オレにとって第二のねぐらとなりつつある。

つづく

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74・新歓ソフトボール大会

2018-08-17 08:51:26 | Weblog
「午後に、新歓ソフトボール大会をやるから、準備しとけ」
 先輩が1年坊部屋にやってきて、一方的に勧告していった。新歓コンパの酔いもさめきらない、数日後のことだ。
「全員参加な。胃薬を飲んでから、グラウンドに集合」
 なんだ、胃薬って?ソフトボールと関係あるのか?と、いぶかしみながら、午前中の授業を恐々と過ごす。
 昼飯をすませ、言われた集合時間だ。みんなでぞろぞろとグラウンドに出た。グラウンドは、エントランスホールのすぐ裏手にひろがっている。要するにこの大学は、ひどく建物が薄っぺらなのだ。その代わりと言ってはなんだが、グラウンドは広大にひらけている。東側を古びた校舎に、北側を医療短大の清潔な壁に、そして南と西側を竹の生い茂る崖に囲まれている。整備は行き届いていない。運動場というよりは、むしろ空き地と呼んだほうがしっくりとくる。一見して、スパイクに荒らされた草っぱらなのだ。その最奥部、北西のすみに、野球用のバックネットとピッチャーマウンドがある。ふと、三塁側ベンチを見ると、すでに上級生の面々と、ビール、日本酒などの多彩な酒類が並んでいる。バーベキューのような雰囲気だが、肉はなさそうだ。
「これより、彫刻科恒例の新入生歓迎ソフトボール大会をはじめる。ルールは簡単だ。新入生は、順番にバッターボックスに立ち、自己紹介をする。守ってくれてる先輩たちの耳に届くように、大きな声でな」
 自己紹介が終わると、打席で、日本酒でも焼酎でもなんでもいいが、とりあえず三杯の酒を飲み干すのだという。
「一塁打なら、一塁ベース上で酒が一杯飲めるんだ。二塁打なら二塁で二杯、三塁打なら三杯飲ませてもらえるぞ。がんばってな」
 アウトなら、戻ったベンチで先輩たちが歓待してくれて、酒も飲み放題だという。なんとありがたいルールではないか。とにかく、なんやかんやと理由をつけては酒を飲もう、というのが、この科の文化らしい。そして先輩たちは、新入生たちをはやくその水に慣れさせようと骨折ってくれているわけだ。迷惑・・・いや、感謝の念を禁じ得ない。と同時に、はやくもベンチでどんちゃん騒ぎをしている先輩たちの姿を見ていると、やはりこのひとたち、自分たちが飲みたいだけなのでは?との疑惑を否定しきれない。
「岐阜県の加納高校からきました、すぎやまよしたかですっ。よろしくおねがいしますっ!」
 コップ酒を三杯あおると、すでに頭がくらくらしはじめる。三つに揺れて見えるボールを思いきり打ち返し、一塁ベースに走る。が、ふらふらの足が蛇行する。一塁ベース上では、美しい幻想界に住む女の先輩が、クラブママよろしく、一升瓶を片手に待ってくれている。現実と夢の見分けがつかない。次の瞬間には、大きな青空が視界いっぱいにひろがって、ぐるぐると渦を巻きはじめる。
 かくて、二回表も半ばには、グラウンド上のあちこちで車座ができ、ゲッちゃんの海に沈む新入生を尻目に盛り上がる先輩たちの姿があるのだった。ところが行き届いたもので、ベンチ横には、ツブれた新入生を寝かすブルーシートのブースが設けられ、毛布や救護班が用意されている。さらに、瀕死になった重篤者を各アパートに送り届ける搬送班も、あらかじめ車で待機している。こうして脈々と、文化は伝えられているらしい。一年坊は、ツブされてツブされて、酒に強くなり、少しずつ彫刻科に受け入れられていく。これは、先輩たちの意地悪でも、厳しさでもない。きちんと、正当に、仲間としての心優しさなのだ。

つづく

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73・酒の飲み方

2018-08-16 22:47:39 | Weblog
 その夜。金沢市街をかすめるように流れる犀川のほとりの、ナントカ会館。ここのとある一室で、彫刻科新入生たちの阿鼻叫喚が渦巻いている。高校時代には経験したことのない、すさまじい酒盛りが行われているのだ。「新入生歓迎」のコンパとは、名ばかりだ。とっとと新入りたちをツブして、気の知れた仲間内で盛り上がろうと考えているとしか思えない、先輩たちの横暴ぶりだ。
 ハコは、安居酒屋ではない。冠婚葬祭に使用されるようなそこそこの格式を誇る、パーティ用のホールだ。教授陣をはじめとする先生方も、特別あつらえのコーナーに列席している。これは、フォーマルな場らしい。そのふわふわカーペットの床に、新入生たちは死屍累々と身を横たえている。自らのゲッちゃん(嘔吐された吐瀉物のことをこう呼ぶ)の海の中で討ち死にしている者もいる。わんわんと号泣している男子もいる。笑いが止まらなくなっている女子もいる。全員が酔っ払いだ。真っ赤になって大いびきをかいている者もいれば、まっ青になってぴくりともうごめかない者もいる。まさに地獄絵図と言っていい。それを横目に、先輩たちはステージ上で、裸になり、歌い、踊り、芸を披露し、そして例の「イッキ飲み」というやつをやらかしている。高校時代とは次元の違った飲み方を見せつけられ、愕然とさせられる。オレもまだまだ甘い、もっともっと酒に強くならねば・・・と、ぐでぐでに緩んだ気を引き締める。が、そのまま意識が遠のいていく・・・
 翌朝。天井がぐるぐると回る渦の底で目を覚ました。ゆがんで見えているが、どうやら自分の部屋のようだ。どうやって帰ってきたのか、思い出せない。頭の芯がズキズキと痛む。胃液を吐ききって、体内のエネルギーは空っぽだ。酔いはまだ腰からひざにたっぷりと残っており、歩いてみると、まっすぐに進めない。そんなからだで、それでも授業にだけは出なければ、と学校に向かう。
 ようやくたどり着いた彫刻科棟の1年坊部屋のドアを開けると、室内に日本酒の芳香が充満していた。むんっ、と濃密なエーテルが脳内に殺到し、めくらむ。その場の空気をかいでいるだけで、酸っぱいものが込み上げてくる。ふと気づくと、前夜に封を切られた巨大な樽酒が、部屋のまん中に、でん、と置かれているのだった。「残りを飲んでいいよ」という、心優しき上級生たちからの思いやりだ。それとも、「もっと強くなれ!」という無言の圧力なのだろうか?洗礼は終わったわけではなかったのか?
 そこへ、上級生の中でも最も猛者と思われる面々が入ってきた。
「お、まだこんなに残っとるやないか」
 先輩たちは、樽から柄杓で酒をすくい、升(ます)に注いでいる。昨夜のつづきで、飲め、とその升を差し出されるのかと思いきや・・・
「入学おめでとう。かんぱ~い」
 自分たちでがぶがぶと飲み干しているではないか。
「ああ、うめえ。おまえらに飲ますには、もったいない酒や」
 そう言いつつ、彼らは朝っぱらから日本酒をかっ食らうのだった。これはすごい。一刻もはやく、自分もこのレベルに到達せねばならない。
 その後も、先輩たちは代わるがわるに現れ、樽酒を飲んでは、ひと言ふた言、訓示のようなものをたれ、帰っていく。男の先輩はもとより、女の先輩も、部屋にきては酒を飲んでいく。次第に、これは先輩たちなりのコミュニケーション方法なのだ、と理解した。こうして上と下との顔を、自然な形で(?)つないでいくわけだ。古都の名にふさわしい、わびさびの利いた麗しい文化ではないか。そして、この大学は、この科は、豪気でバンカラなよろしき文化を持っているではないか。やるぜ、金沢。オレも一杯だけそいつを口に含み、込み上げる吐き気をこらえつつ、飲み下す。

つづく

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72・金沢市立美術工芸大学

2018-08-13 09:24:46 | Weblog
 金沢市立美術工芸大学は、門からの広々としたアプローチ(駐車場だが・・・)の奥に、巨大なサモトラケのニケ像(石膏製のレプリカだが・・・)を仰ぐエントランスホールを構えている。その空間を、右に折れれば工芸科、左に折れれば油絵科だ。左奥の階段を上れば日本画科にいけるし、中央階段の先にはデザイン科がある。そのさらに上階には、学科授業用の大小講義室が並んでいる。
 さて、彫刻科はどこだ?という話になるわけだが、例によってこのマイナーな科には、特別あつらえの棟が用意されている。作品が大掛かりになるから、というのが表向きの理由だが、別の側面もあろう。うるさいし、きたないし、ほこりっぽいし、汗くさいし、人間の出来が粗野粗暴だし・・・という各点も、他の科から隔絶される理由にちがいない。つまりこの特別待遇の意味は、どれだけ汚しても、やかましくしてもかまわないから、一定の線からこっちにはこないでくれ、という、いわば配慮、いわば厄介者扱い、なのだった。
 彫刻科は、一学年がわずか15人という少所帯だ。一年めは、塑像、木彫、鉄、石彫と、四種類の「ゼミ」をひと通り経験し、二年めに入ってから、その中から専門科をチョイスすることになる。各科ごとに大きなアトリエがあてがわれていて、どの部屋をのぞいても、先輩たちが黙々と研鑽を積んでいる。システム自体は高校時代と同じだが、装備の充実度も、作品の規模も、先輩たちの熱意も、さすがにケタ違いだ。高揚を感じるとともに、緊張に身が引き締まる。
 入校式を終えて、15人は1年生部屋に集められた。男子が10人、女子が5人というバランス。ちなみに女子たちは、美しいというよりは、たくましいという形容詞がしっくりとくるたたずまいだ。この点においては、胸が高鳴ることはなかった。
「とりあえず、今夜は新入生歓迎コンパだからね」
 ヤーさんか、よく言ってもテキ屋のオヤジのような出で立ちのサングラス氏が、ぐだぐだな挨拶をはじめている。1年生の担当教諭らしい。ダイジローという木彫の先生で、お父ちゃんがとてもえらい彫刻家だという。親の七光りのもとに配置された、下っ端講師と言える。
「胃薬をね、前もって飲んどくようにね」
 芸術論や、彫刻の話などはない。ダイジローは、この夜の酒盛りの話ばかりしている。
「無理して飲まないようにね。あんまりたくさん飲んだことないでしょ?お酒」
 あんまり・・・たしかこの国で飲酒が許されてるのは二十歳からだよな・・・と、18歳なりに乏しい法知識を頭の中で思い返してみるが、毎夜のように高校の屋上で酒盛りをしていたオレが、その点を指摘するのはおこがましい。クラスの大半も未成年のはずだが、まあ、この大学はそういう大らかな文化なのだろう。なんだかわくわくしてきた。

つづく

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71・大学生

2018-08-13 01:24:32 | Weblog
 18歳。生まれてはじめて、家を出ることになった。これまで親に頼りきりだった身に少々の不安はあるが、生来の楽天家だ。心配を相殺して余りある楽しみに満ちている。心踊るひとり暮らしのはじまりというわけだ。
 引っ越し前に、再度、大学のある金沢におもむき、入学手続きをすませた。その足で、下宿先を決める。不動産屋をまわることもなく、学校が紹介してくれる「新入生受け入れのオススメ物件」のひとつに決めた。学校から徒歩5分ほどの場所にある、朝晩メシ付きの「学生寮」のようなところだ。人生最初のひとり暮らしなので、まるっきりひとりぼっちですべての生活を自分でまかなうよりは、まずは世話付きの下宿に住んで様子を見てみよう、というハラだ。なにより、親が安心してくれるのだった。家賃は、食費込みで4万5千円くらい。入り組んだ建物の中に50ほどの部屋が連なり、美大生の他にも、近くの金沢大学や医療短大の連中もごっちゃに住んでいる。値段のお手ごろ感も、にぎやかな感じも、なかなかいい。
 日を改めて、いよいよ引っ越し、となる。岐阜からの荷は、チャリ(カマキリ号)、勉強用のデスク、ミニコンポ、布団、それに衣類・・・そんな程度だ。食事が付いているので、調理器具や食器は必要なさそうだし、洗濯は近くのコインランドリーですませられる。冷蔵庫くらいは欲しいところだが、なにしろ四畳半一間なので、あまりごちゃごちゃと持ち込んでも手ぜまになるだけだ。「ものは持たないに越したことはない」というわが清貧の思想は、この部屋での生活から生まれることになる。
 さて、住んでみて驚いたのが、壁の薄さだ。ほとんどベニヤ板一枚という、いわば細長い空間が薄膜によって幾部屋にも分かたれているといったテイ。隣室の音が、全部まる聞こえに響いてくる。会話の一言一句の発音、オーディオの演奏の細かいディテールまでがはっきりと聞き取れるのだから、尋常ではない。これはつまり、こちらが部屋で行う一挙手一投足もまた、まるごと隣人の耳に筒抜けになるということだ。ひとり暮らしのあこがれと言えば、第一に「セックス」なわけだが、果たしてこの環境で、すぽんすぽんという物音も、「はあはあ」という荒い呼吸も、「あんあん」というあえぎ声も立てずに、行為が完遂できるものなのだろうか?経験はまだないが、いよいよどうしていいかわからなくなってくる。逆に言えば、お隣のセックスの音、声、息づかいが、まことに楽しみになってくるではないか・・・いやいや、耳をそば立てては聞くまい、聞くまい。それにしても、他人と隣り合わせて生活するというのはこういうことか、と、思わず息を殺さずにはいられなくなる。
 それはそれとして、すべての環境が新鮮だ。古くなじみ深い一切を捨て去り、知らない街ではじめる新品のひとり暮らし。この舞台転換によって、自分はまぎれもなく人生の第二幕に突入したのだ。街一面を覆っていたあの厚い雪が、解けはじめている。桜がつぼみをほころばせようとしている。いそいそとキャンパスに乗り込み、「大学生」になったわが身を不思議に感じつつ、その立場を満喫する。

つづく

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70・高校卒業

2018-08-13 00:45:43 | Weblog
 別れの日がきた。ついに高校卒業だ。クラスメイトの、およそ三分の一は岐阜近隣の名古屋圏の美術系大学に、別の三分の一は東京の有名美大、芸大に進学し、残る三分の一は「浪人」として次の一年間を過ごす。いやしくも美術系の大学を目指そうという類いの人間は、浪人することを恥とも感じないし、むしろ、一年間余分に勉強ができる、くらいに考える。この不遇をかこつ日々は、はっきりと、歴然と、劇的にうまくなれる期間でもある。うまくなるという目的に没頭するわけだから当たり前なのだが、逆に言えば、浪人時代に成長できないやつは、はっきりと才能がないので、その道をあきらめざるを得ない。あきらめざるを得ないが、こういう気質の連中なので、あきらめない。何浪でもする。それが美大受験生の覚悟というものなのだ。
 そもそも美大に入る人間は、入る前までにうまくなっていないとまずい。大学に入ってから学ぶのは、上手な画の描き方ではなく、創作、すなわちオリジナルな作風の創出と思想の洗練なので、入ってから技術的にうまくなろう、というのでは手遅れだ。なので美大の受験時代は、ひたすら下地を磨き込む作業に費やされる。そして、上手になった者だけが美大に入れる。浪人生は一年を(あるいは数年を)かけて、なんとしてでもそのスタートラインをクリアしなければならない。落とされるのは、下手だからだ。下手は、治る可能性がある。だから、がんばる。とにかく、つまらない大学に入って恥をかくくらいなら、何年でも浪人する!・・・というスタンスが、はち切れんばかりの野望を抱く美大受験生に共通な気質と言えよう。なので、一生のうちの少々の時間を棒に振ったところで、誰もへこたれないのだった。
 さて、野望を叶えるチャンスをもらった合格組は、岐阜の田舎から名古屋圏へ、さらには大阪、東京の都市圏へと散っていく。ひと旗揚げて芸術界を揺るがそうという気概なのだから、刺激を求めて都会へと向かうのは、光に向かう蛾と同じくらいの自然の法則だ。なのに、真逆の下流域・金沢に流れ落ちようなどというシブいチョイスをした者がここにいる。落ち着いて考えてみれば、なんてことをしてしまったのだろう。ほんの少しの後悔が首をもたげてくる。ひょっとして、ムサビにいった方がよかったんだろうか?・・・まあ、その通りではある。少しでも将来のことを考えたら、東京へ出るべきだったのだろう。うっかりとしたものだ。しかしこのぼんやりとした男には、相変わらず頓着というものがない。高校を出た今、あるのは、誰も知り合いのいない街で、孤高に生きていく決意だけだ。それまでの生活から完全に脱却して、新しく生まれ変われる。社会的な関係性を、完全リセット。なんと心ときめく環境ではないか。とにかく、合理性なんてない。そうしたい気分だったから、そうしたわけだ。
 ちんや苅谷は、超難関を突破してムサビのデザイン科に入り、小栗はタマビに(多摩美術大学=私立美大ではムサビと双璧)、ある者は日芸に、大阪芸大に、女子美に・・・そしてクラスの何人かは晴れて、美術系の最高ランク・東京芸大に進むことになった。一方でキシは、タマビを受験して落っこちたため、上京して美術研究所に通いつつ、ドテラを羽織る生活を送る予定になっている。だが、恥じ入る必要はない。浪人時代の様々な経験を作品世界にぶ厚く反映させれば、トータルとしてペイできる。それはそれで実質に整合している。すべてが正解なのだ、この世界においては。
 みんな各々の道に分かれ、それぞれの将来を耕していくことになる。いったん枝分かれはするが、何年もすると再び、峰の高い地点で顔を合わせるわけだ。そのときまで、しばしの別れだ。みんな、元気で。

つづく

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69・大仕事・小仕事

2018-08-07 07:55:56 | Weblog
 試験の様子は、ほとんど先に書いた内容とかぶるので、省略する。が、天下に聞こえたムサビに合格して、競争倍率たかが2~3倍の田舎美大に通らないわけがない。試験を終えると、再びしらさぎに乗って岐阜に帰り、数週間をのんきに過ごして来るべきものを待ち、あたりまえに合格通知を受け取った。こうして、たいして悩むこともなく、オレの進学先は決まったのだった。
 受験のあたふたは鎮まったが、卒業間際の3月に行われる美術科の一大イベント「卒業制作展」が迫っている。岐阜県立美術館の立派な企画展示室を使い、外部のみなさまにも三年間の集大成をご覧いただこう、というものだ。正真正銘、高校時代の芸術漬け生活における、最も重要なイベントだ。
 彫刻科の卒制(卒業制作展の作品制作を「そつせい」、展示そのものを「そつてん」と呼ぶ)は、デッサン一点、裸婦像一点、自由制作一点、の計三点を提出する。裸婦像は、粘土で等身の2/3につくったものを石膏取りした。つまり、土人形の上から石膏を塗りたくり、固めたのちに粘土をくり抜いて鋳型とし、そこに新たに石膏を流し込んで、経年劣化に耐えられる硬質な像をつくるわけだ。立体のコピー技術と言える。鋳型をかち割って、きれいな像が姿を現すときの気持ちよさ、そして感動ったらない。自由制作の方の石彫作品は、手をマメだらけにしながらも、数ヶ月間をかけてなんとかやり遂げ、形はついた。残るデッサンはお手のものだし、あとは屋上で酒でも飲んで、卒業の日を待つばかりとなった。
 と思っていたら、「卒展のポスターを描く」という大仕事が、オレ個人にきた。どういういきさつで選ばれたのかはわからないが、とにかくクラスの代表として「スギヤマに描かせる」と教師陣は決めたのだった。何枚刷るんだか知らないが、岐阜市中だか県中だかの公共スペースに貼りまくる、カラーB全のファーマルなものだという。なかなかの大仕事ではないか。よっしゃそれなら、と、クラス全員が卒業写真風に並んだ似顔絵の大作を描き上げた。
 さらに、例年、美術科生の代表が務める「校長室に飾る校長の肖像画」を描く大役も、オレにお鉢がまわってきた。モデル本人が、オレの自画像の出来映えに衝撃を受けたのだろうか。しょうがないので、放課後になると校長室に日参し、ツルッぱげのふかしジャガイモのような校長を目の前に座らせ、数日がかりで描き上げた。尊厳あふれる設えの校長室で、正装の校長とマンツーマン。そんな状況下で、威風を見せようと努めながらも必死に眠気と戦う校長の姿は、実に滑稽だ。肖像画は、うたた寝しそうなつやつやジャガイモ、といった風情に仕上がった。先生たちを「にてる〜!」と爆笑させる(なぜだ?)出来で、校長自身も「葬式のときの遺影にする」と請け合ってくれた。
 「卒業アルバムのクラスページもスギヤマがつくれ」ということになった。もはや、なんでも屋だ。苦心をめぐらせ、クラス全員の顔写真を切り抜いて、ボディをマンガで描き、それらをコラージュして、大群像画に構成した。それにしても、ちょっとおかしくはないか?オレは彫刻科なのだが・・・しかしこうしたシニカルな戯画的自由制作に、自分は非常な力量を発揮するのだ、と気づかされる。そしてこんな資質の発見は、のちの仕事の決定に重要な影響を及ぼすことになる。
 こうしてなんやかやと、この時期のおいしい仕事は全部頂戴した。どれも自分から望んだわけではなく、なんとなく上層部で「スギヤマなら面白おかしく処理してくれるだろう」という奇妙な評価が定まっているらしいのだった。画風の使い勝手もよろしく、知恵がまわって、誰にも納得のいく最終形を提出できる人物・・・それがスギヤマなのだ。クラス内の精鋭芸術家・デザイナーたちは、不満のひと言も口にしたかったかもしれないが、しかしまあ、天才とはこうした破格の扱いを受けるものなのだろう。仕方のないことではある。そして、オレのマンガ家になる下地は、こんな小仕事をぼんやりとこなす時期を経ながら、すでに固まりつつある。

つづく

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68・金沢へ

2018-08-07 06:06:01 | Weblog
 JR岐阜駅から特急しらさぎに乗り、真冬の金沢に参上。さすがに「雪国」の枕詞はダテじゃない。駅前に降り立つと、視界全体が雪にけむっている。その降り積もる雪の深さ、分厚さ、容赦のなさときたら。まぶしすぎて静かすぎる風景に圧され、たじたじとさせられる。「小京都」の枕詞もまたダテじゃない。よくよく眺めまわせば、小ぢんまりとひなびた風情があり、なかなか趣きよろしき街ではある。
 それにしても、さぶい。故郷・岐阜の羽島は、びょうびょうと吹きすさぶ空っ風のさぶさが身を突き抜けたが、金沢は、しんしんと染み入るさぶさがスネにこたえる。空間全体が縮こまるような引き締まった冷え込みの中、ぼうっと突っ立っていては、命に関わりそうだ。わが防寒装備も頼りない。とっととバスに乗り込み、「金沢美術工芸大学」へと向かう。それこそが、今回の大学受験の本命校なのだ。
 わが目的地を頂く小立野(こだつの)の丘は、かの有名な日本庭園・兼六園を開始地点とする細長い馬の背になっている。その稜線に、金沢大学医学部や、大学病院、癌研究所、それとは別系統の医療短大など、ごちゃごちゃとお医者系の施設が並び、バスはそれらを次々とパスしていく。金沢美大(通称・カナビ)は、そんな高尚な敷地に、隣接するというよりは尻っぱしに張りつく格好で、ちょこなんとたたずんでいる。まさに崖っぷちに追いやられたといった様相だ。
 バスから降り、雪の歩道を徒歩で3分。「金沢市立美術工芸大学」の看板を掲げた門が現れた。衛所もない、ガードマンもいない、スカスカに開け放たれたレンガ造りのゲートをあっけなく通過し、キャンパス内を下見に歩いてみる。通り道だけは雪かきがしてあり、両サイドにうずたかい雪山が積み上がっている。受験前日とあって、学生は歩いていない。考えてみれば、冬休みか。これなら自由に見学ができる。が、この雪だ。早いところ、屋内に逃れたい。さくさくと見てまわると、校舎を一周するのに15分とはかからなかった。あっけない。小さな小さな大学だ。本当にここに決めてしまっていいものか、今さらながら不安になってくる。しかしとりあえず、今は宿にしけこみ、翌日に迫る受験に備えよう。
 大学から徒歩1分のところに、この日の宿を取っていた。古ぼけた民家を改造した安旅館だ。居間のコタツのぬくもりがありがたい。しかし、その机上に供される晩飯はシブい。甘エビやカニを期待していたわけではないが、ノリ弁の方がまだマシと言いたくなる。一杯飲みたい気分だ。高校生が熱燗を注文したら、ぎょっとされるだろうか?しかしアテになりそうなおかずもなさそうなので、今夜は控えておく。
 外はまだまだ雪。いつまで降りつづけるものやら。外に出たいが、いくところもなければ、することもない。翌日の受験に備えて早めに寝よう・・・と、そのとき、廊下でふと顔を合わせたひとりの投宿者に話しかけられた。聞けば、同じ彫刻科を受験するのだという。いわば、限られた席を獲り合うライバルだ。相手を一瞥する。小柄で、肩幅がせまく、目鼻がつぶらすぎ、見るからにさえない風采の男だ。まあ、オレの相手にはなるまい。彼となんとなく情報交換をするうちに、ついにふたりでビールを飲みはじめることになった。
 男は「山下」と名乗った。三浪中の強者だ(二度落ちた間抜けだ、とも言えるが)。オレが「ムサビは受かった」と言うと、山下は「・・・ああ、ムサビか。オレは補欠で合格した」と返してくる。結論から言えば、この小男とオレは、入学してから同じゼミで過ごすことになる。そして蛇足だが、四年後の卒業間際に、「スギヤマ、すまん」と、彼の口から懺悔を聞くこととなる。「あのとき、ムサビに補欠で合格したと言ったのは、ウソやった」と。・・・細かいウソつくんじゃないよ、どうでもいいよ。
 とにかく、翌日が試験本番である。雪は音もなく降り積もっていく。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

67・大学受験

2018-08-06 19:49:44 | Weblog
 新幹線に乗って、東京にきた。はじめてというわけではない。中学校の修学旅行で訪れたことはある。そのときは、学ラン姿の田舎っぺ大集団で、日光の東照宮や、華厳の滝や、東京タワーや、後楽園遊園地(ディズニーランドはまだなかった)など関東一円を、「ほへー」「はあ~」などと感嘆のため息をつきつつめぐるツアーだった。しかし今回は、大学受験のための東京行だ。気後れなど許されない。
 目的のムサビ(武蔵野美術大学)は、わがクラスからも数名が受験する。彫刻科を受けるのはオレひとりで、あとの連中は、デザイン科、日本画科、油絵科などに散らばっている。彫刻科の受験倍率はいちばん低く、9倍ちょっとだ。デザイン科などは、20倍~30倍などというとてつもない難関を突破しなければならない。みんな、目を血走らせている。なのに、オレは半分観光なので、気楽なものだ。天下に聞こえたムサビをスベリ止めに使うとは豪気なものだが、受かっても通うつもりはないし、だいいち高額な入学金・授業料が支払えないのだからしょうがない。「受験経験」という心持ちでのぞむ。
 中央線沿いの荻窪という街に宿を取り、そこを拠点に、小平市のキャンパスまで移動する。一日めに三教科の学科試験をやっつけた。あらかじめ、例の大学別の受験対策本「アカホン」なるものを買い込んでいたが、美大の受験といえばなんといってもデッサンがメインなので、学科の勉強はほとんどしていない。そもそもオレは、自分のおつむの天才性を信じきっているので、そこそこの点数を必ず獲る「根拠のない確証」があるのだ。だから、受験勉強などする必要はない。
 いよいよ問題のデッサン試験がある、二日めの朝がきた。宿では、ひどくチープなステーキととんかつの朝食が出た。「敵に勝つ」というわけだろう。ひどいダジャレだが、気持ちだけは受け取り、腹に詰め込む。会場に着くと、イーゼルと、四角い手鏡が受験者全員に用意されていた。事前情報どおりに、「自画像を描け」というわけだ。カルトンという、タタミ半畳分もありそうな「絵を収納できる画板」は、美大受験にのぞむ全員が各自所有のものを持ち込んでいる。そいつをイーゼルに掛け、配られた画紙(50センチ×65センチもある)をセットする。高校では、石膏像は木炭で描いていたが、ここの試験は鉛筆デッサンだ。このときのために奮発した、ステッドラーという高価なドイツ鉛筆を、4HからHB~4Bまでツンツンとんがりに削り上げ、開始に備える。
 「はじめっ!」
 試験官の合図で、いっせいに取りかかる。それ以降、聞こえるのはカリカリと鉛筆を画紙に走らせる音だけだ。いやが上にも、緊張感が増幅する。小さな鏡をのぞき込み、そこにある顔を巨大な画面にレイアウトしていく。構図取りは、最終的な出来映えを左右する重要な作業だ。自分の顔を描く、ということだけが条件であり、バストアップでもいいし、どアップでもロングでもいい。横顔でも真正面でも、アゴからのあおりでも、左45度の斜に構えてもかまわない。ただし、自分の技術と表現力を最も効果的に発揮できるようにしたい。オレは、どアップ&真正面という真っ向勝負で挑むことにした。なんたって、顔にも画力にも揺るぎない自信があるのだ。
 画紙の上端すれすれに脳天を、下端すれすれにアゴの先を入れた。極限の大きさだ。手を目一杯に動かさないと、顔全面に鉛筆が届かない。しかし、こうでこそ、画力は十全に伝えうる。真正面向きの肖像画というのは、難しいものなのだ。動感がなくて画面構成が単調になるし、奥行きも出にくい。あの美しい富士山も、真上からの俯瞰だと見栄えがしないのはわかるだろう。立体物には、最もそれらしく見えるポジションというものがあるのだ。しかし、オレは真正面というシンメトリックな構図が大好きなのだ。かっこいいポーズなど、関係ない。彫刻科のデッサンは、立体感と量感が命。鉛筆の芯が飛び、紙がボロボロにささくれるほどに描き込む。強く、濃く、深い線、その密集・・・完成した自画像は、遠目にはほとんど真っ黒だ。が、その黒の密度と、線の誘導とで、平面が奥行きをもって立ち上がってくる。正確な位置取りとか、気取ったアングルとか、小ざかしいやつらの作品を圧倒して、その存在感は際立つんである。
 さくっと合格した。


つづく

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