deep forest

しはんの自伝的な私小説世界です。
生まれてからこれまでの営みをオモシロおかしく備忘しとこう、という試み。

111・教授と助教授

2019-05-20 07:58:40 | Weblog
 彫刻科の先生は主要人物が三人で、教授と、助教授と、講師が一人ずつに、その他に非常勤の講師陣が何人かいる。科のトップに君臨するキヨシ教授は、大変に偉いお方で、普段は東京で制作をしておられ、年に数度だけ金沢まで足をお運びになられる。その閣下を空港までお迎えに上がり、いろいろとお世話をするのがリョージ助教授で、このひとは教授様にどうにも頭が上がらない側近的存在だ。そのラインの下に、前にも出てきたヤクザな風体のダイジロー講師がおり、さらに最下層をフリーランスじみた非常勤チームがうろつく、というヒエラルキー構造になっている。
 さて、キヨシ教授が金沢に現れると、現場は大わらわになる。粗相などあってはならない、丁重にもてなさなければ、姿勢を整えよ!の緊張感がみなぎるのだ。このキヨシ教授は石彫作家なのだが、実に素晴らしい作品をおつくりになられる。ここだけは皮肉でも冗談でもなく言っておかねばならないのだが、彼は本当の大人物だ。背筋にくるほどに感動的なものを生み出す大作家様、本物の芸術家様である。日本の彫刻界での格においても、リアルランカーだ。石の素材感、それを生かした強い形、そこに込めるべきエレメント(←大先生が好んで使われる単語)・・・それらを人生を通して考え抜き、表現活動することに命を賭けている。それだけに、学生の作品に対する評価にも容赦がない。一瞥し、こっぴどく言い散らかし、ぷいと歩き去る、といった具合いだ。最悪の場合、仕事っぷりが気に入らずに怒り出してしまうこともある。まことに始末に負えない人格なのだ。が、その論評は、周囲が口を差しはさむ余地がないほどに的を射ていて、納得のいく意見なものだから、どやしつけられた者も「ははーっ、ありがたきしあわせ!」と恐れ入るほかはない。近寄りたくはないが、一声掛けられるだけで書物10冊分の勉強になるという、稀有な価値を持つお方なのである。
 その下のリョージ助教授には、日頃から可愛がってもらっている。毎夜のようにアパートに呼び出さ・・・招かれ、「マドンナ」という、彼の大好きな甘ったるいドイツワインを飲ませてもらう。50がらみだが、ひどく老け込んだ顔貌で、まるでしなびたへちまのような風采をしている。大量のコーヒー摂取のために黒ずんだ頰はげっそりと肉がそぎ落ち、疑心を決して解かない目は深く落ちくぼみ、ゴマ塩のボサボサ頭、小柄、猫背、タバコのせいで淀んだ体臭・・・好意的に表現すれば、なるほど、その姿は芸術家然としている。男やもめの独り暮らし。ボロボロのアパートのめちゃくちゃに散らかった部屋の奥には、秘密の小間があり、彼の作品群が雑然と置かれている。薄汚れた空間の中で、その一角だけは、オレの目に光り輝いて見えている。左様、リョージ助教授もまた、掛け値なしに素晴らしい作品をつくるひとなのだ。塑像、つまり人体の具象彫刻の作家である彼は、粘土やロウを用いて、テーブルにのるほどの小作品をつくり、それを鋳込んでブロンズ像にする。人体彫刻というと誰もが、街角に突拍子もなく出現する例のくだらないすっぱだか女・・・つまり、なんのアイデアもないワイセツなシロモノを想像するだろう。しかし、リョージ先生のものはあれではない。常に「生き死に」というテーマを作品に織り込み、精神性をニンゲンのカタチに昇華させて見せてくれる。抽象彫刻を具象化するとこうなる、と逆説的に言いたくなる作風で、まったく不思議な世界観だ。彼のつくり上げる人体は、人体の形をした普遍的な記号なのだ。新作を見せられるたびに、魂が震えるような気分にさせられる。オレが彫刻家であった期間は短いけれど、その間ずっと、リョージ先生を敬愛しつづけ、そのつくりだす作品に憧れつづけた。
 そのリョージ助教授が、キヨシ教授が現れた途端に、ドタバタのあわてものキャラに変貌し、七転八倒を演じはじめる。それはもう絵に描いたように滑稽な太鼓持ちの姿で、常に傍にいる身としては、なんとも言えない苦々しさと嫌悪とが入り混じった気分にさせられる。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園