deep forest

しはんの自伝的な私小説世界です。
生まれてからこれまでの営みをオモシロおかしく備忘しとこう、という試み。

66・自己修練

2012-12-30 12:36:10 | Weblog
 厳冬期の彫刻室は、しんしんと骨の髄にまでしみ通る寒さだ。コンクリートが打ちっぱなしの地上階。頼りないサッシ窓からは、すきま風が吹き込んでくる。モデル台の置かれた一角はともかく、大がかりな作品を制作するための作業場はガレージと大差のない造りで、断熱・防寒などという「居心地」に対する配慮が一切ない。大きなものを運び込むことだけを念頭に置いて設置された巨大なシャッターが、外気温をそのまま素通しにする。暖房がまったく効かないので、むしろ、暖房などしない。そこで毎日、石を彫りつづける。つららをへし折ったような冷たい手触りの鉄ノミを握りしめ、重いげんのうをノミ尻に打ち込む。刃先が石をミートし損なうと、ノミを持つ左手の指先がガサガサの石面に叩きつけられる。すごい勢いで、だ。じ~~~~~ん・・・
「うっ・・・ぐっ・・・」
 声も出ない。頭の天頂部にまで達する鈍痛。そのたびに悶絶する。不思議なものだ。こうした痛みは、なぜ暑い日よりも、寒い日の方が強く感じられるのだろう?とにかく、シベリアでの強制労働のような環境を、オレは耐え忍んでいるのだった。
 作品の形は、徐々に体をなしつつある。ただの石くれだった塊が、具体的な説明を与えられて、フォルムに命が宿っていく。でっぱりは尖塔となり、くぼみはくっきりとした穴となり、稜線は鋭いエッヂとなり、筋目はシャープなクレバスとなる。一打一打が、デコボコをメリハリに変えていく。張り詰めさせたい部位は、砥石で徹底的に磨き上げて、ツルツルにする。素材感を強調したいところは、ノミ目やハツリ跡をそのままに残し、粗いテクスチャーとする。だんだん石の扱いがわかってきて、だんだん最終形がイメージできてきて、寒さに震えながらも、それが気にならないくらいに面白くなってくる。
 さて、この頃は、なぜかチャリ通学をしている。以前のように、家の最寄り駅から市街地まで電車で行き、そこからのバス区間をチャリ移動、というものではなく、ド田舎のわが家から学校までの長距離を、一気通貫のチャリ走で通いはじめたのだ。電車とバスを乗り継いで45分ほどもかかる距離だが、汗を流してたどり着けないほどのものでもない。
 田んぼのあぜ道や国道をひた走りひた走り、ひたすらにひた走り、学校まではまる1時間かかる。が、ただの1時間ではない。わが故郷には「伊吹下ろし」という、驚くべきカラっ風が吹くのだ。冬になると吹きすさぶこの強風は、毎日、家々を揺らすがごとくに、遠く伊吹山からなだれ下りてくる。こいつに向かって進むと「鼻水が耳に入る」と言われるほどの、重くふとぶとしい北風だ。それは早朝の登校時には背中を押してくれて、順風に漕ぎ出す帆船のようにらくちんだ。「こりゃいいや」とよろこぶのも束の間、逆風となる下校時は悲惨だ。ペダルを漕げども漕げども、前に進んでくれない。少しでも踏み込みの力をゆるめると、風に押し戻されてしまう。延々と急坂をのぼりつづけるようなものだ。耳はちぎれそうに痛み、マフラーやコートは引っぱがされそうだ。しかもハンドリングをひとつ間違えれば、車がびゅんびゅんと行き交う国道に投げ出され、一巻の終わりとなる。それはそれは危険でしんどい通学だ。が、それをつづけるのは、電車賃をケチっているわけでも、時間短縮などの合理的な理由でもない。それはただただ、「艱難オレを玉にす」という、せいしゅん時代特有の、わけのわからない自己修練の思いなのだった。オレもまた、せいしゅん時代の誰もがそうであるように、「オノレに課す」という行為が大好きなのだ。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

65・夜空の向こう

2012-12-27 10:36:18 | Weblog
 学校からいったん田舎町の家に帰り、とろとろとひと眠りしてから、夜中に起床。翌日の授業の準備をして、深夜の11時過ぎに再び家を出る。暗闇の中にぼんやりと明かりが灯るプラットホームから上りの終電に乗り、岐阜市内へ取って返す。到着した駅ビル前は、すでに人影もまばらだ。酔い客待ちのタクシーの運ちゃんに訝しがられながら、ダイエーの駐輪場に置きっぱにしてある、相棒チャリ「カマキリ号」で学校に向かう。手提げの中には、居間のサイドボードからくすねてきたサントリーオールドのボトルと、コーラ。そしてイカ姿フライや、コメッコ、ベビースターラーメンなどのアテ。今夜も宴だ。ペダルを漕ぐ足に、わくわくと力がこもる。
 警官に呼び止められたら、ただではすまない。深夜徘徊どころではない。チャリ→拾得物横領&学校の登録ナンバー偽造。ウイスキーのボトル所持→未成年飲酒防止条例違反。そもそもこの時間に出歩くこと自体が、青少年育成条例違反。そしてこれから学校に忍び込めば、建造物侵入罪だ。しかし昭和時代の岐阜市内は、駅前から100メートルも離れると森閑とした暗闇に包まれ、パトロールの目も行き届かない。悠々と夜間通学ができる。ただ、途中に「金津園」というとてつもないソープランド街がきらびやかに横たわっているので、この界隈だけは注意怠りなく切り抜けなければならない。
 静まり返った学校。正面門は、もちろん閉ざされている。チャリを担ぎ上げ、鉄柵越しに校内に放り込む。そして自分もジャンプ。柵の高さは1メートル20センチくらいなので、やすやすと飛び越えることができる。街灯の薄明かりを頼りに、校舎へと向かう。「屋上飲酒部(学校側無認可)」のメンバーは、まず施錠の甘い彫刻室に集まることになっている。そこで落ち合い、みんなで協力して校舎をよじ登って、二階の窓から侵入を開始する。同級生の肩に足を掛けて壁をよじ登るのもスリルだが、女子の細すぎる手首をつかんで引き上げるのは、別の意味でドキドキする。
 校舎内では、明かりをつけることはできない。失敗は二度と繰り返すまい。手探りで階段をのぼり、休み時間にダベっているおなじみの踊り場から屋上に出る。するといつも、視野いっぱいに満天の星空がひらいた。そこは天国にいちばん近い場所だ。昭和の夜空を知っているだろうか?それは、目くらむような暗黒の空間だ。そこに大きな大きな星ぼしが無数に散りばめられている。輝ける闇といえる。あっちの地平線からこっちの地平線まで対角に、天の川が渡っている。仰向けに寝そべりさえすれば、視界の端を流れ星がかすめる。それらはあまりにおびただしく、右に、左に、額の上に、アゴの下に、あるいは鼻先に落ちてくる。ほとんどは一瞬時にはかなく燃え尽きてしまうが、しばしばそれは長々と尾を引き、夜空を袈裟懸けに切り裂いて、漆黒の宙にいつまでも残像をとどめる。
 ウイスキーを、プラスチックカップの中でコーラ割りにして、男子たちは酌み交わす。また、勇猛な女子たち(美術科の先輩は、彼女たちを「デインジャラスフラワー」と名付けた)は、一升瓶から欠け茶碗でやっている。淡い予感など皆無。チューも、チチモミもなく、また色っぽい囁きもない。ただ輪になって、酒を飲みつづけ、バカ話をしつづける。そして、ケラケラ、くくく、と声低く笑い合う。酔いがまわると、寝そべり、夜空を見つづける。やがて朝になると、真っ赤な顔でふらふらになりながら、腫れぼったい目で朝日をまぶしくながめる。意味のない、しかし大切な、夜通しの集会だ。そんなことを、しょっちゅうやっている。
 受験は迫っている。進路も決めなければならない。が、それよりもこの、自由で、愉快で、胸苦しいくらいに切ない時間をもうすぐ奪われてしまう、という事実に、焦る。仲間たちと笑い合いながら、心の底で泣きたくなる。

つづく

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64・熱から醒めて

2012-12-24 11:54:28 | Weblog
 3ー美制作のアバンギャルド映画「コンプレックス/虚像の周辺」は、文化祭の閉幕式において、加納高校の生徒たちが投票する最優秀賞と、教師陣が選出する最優秀賞とを独占受賞した。壇上で、映画制作の最高責任者であるキシは、ハレバレと両方の賞を受け取った。後ろ頭をカキカキするその顔は、達成感に満ちている。クラス全体が栄誉に浴し、主役であるオレの顔は知れ渡ったが、この賞は疑いもなく、キシ監督が個人的技量において獲得したものだ。やつがそいつを受け取ることに、異議など出ようがない。なんとも晴れがましいことだ。この場が、やつの人生でピークとなるにちがいない。
 一躍その名を轟かせた受賞作品は、岐阜市の市民文化祭でも紹介される運びとなった。後日、市の立派な公民館でも上映され、われわれ関係者も参加させられた。このとき、女子とチャリの二ケツで会場に向かったのだが、街角で運悪く、恐ろしい生活指導教官にそれを見とがめられ、「後で俺のところにこいや!」と凄まれた。なのに上映が終わって彼の元にいくと、「おまえ、すごいな。カンドーしたぞ!」とすんなりと許してもらった。まったく、芸術の力とはすごいものだ。サンキュー、キシ、と言っておきたい。しかしそんな上映のたびに、いたたまれない気分に落ち込まされる。あんな映画など、二度と観たくはないのだが・・・「虚像の周辺」は、まさしくオレにとって「コンプレックス」となった。
 センセーショナルな空気は、半月ほどで潮が引くようにおさまった。ちやほやされている場合ではない。大学受験が間近に迫っている。
 オレはいつしか「自画像だけは奇妙にうまい男」になっていた。石膏デッサンはどヘタ極まるのに(描いていてつまらないのだ)、鏡に向かうと俄然、鉛筆が、木炭が、走って走ってしょうがない。自分が大好き!とそろそろ自覚してきており、制作後の自画像にうっとりと見とれることもしばしばだ。このナルシシズムの覚醒は、図らずも受験に大いに役立つこととなる。
 ちょうどムサビ=武蔵野美術大学の彫刻科の試験課題が、鉛筆による自画デッサンだった。しかし、この人気の大学の受験倍率は9倍もあり、とても勝ち残れるとは思えない。それに、年間の学費が日本一高額という話だ。オレの下には二こおきに、弟も妹も待機している。ここはひとつ、私立(ムサビを含む)は捨てて、公立の美大を目指すか、ということに進路の方針は落ち着いた。
 能登半島の根っこに金沢美術工芸大学という田舎美大があり、ここを見学したときに、彫刻科のすばらしい設備にドギモを抜かれた。岐阜の隣県の愛知にも芸大があるが、親元を離れてみたかったし、ほどよく隔離される距離感の金沢は魅力的だ。受験倍率も二倍そこそこで、楽にくぐれそうだ。たいした検討もせず、「ここでいいか」となんとなく決めた。とにかくオレは未来の行く先を決めるとき、なんとなく、という態度が基本なのだった。

つづく

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63・「コンプレックス/虚像の周辺」

2012-12-21 09:22:13 | Weblog
 古風な映写機に、音響はカセットデッキ。映像と音楽だけで構成された作品のため、両者のスタートのタイミングを合わせないと寒い事態になる。このあたりは、反復練習で呼吸を合わせたクラスメイトたちがいい仕事をし、ピタリとスムーズにいった。大きなスクリーンの中で、ついに数ヶ月間の右往左往の成果が動きはじめた。
 異様な緊張感だ。観客たちは、息をつめて見守っている。主人公(オレ)が鉄階段をのぼる姿を真下から写した画づらに、オープニングタイトルがかぶさる。画面構成も、字づらも、その立ち上がり方もかっこいい。ちょっとしたどよめきが起きる。細部までつくり込まれているのだ。キシや編集スタッフの徹夜作業のおかげだ。キシは、してやったり、のにやけ笑いを暗闇の中で浮かべているにちがいない。
 しかしオレはというと、ちんこが縮み上がり、尻がむずがゆくて、観ていられるものではない。なによりも、ギョッとさせられる。こんなにもぎこちなく表情をつくっていたのか、こんなにも不細工に立ち動いていたのか、こんなにも不自然な芝居をしていたのか、こんなにも、こんなにも、こんなにも・・・と。そのたびに総毛立ち、叫び声を上げて走りだしたくなる。冷や汗がだらだらと背中を伝いまくり、まったく違った意味で、手に汗を握りしめる。ああ、逃げ出したい!発狂しそうなそんな自分を抑え抑え、凍りついたまま、30分が過ぎゆくのをひたすら待ち焦がれる。
 ところが、上映会場は奇妙に落ち着いていている。それどころか、みんな食い入るように映像に没入している。ところどころで感嘆のため息が漏れる。あるいは息を呑む気配が、あるいは笑いのさざめきが。そのことごとくが監督の狙い通りなので、へえ、と思わせられる。
 エンドロールが下から上に流れだすと、ここに至ってもどよめきが起きる。クラスメイト全員の表情のコマ撮りとキャプションが、うまく構成されている。「END」の字が出て、フィルムが止まり、場内が明るくなるまで、この観客たちの敬意に満ちた空気は持続された。そして、突如として万雷の拍手。キシはスクリーンの前で、後ろ頭をカキカキ、謝意を述べている。のんきなやつだ、こっちの気も知らないで。オレはそそくさと教室に戻り、ワキ汗じとじとのシャツを着替える。マジでびちゃびちゃだった。
 ああ、叫びたい。いや、とっとと家に帰って、布団にくるまってうめきたい。深い深い自己嫌悪にさいなまれる。が、そんなオレの思いと反比例して、いつしか「虚像の周辺」は学内で話題の中心となっていった。伝説が築かれようとしている。ウワサがウワサを呼び、ヤジ馬がヤジ馬を呼び、上映時にはいつも長い行列ができ、定員を超える観客を入れるはめになった。その模様が新たにセンセーショナルな驚きを呼び、毎回、会場は大入り満員。壁ぎわを立ち見客がぎっしりと取り巻き、立錐の余地もない。
 一夜にしてスターダムにのし上がった主役氏が廊下を歩くと、涙目の女子が「感動しました」と駆け寄ってきたり、見も知らぬ後輩男子に「すごかったです」とマムシドリンクを渡されたりした。まるで「トシちゃん」のような扱いだ。なんだか悪い気もしないので、どヘコみはすぐにおさまった。が、上映を観ると、再び自分の内部に根深い嫌悪が湧き上がってくることは避けられない。もう二度と観ないようにしなければならない。上映会場を、注意深く迂回するようになった。

つづく

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62・文化祭

2012-12-20 09:16:57 | Weblog
 秋。校内で文化祭が華々しく開幕した。この二日間は、グラウンド、中庭のステージ、体育館、音楽堂、各講義室、そしてそれぞれの教室が極彩色に飾り立てられ、お祭り騒ぎとなる。自由な校風を反映して、かなりなんでもアリの雰囲気だ。なにしろわが校は、特殊な人種(県下一の頭脳を誇る秀才集団と、音楽、美術の精鋭集団)の巣窟なのだ。自分たちの特技を活かし、考え煮詰めた催しものが目白押しとなる。
 中でも人気があるのは、音楽科の女子たちのロックバンドだ。見目うるわしいお嬢様たちが、セーラー服を過激に仕立てて(制服着用は義務づけられている)踊りまくり、オペラ声でシャウトし、そして驚愕のテクニックで楽器を演奏する姿は、いろんな意味ですごい。そうしたセンセーショナルな話題は、たちまちウワサにのぼり、次回講演の客足を伸ばすことになる。オレたちもこういきたいものだ。
 一方で、本気で東大を目指す普通科の連中は、「学術探究の成果」を発表する学会派(そんな催しものの前は、誰も彼もが素通りするが)もあれば、教室内に観客席を組んでバカバカしいバラエティ仕立てのクイズショーをやったり、エロチックな色ビニールを壁にめぐらせて「キャバクラ風喫茶」をやったりと、クラス(のたぶん担任の指導)の特色を出している。どの企画にも趣向が凝らしてあって、目移りがする。
 さて、映画上映会場は、美術棟の講義室の暗幕を閉めきって、専用にしつらえられる。段々式の中規模なハコで、100人からが入れそうだ。黒板の位置には巨大な白いスクリーンが張られ、映像が大写しにできる。ぱっと見、小さな映画館と遜色ない。
 普通科からも何点かの作品が出されているので、時間を決めて順ぐりに上映される(二日間で数回の上映機会が与えられる)。試しに他作品を観てみると、甘酸っぱい青春ものあり、笑わせに走るヒーローものあり、また、教師陣総出演の飛び道具ありと、どれもなかなか手が込んでいる。ライバルたちは手強い、の感触だ。
 しんがりに、わが3ー美制作の「コンプレックス/虚像の周辺」が組み込まれた。真打ち登場というわけだ。格が違うところを見せつけなければならない。デザイン科陣が最新のトレンドを活かして練りに練りあげた宣伝チラシも刷り、校内で配りたおした。不思議感いっぱいのポスターも貼り出した。そのおかげか、フタを開けてみれば、なかなかの入りだ。ホッとする。スカスカでは、張り合いがないというものだ。しかし束の間の安堵と同時に、不安が襲いかかってくる。苦労してつくりあげた作品に対して、ちゃんと反応してくれるのだろうか?酷評など受けたら、もう校内で顔をさらして歩くことなどできない。神様に祈りたい気分だ。ここに集まったお客さんたちが優しい人々でありますように・・・
「えーと・・・」
 上映前に、監督のキシが舞台挨拶をする。異常なほどのはにかみ屋のキシは、人前ではいつも後ろ頭をカキカキしゃべる。この映画はコンセプチュアルで難解な実験的作品である、と説明している。
(アホか。自分でハードル上げることないやろ・・・)
 オーディエンスに格段の覚悟を強いてしまっている。いや、あるいはこれは、保険としてのエクスキューズなのかもしれない。つまんなくても知りませんよ、観ちゃったあなたたちの責任ですよ・・・という。
 さまざまな思いの中、いよいよ暗転。開幕のブザーが鳴る。
 ブー・・・

つづく

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61・クランクアップ

2012-12-15 22:36:54 | Weblog
 季節は進み、盛夏に突入した。一斉試験のシーンの撮影だ。主人公(オレ)は相変わらず、答案用紙で飛行機を折っては、教室の窓から外に飛ばしている。
 それにしても、あつい。教室も暑いが、機材も熱い。高出力のライトは肌を焦がしそうなほどで、そのものすごい光量とレフ板の照り返しで、目がチカチカする。そして、極度の緊張。手元アップの場面では、指がぷるぷるするだけでなく、手汗で答案用紙はビチョビチョになる。自律神経の仕業なのか、自力では震えを止められないのが実に不思議だ。ここ何ヶ月もずっと撮影されているのに、オレはいつまでたっても慣れることなく、カメラを向けられて周囲から注目されるとガチガチになってしまうのだった。
 一方でキシは、ヒマを見つけては、ガラス張りの高層ビルや未来世紀的な風景をさがし歩き、雲が空を綿毛のように流れたり、「時間軸がどうにかなっちゃった感じ」の早回し映像を、聞きっかじりの特撮技術(原始的だが)を駆使して撮っている。その技術の獲得速度は飛躍的で、文字通りの日進月歩。昨日の進歩が、今日の撮影に反映される、という具合いだ。コレクションされた映像素材は多種多彩。それを見てほくそ笑むキシの姿は、映研のオタクそのものだ。少々気持ちが悪くなってくる。
 どういうツテをたどって見つけるのか、ロケ現場のバリエーションも充実している。物語の中で、主人公はナニモノかから逃げまわっている。そこで、さまざまな背景を用意する必要がある。教室を飛び出し、階段をひたすらダッシュで駆け下って以来、彼はどことも知れない街角を彷徨しつづけるのだ。それは心象風景なのだが、キシ監督は、思うに、つげ義春の「ねじ式」をテリー・ギリアムが予算5000円で映像化した、という感じの画づらを求めている。その不思議感を出すためには、タイプの違う現場の特徴を丹念に利用し、最も劇的なアングルを、最も効果的な映像技術を用いて処理するなど、ない知恵をしぼるしかない。この貧乏プロジェクトでは、苦心と歩数だけが頼りなのだ。すなわち、意欲だ。その熱量という点で、キシは悪魔的に優れていると言わざるを得ない。
 さて、夏の風も初秋の香りを帯びはじめ、最後の休日ロケとなった。主人公はどこか安息な場所(ロケハンで見つけた県立美術館の前庭の芝生)にたどり着き、ごろりと横になっている。一方、教室では全員撮影が行われている。またまた試験中のシーンなのだ。みんないっせいに答案用紙に向かい、小むつかしく眉根をしかめている。が、ひとりが「例の男」を想起し、紙飛行機を折りはじめる。するとそれがクラス内にひろがり、やがては全員が紙飛行機を折るようになる。試験官の制止を振りきり、クラスメイトたちはそれを窓から飛ばす。校舎から放たれたたくさんの紙飛行機は、眼下の街に向かって滑空する。澄みきった空を飛んで、飛んで、飛行機形にたたまれた白い答案用紙は、トンボの目が青空を写し込むようにブルーに染まり、やがて芝生に寝そべる主人公の元にたどり着く。そしていっせいにそのからだを埋め尽くす。どれだけ折ったのか、というほどのおびただしい紙飛行機に男はうずめられ、ちょっとユカイなシーンだ。ややわかりやすすぎな抽象的象徴表現だが、そこは幼い実験と思って許してほしい。
 最後は、白シャツの主人公がブルーの絵の具を溶いた水を頭からかぶったり、なんだか画面全体を「狂っちゃった感じ」にロコモーション。無機質だった周辺のヒトビトは、体温と表情を与えられ、人間味ある肉づけに。そんな映像の断片を有機的にコラージュしまくると、モノクロチックだった画面は彩色されたような鮮やかさを取り戻す。たいしてまとまりのないそんな混沌に、世にもかっこいい手づくりのエンディングロールをかぶせて落ち着かせ、オ・シ・マ・イ、となるんである。
 クランクアップ、かちん、こ!

つづく

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60・撮影

2012-12-14 22:08:42 | Weblog
 校内での撮影がはじまった。
「時間のとれるひとはできるだけ集まってー」
 監督・キシから号令がかかり、使用許可をもらった会議室にモブ集結。全員で大激論するシーンや、支配者階級に威圧されるシーン、天然キャラが売りの女子が怒りに打ち震えて片手で鉛筆をへし折ったり、わめき散らす男が両脇を拘束されて排除されるシーンなんかが撮られる。そんな中、主人公(オレ)は、テストの答案用紙でひたすら紙飛行機を折って、カメラに向かって飛ばしつづける。シュール(!)な世界の断片を集める作業だ。それを編集班が、美術科的センスでもってコラージュしていくわけだ。
 映像はおしなべて無機質かつ抑制的。この乾きっぷりは、「音楽だけで」という試みになじませるためと、最後の炸裂のためにメリハリを利かせようという制作意図、そしてなによりも、芝居経験ゼロな演者たちのヘボ演技の必然の産物といえる。
 はじめのうちは距離を置き気味だったクラスメイトたちも、この頃では結構たのしんでやっている。キシは、集まってくれた誰もがなるべく画面上にフェアに映り込むように心を砕いている。しかも、美しい女子は見栄えがするようにより美しく、太っちょやチビな人物はその際立ったキャラが生きるように、また逆に、極端な性格の者はそのキャラ前提を裏切るように撮影したりして、放埒に遊んだりもする。その場で「こうすれば?」という意見が出れば、柔軟に取り入れ、組み込むこともやぶさかではない。フリーな構成が許される映画作法を用いているので、口うるさいゲージツ家同士が集まっても、問題なく対処できるのだった。
 撮影は快調で、参加する誰もがノリノリになってきた。わが「深夜教室酒盛り部(違法団体)」の女子連中などは、「白痴みたいにふるまってくれ」と監督に要求されると、あべさだのような真っ赤な古着物を持参し、誰もいない早朝の駅前一等地の路上を裸足でしなしなと舞いはじめる。朝焼けがたなびく硬質なビル群と、オリエンタルな雰囲気のゲイシャたち、という対比。秀逸だ。演技というよりも、あからさまに「飲酒による酩酊状態の未成年」と確定できそうな画づらだが、そのあたりのかわいい非合法っぷりが、権威に対しての反抗であり、すなわち、プチ前衛でもある。そう、これはれっきとした芸術運動なのだ。
 裏方スタッフによる撮影フォローもぶ厚くなってきた。音響や、タイムキーパー、記録係、そして室内撮影では照明係も活躍する。「レフ板」などという小道具も手づくりだ。光線が一方向からだと画面上でのコントラストがきつくなるので、各方向からアルミ箔を張った板で照らして、映像をやわらかいトーンに仕上げるのだ。このあたりの作業でも、各々の専門的な資質が役立つ。クラスの力が、無駄なく、いいものをつくろうという一方向に動きはじめている。

つづく

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59・クランクイン

2012-12-14 00:09:31 | Weblog
 キシが監督と脚本と撮影全般を仕切り、主演はオレ、なんてことになった。言い出しっぺが責任を取れ、といったところか。とにかく、「自主制作映画」のプロジェクトは動きだしたのだった。
 勉強もデッサンもできない、存在感を存分に発揮できるのは昼休みのバスケだけ、というキシだが、映画のこととなると、恐ろしくマメに立ち働いている。サラサラ髪を風にそよがせ、小柄なからだで精力的に動きまわり、まるで水を得た魚だ。休日になるといそいそとロケハン(ロケーション現場をさがす旅)に出かけていき、いい場所が見つかると、地図上に書きとめていく。空き時間には、撮影技術をいちから学ぶのだ、と言って、エイゼンシュタインのモンタージュ理論やら、二重露出やシャッタースピードを用いる最新の特撮技術やらの本を、片っ端から読んで勉強している。脳みそを煮え立たせ、目の下のクマが目立つようになり、徐々に年老いていき、日に日に、目に見えないなにかをむさぼる亡者のように変貌していく。それでも飽くことなく、小むつかしい映画論とにらめっこをする姿は、まるで受験生だ(それくらい受験勉強をしたらいいのに)。
 しかし、その学習効果はたちまち現れた。
「試し撮りをやるぞ」
 同級生の苅谷を撮影して、スクリーンの中で煙のように消してみせる技にはドギモを抜かれた。また、8mmカメラを上空に向けて、何秒かおきにシャッターを切り、気の遠くなるような時間を費やして、かっこいい「雲がすっ飛んでく」映像をものにしたりしている。そのデモを観せられたクラスメイトたちは、当初のしらけた雰囲気とは打って変わり、胸を高鳴らせはじめた。なんとなくキシのテンションに引っぱられ、クラス全体のモチベーションが上がっている。情熱とは、伝染性の熱病なのだと知った。
 アホのキシだが、ついに脚本にも手をつけはじめた。あまり多くの漢字を知らず、文章を書くことに苦痛に感じる監督が現場に持ち込むホンは、「絵コンテ」だ。つまり、シーンをコマ割りにして、マンガのような画づらを時系列順に並べたものだ。手法的にはクロサワエピゴーネンと言えるが、これなら文章を読む必要もないので、同じくアホの演者にも、監督の意図が直感的に理解できる。そのホンの内容が、また奇妙なものだ。ストーリー展開の説明となる文字がないどころか、登場人物のセリフまでもが皆無なのだ。スジもあるんだかないんだかよくわからない、茫洋としたものだ。のちに完成形を見ると「ああ、ダダイズムか」と理解できる・・・いや、理解できない感じのものをやりたかったのだとだけは理解できる。要するに、コンセプチュアルでアバンギャルドという、われわれの生きるこの現代(平成)に使うと気恥ずかしくなるような雰囲気のやつなのだった。しかしこの高校生たちが動きまわっている昭和の最後期は、洋楽のプロモーションビデオが真っ盛りで、プログレッシブ・ロックの連中はみんなこのスタイルを採用しているし、要するに、流行っているのだ。キシはそれをやりたいわけだ。そいつにチャレンジしようという気概はたいしたものだが、スベったときが怖いなあ・・・と、誰もが懸念を抱きはじめる。
 しかし、そんなこんなのさまざまな憂慮にかかわらず、映画撮影はスタートした。そのタイトルを、「コンプレックス/虚像の周辺」という。うわははー・・・

つづく

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58・プロジェクト・Aが

2012-12-11 21:30:56 | Weblog
 秋口に開催される文化祭に向けて、さて今年はどんな企画を?という話し合いが、クラス会でもたれた。まだ春先だ。いくらなんでもそりゃ早すぎるだろ、と思われるかもしれない。しかしこれに先立ち、オレたち「屋上飲酒部(学校側無認可)」内において、すでにひそかにひとつの計画が進められていたのだ。
 この美術科クラスも、はや3年め。今度の文化祭は、高校生活最後となる。思い起こせば、1、2年時。「世界の七不思議」だの「お化け屋敷」だの、アーティスト集団とはとても思えない、文化の香り絶無の催しものに手を出しては、空回りしてしまった。その後、学校に泊まり込んで有志と酒を酌み交わすたびに、その無惨な有り様は話題にのぼり、「誰がそんなくだらないことをやろうなんて言い出したんだ!」と忸怩たる思いにさいなまれる。そして、最後の年くらい、美術科のとてつもない美意識の水準を学内に示すのだ、という決意が、酒に侵された頭にみなぎり渡るのだった。
「俺、こんなもんを持っとるんやけど、どうやろ?」
 キシがある夜、屋上で切り出した。やつがカバンから取り出したのは、8mmカメラだ。デジタルハンディビデオなど、ドラえもんの世界にしか登場しない、昭和時代のことだ。目の前で起きる現象を動画として記録するには、光をフィルムに連続して焼きつけ、それを映写機で回して再生する、という原始的なメカニズムのものを使用するしかない。そしてそれは、とてつもなく高価な品だ。そんなシロモノを、どういうわけかキシは手にしていた。
「どこで手に入れたんや?」
「どうでもえーやろ」
「で、それでなにをするんや?」
「アホか。なにするもくそもないやろ。映画を撮るんや」
 映画を!自分たちで?
 なんと心おどる話であることか。深夜の校舎の屋上で毛布にくるまりながら、血中のアルコールと、キシの語る映画撮影計画の興奮とで、頭の中がぐるぐる回る。このすばらしいアイデアは、必ず実現させなければならない。
 ・・・が、冒頭のクラス会である。
「文化祭の出し物はなにがいいですかー?」
「はいっ!提案があります!」
 いそいそと手を挙げる。キシとオレとを中心としたプロジェクトチームは、深夜の酒盛りで練り上げた映画撮影の企画を、教壇上でプレゼンした。ところが、奇妙にクラスメイトたちはノってこない。クラスの主流派閥である女子たちの腰が重い。「映画なんて恥ずかしい」というのが主たる理由だ。「文化祭とは、研究発表の場なんだぞうっ」なんて堅苦(うっとお)しい男子も出現するし、おまえらマジでゲージツ家めざしとんのか?とどつき倒したくなる。議論は紛糾する。が、もう二度とごめんなのだ、徒労感を残すだけの独善的空回りは。燃焼しつくしたいんだよ。な、キシ。
「みんな、聞いてくれ」
 そこでキシは、一世一代の大演説をぶちはじめた。ひどく稚拙な日本語ながら(やつは残念なことにアホなのだ)、情熱と創作意欲をみなぎらせたなかなかの内容だ。しどろもどろで、たどたどしい。が、その声には力がある。主張も、とにかく心に響くものではある。演説が終わったとき、オレは大拍手を送っていた。拍手をしたのは、オレひとりだったが。まるで総会屋のサクラだ。しかし拍手をためらうクラスのみんなも、断じて言うが、ほだされていた。動かされようとしていた。
 しょうがないわね、だんしめ。
 ま、やらせてみてもいいわ。
 制作費用は自分たちでまかなってよね。
 好きにしなさいよ、お手なみはいけんね。
 ・・・声には出さないが、そんなトーンのやつだ。気がつけば、室温が明らかに上昇している。熱源であるキシのたぎりが、よどんでいたものを突き動かしたことは疑いがない。そこにいる誰もが、心に熱さを感じているのだ。
 まったく、世話の焼けるやつだなあ。
 ふふん、あんたには負けたわ。
 キシはクラスメイトたちに、挑戦という高揚感を植えつけることに成功したようだ。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園