deep forest

しはんの自伝的な私小説世界です。
生まれてからこれまでの営みをオモシロおかしく備忘しとこう、という試み。

9・新生活

2019-08-27 07:14:36 | Weblog
「奨励賞に入ったよっ。おめでとうっ」
 と、担当編集者のみきさんは言うのだった。応募した処女作は、賞レースの最低ラインに引っかかったらしい。さすがに100万円とはいかなかったようだ。しかし、副賞の10万円と、「今後一年間はよその雑誌で描きませんよ」と誓わされる契約金・・・というか、身代金47万円也を下賜される。
「きみは天才だけど、技術が稚拙だねっ。まずは他のマンガ家のアシスタントをしながら、腕を磨いたほうがいいねっ」
 メガネの奥で眼光鋭く、みきさんはすべてを見通す。論理的で、行動的で、実際的だ。切れ者すぎて恐ろしくさえあるが、信頼が置けそうで安心もする。こうしてオレは、とあるマンガ家を紹介され、その仕事場でしばらく下働きをすることになった。なんだか利用されている気がしないでもないが、技術は稚拙、知識も皆無、という自覚はある。なにしろ、ボールペンで商業誌にマンガを描こうとする男なのだから。少し現場で働いて、マンガの方法論を吸収する必要がある。
「修行しながら、自分の作品も描いて、どんどん編集部に持ってきてっ。ぼくが見てあげるからっ」
 はいこれっ、と渡されたのが、スピリッツ専用の原稿用紙の束だ。あらかじめ青線でマンガサイズのワクが入っていて、その線も1ミリ間隔に刻まれている。これは便利だ。例の「何百何十何ミリ×何百何十何ミリ」はやらなくていいわけだ。じゃんじゃん描くぞ~、とやる気が出てくる。
 打ち合わせが終わると、驚いたことに、タクシーチケットを渡される。電車で帰る必要はない、と言うのだ。社屋前に行列をつくっている一台に乗り込み、江古田まで走らせてみると、五千円もの運賃がかかっている。この代金が小学館持ちだ。ひょっとしてオレは、すでに大先生の扱いなのだろうか?・・・と思ったら、世の中がバブルなせいで、日本中の会社がこんな感じらしいのだ。まったく、豪勢な世の中になったものだ。
 しかし、原稿用紙を抱えて帰り着く場所は、格安アパートだ。ここもまた住んでみてわかったのだが、なかなかの物件だ。まず、玄関の引き戸を開けると、けたたましい防犯ブザーが鳴る。出入りするのにいちいち耳をつんざく音がアパート中に轟き渡るので、恐縮させられる。その関門をそそくさと通過すると、今度は一階に住まう大家さんの部屋の脇をすり抜けなければならない。なぜかこの部屋は、廊下に面したサイドが全オープンになっており、おばちゃん母娘の暮らしぶりが丸見えにさらされている。要は、居間が開けっぴろげ、というライフスタイルなのだが、エントランスに目を光らせる管理人、という防犯体制を取っているのだろうか?実に落ち着かない。ここを抜けると、ようやく階段だ。木造の二階に上がった西南角の六畳一間がオレの部屋だが、この部屋内も問題だ。西日がすさまじいのだ。部屋のぐるり二面半に曇りガラスが張り巡らされているために、夕刻ともなると、とてつもない光量が差し込んでくる。そして、当然の熱射!まるでドライサウナだ。仕方なくカーテンを閉めきるが、これだと逆に真っ暗だ。中間というものがない。しかも、造りが薄っぺらい。隣の部屋との境目の壁は、ベニアかと見紛うような薄板一枚だ。隣室住民の一挙手一投足までが手に取るようにわかり、咳をするのもはばかられる。大きなひと部屋を、ぺらぺらの間仕切りでふた部屋に隔てました、的な工法が用いられているらしい。むかし大きな子供部屋だったところを兄弟が大きくなったんでお父ちゃんが日曜大工でふたつに仕切ってふたりに分け与えました、のやつだ。さすがは東京都練馬区で2万6千円なだけはある。しかし、修行中の身には仕方のない環境だ。はやくデビューをして、売れて、高級な部屋に引っ越さねば、と心に誓う。
 街を探索して、銭湯を二軒見つけた。お好み焼き屋に、トンカツ屋に、コインランドリーも。もうしばらく歩くと、日芸の裏に出た。半周ほども回り込み、正門から突入する。勝手知ったる学食にもぐり込み、カレーを食べる。広々としたこの学食には、マクドナルドまでが出店している。さすがは大都会の大学だ。あずきバーばかりが光り輝いていた、金沢美大のコーヒーカウンターとはひと味もふた味も違う。ついでに美術棟内を散策し、彫刻室をのぞき込む。学生たちが動きまわっているが、金沢では考えられないようなポップなものをつくっている。地下の石彫場にまで忍び込んで、なつかしいにおいにひたる。二年も前には、自分もこんな場所で過ごしていたんだっけ・・・不思議な気持ちだ。学生時代は遠くなった。これからは誰に寄りかかることもなく、新しい世界でひとり生きていくのだなあ。不意に、感慨が込み上げてくる。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

8・上京

2019-08-23 18:17:37 | Weblog
 マンガ家になるために上京する。小学生の頃に「マンガ家になれたらなあ」と夢想したことはあったけど、そこまで実際的な筋書きは考えたこともなかった。それにしても、なんて心踊る話だろう。マンガ家になれるかどうかはさておき、この田舎での停滞状態から抜け出すことができるのだから。オレの興奮は、未来へ向かうことよりも、現状を過去にできることの方に向いている。躊躇などない。受話器を置くとすぐさま、学校にあてて辞表を書いていた。
「一身上の都合により・・・」
 高校教師が、二学期を前に職を辞するとはけしからん話だが、校長はあっさりと了承してくれた。さすがはバブルの時代だ。軽薄で、大らかで、頓着というものがない。代理の教師もたちまち見つかった。とんとん拍子だ。夏休みが明けて、一週間だけ挨拶のために登校し、担任の引き継ぎをする。
「おまえらがオレに大声張り上げさすから、のどにガンができたのだ・・・」
 東京で高度な医療を受けるために、泣く泣く辞めねばならんのだ・・・と、生徒たちの前でのうのうと嘘をつく。ところが、やつらはしょげ返るかと思いきや、特に感じるところもなく、へえ、という素っ気なさだ。おかしいな、オレ、たしか人気教師だったはずだよな・・・そして後任の女性教師を紹介すると、生徒たちは、わーい、オンナだ、と大喜びしはじめる。結構なおばはんなのだが、おちちがふくらんでさえいればいいらしい。まったく男子校とは哀れなものだ。憐憫の落涙を禁じ得ない。ま、後はよろしくやってくれ。
 同様に、学習塾の予習地獄からもおさらばし、晴れて自由の身となった。思えば、しがらみだらけの毎日だった。子供たちに対する責任感にがんじがらめにされ、自分が自分でなくなっていた。こんなカイシャインみたいな生活は、二度とやるまい。これからは、どこにも属さない人生を生きるのだ。悪魔の館も引き払い、生涯七度目の引っ越しに取り掛かる。いざ、都へと。
 東京には、学生時代にちょこちょこと遊びにいっていた。武蔵美には高校の同級生が何人も入っていて、例の米軍ハウスでも、未来の世界的デザイナー氏たちに世話になった。多摩美にはキシが三浪ばかりした末にようやく這い込んでいて、なぜかボクシング部のリングでどつき合いまでした。東京芸大のある上野公園では、よく野宿をしながら、園内にある美術館をめぐり歩いた。そして日芸のある練馬区の江古田には、彫刻展への出展のお願いに日参したものだ。
「住むとしたら、江古田の雰囲気がいいな、なんとなく・・・」
 西武池袋線の江古田は、武蔵大、武蔵野音大、そして日大芸術学部がごちゃごちゃと鼻先を突きつけ合う学生街だ。ざっくばらんな飲み屋も多く、下町チックな人情味あふれる商店街がありながら、池袋から三つ目という、都会すぎないが田舎すぎもしない感じがいい。のちに気づくことだが、ひとつふたつ向こうの駅には、かの有名な「トキワ荘」がある。かの手塚治虫や藤子不二雄、赤塚不二夫、石ノ森章太郎などが切磋琢磨したアパートだ。そのせいか、この近辺にはマンガ家も数多く住んでいるようだ。この地に導かれたのは、偶然ではない気がする。不動産屋をまわり、目につくかぎりでいちばん格安だった2万6千円という、6畳一間、風呂なし、トイレ共同のアパートに決めた。
 後日、引越しをすませ、「電話をくれた編集のひと」に挨拶にいく。神保町の小学館ビルは、まさに天空に反り立つ威容を誇るイカツさだ。なんの工夫もない四角四面の箱型なのが、かえって堂々として見える。一階受付で入館許可の書類を書き、きれいなお姉さんに渡すと、上階の編集部にいくように促される。エレベーターで運ばれていくときの周囲の同乗者は、見るからに業界のヒトビトだ。緊張。6階に着き、広大なフロア内で「スピリッツ編集部」を探す。少年サンデー、ビッグコミック、サライ・・・どのブースもデスクがごちゃごちゃに入り乱れ、どのデスク上も原稿や書籍でごちゃごちゃに散らかされ、これで仕事ができるのか?の環境だ。そんな雑然とした風景の中を、ギョーカイジンたちが忙しく行き交っている。人いきれと、タバコの煙と、紙とインクの匂い。その只中に、目的の人物がいた。座った回転椅子が、くるりと翻る。
「やあっ。みきですっ、よろしくっ」
 歯切れのいい話し方をする、いくつか年上のこの若者が、どうやらオレの担当編集者のようだ。

つづく

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7・スピリッツ賞

2019-08-21 15:34:14 | Weblog
 開高健を読んでも、小説を書いてみよう、とはならなかった。が、ふと、マンガなら、と思い立った。開高健にはのめり込んだが、文壇はあまりにも敷居が高そうだ。それなら、という軽薄な思いつきだ。教師生活をはじめて二年目の夏。ちょうど夏休みで、時間はふんだんにある。
 扇風機が回る音だけが響く、ぼろアパートの一室。コタツが骨だけの姿になったちゃぶ台上には、ビッグコミックスピリッツがひろげて置いてある。開いたページには「新人募集!スピリッツ賞。賞金100万円」の字が踊っている。物心がつきはじめた頃から「よっちゃんはマンガが上手やねえ」と周囲に言われて育ったこのオレだ。ちゃんと描けば、さくっと大枚をせしめることができるかもしれない。真っ白な画用紙を前に、さて、と取りかかる。
 まずはワク線引きだ。ところが、これがなかなかめんどくさい。「何百何十何ミリ×何百何十何ミリ」と、サイズの指定がやけにバラバラだ。30センチ×20センチ、でもかまわないではないか。これほど細かい数字が必要なのだろうか?さては、描きはじめようとする者の意欲をこの時点で試し、粗忽者をふるい落とそうという出版社の意図にちがいない。そうはいくものか。きちんと数字の通りに線を引いていく。オレはこう見えて、仕事には極めて几帳面なのだ。線を引き終えたら、鉛筆で下絵描きだ。
 ところで、ここで注釈を入れなければならない。オレはこの瞬間、マンガの描き方をまったく知らない。一般知識としてのぼんやりとしたイメージはあるが、描いた経験もなければ、きちんとした作法を勉強したわけでもない。だから、すべての作業がなんとなく行われている、と知っておいてほしい。
 さて、いきなりマンガの制作に入ったわけだが。本職のマンガ家は、原稿に触れる前段階で、あらかじめ「ネーム」という、つまり一話分のアイデアからページ分のコマ割りをし、コマ内の構図決めからセリフまでをざっくりと整頓した絵コンテをつくっておくものだ。ところが、そんなことも知らないこの自信満々のチャレンジャーは、ワク線を引いた画用紙にいきなり画を描き込んでいく。鉛筆で下描きをし、その上にペン入れをして、最後に鉛筆線を消しゴムで消す、という程度は知っているので、とにかく原稿用紙に直接、鉛筆で画とフキダシをのせ、話を進めていく。
 テーマは、ボクシングだ。なぜかオレは、毎月「ボクシングマガジン」を買って、マニアックなまでにその世界のことを勉強している。そこで、物語の舞台を高校のボクシング部に設定し、そこでのドタバタ劇を描いてみることにしたのだ。たいしたストーリーもオチもない、風景スケッチだ。私小説作家の開高健がよくやるスタイルなので、マネてみた、とも言える。とにかく、ボクシング部に放埓なふたりの男子がいて、もうひとり、天衣無縫な女子マネージャーがいて、その三人を部室内で動かす、というだけのやつだ。話の後先は考えず、思いつくままにサクサクと描き進んでいく。
 据わりのいいところで終えると、14ページ程度におさまったので、いよいよ本番のペン入れだ。本来なら、鉛筆線を黒インクでなぞる、という行程なのだが、このときのオレは、ペン入れの作法を知らない。各種出版されているマンガの入門書でも読めば、「Gペンを使い、インクは製図用のものか、なければ墨汁を用いる」などとちゃんと書いてあるのだが、この無鉄砲な男はどういうわけか、黒インクとはボールペンのことである、と思い込んでいる。というわけで、鉛筆で描いたアタリを、ボールペンでなぞり倒していく。ペンが入ったら、ページ全体に消しゴムをかけ、鉛筆線を消す。こうすれば、原稿用紙上にはインク線だけが残る、というわけだ。そして、ベタぬりという運びになる。こいつだけは、どこでなにを読んで知っていたのか、墨汁を使う。キャラの毛髪がベタで真っ黒になると、画がキリリと締まってくる。最後に、これもまたどこでなにを読んだのか知れないが、トーン貼りだ。スクリーントーンという、つまり白でもなく黒でもないハーフトーンの場所に、細かいドットの並んだ、マンガ専門の透明シートを貼っていくのだ。色付きシール、と考えてもらえばいい。こいつを、苦心惨憺してカッターで切り抜き、貼っていく。できた。完成だ。
 わりといい出来だとは思うが、スピリッツに連載されている作品と比べたら、なぜだか明らかに見劣りがする。ペンの線の質が、どう考えてもおかしい。違和感が隠しきれない。ボールペンで描いてあるのだから当然なのだが、オレにはまだ、その奇妙さの正体がわからない。それでもとにかく、描き上がったひどいシロモノを茶封筒に入れ、指定された住所に送った。
 数週間もたった頃、一本の電話があった。
「きみは天才だから、すぐに東京にくるべきだっ!」
 スピリッツの編集者を名乗る人物は、受話器の向こうでそう言っている。

つづく

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6・開高健

2019-08-20 09:22:37 | Weblog
 頭の悪い生徒たちが、可愛くてたまらない。オレ様の言うことをよく聞いてくれて、愉快だ。ちやほやしてくれるし、どんな命令にも従ってくれるし、ちょっとした知識をひけらかすだけでほほーっと聞き耳を立てて感心してくれる。連中の中にいると、王様になった気分でいられる。学校の仕事は楽だし、給料は決まった額が自動的にもらえるし、言うことなしだ。が、夜中に突然、虚無感に襲われる。アウトローだったはずの自分が、いつの間にか体制側に巻き込まれてしまっている。これはワナだ。ふと気づいて、怖ろしくなる。
 非常勤講師の待機室は、じいちゃんたちの憩いの施設と化し、いつもなまぬる~い空気に満たされている。この甘い毒気にさらされるだけで、オレ自身もトゲを失い、日に日に老化していく。70過ぎの英語の先生が、自分で描いた油絵を持ってきて見せてくれるが、ゆるすぎて批評することもできない。一応はほめちぎってさしあげるわけだが、そんな行為は、相手を小馬鹿にするがごとしだ。そういえば、久しく作品をつくっていない。発表の場もない。隣に座るじいちゃん美術教師(特待の四クラスほどだけを受け持っている)に相談すると、それだったら、と耳打ちをしてくる。アートについて語り合えるいい場があるから連れていってやる、と言うのだ。ついていくと、なんと共産党の集会ではないか。それきり、二度といかなかった。
 三人の若い教師たちはみんなオタクで、反りが合わない。チャラい話にはつき合う気になれず、疎遠になっていく。授業のコマが昼食をまたぐときは弁当持ちだが、ジジイたちのタバコの煙の中で食事はとりたくない。いつもひとりで校舎脇の川べりに座り、おにぎりを食べる。そして草の上にごろ寝だ。そろそろ変人扱いされはじめている。見上げる田舎の空が高い。ゆっくりと雲がゆく。この先、どうすればいいのかわからなくなる。
 アパートに帰り着いても、やることがない。友だちもいない。雄大な長良川のゴロ石の河原で、夕闇が下りるまで、水の流れを見て過ごす。柳ヶ瀬のアーケードの繁華街を歩いても、心が浮き立たない。部屋にぽつんといると、缶ビール一本ですぐに眠くなる。決定的にゆき詰まっている。
 いちばんの友だちは、マンガだ。今週発売のビッグコミックスピリッツを買わなければならない。待ち遠しいとか、面白くて読み飛ばせないとか思っているわけではなく、ただの習慣なのだ。いつもの書店に入ると、前年に亡くなった文豪・開高健の本が平積みにされている。そのとき、まったく不意なひらめきがあった。コーナーの一冊を手に取り、買ってみたのだ。短いエッセイを集めたようなものだ。開高健は、その存在をウイスキーやメガネのCMによってのみ知っていたが、なぜこの本に手を伸ばしたのかは、自分でもよくわからない。アパートに持ち帰り、読んでみる。小さな小さな字がページ全体にぎっしりと詰まっていて、5分でヘトヘトになる。そういえば、字だけが印刷された本など、この歳になるまで読んだことがない。「夏のとも」を白紙の状態で提出するなど、宿題というものをついぞしたことがないオレは、夏休みの課題図書ですら開いてみたためしがないのだ。高校まではマンガ一辺倒だったし、美大時代は画集しか開かなかった。美術論、みたいなやつに手を出したこともあったが、買っただけで完全に満足し、目次より先には読み進まなかった。オレに文字の読解は向いていないのかもしれない。それでも、イギリスの田舎で川釣りをする開高健の姿が、どういうわけか琴線に触れたのだった。それにしても、人間の脳の構築能力というのはなかなかのものだ。この歳から学習をはじめても、シナプスはスパークし、ニューロンは伸び、触手はひろがり、神経回路は新たにつながっていくようだ。無理やりに読み進むうちに、文章作法が理解できるようになり、読書がたのしくなっていく。
 開高健の作品は、文節が長く、言葉と言葉の連なりが複雑で、しかも一言一言が意味に満ちているために、ひどくくたびれさせられる。言わんとするその一節に至るまで、裏側に存在する多くのものを徹底的に削ぎ落としていき、最高度に洗練された言葉しか残さないのだ。そのおかげで、間延びがない。描像のごまかしが絶無で、実に明晰だ。本人は、いい文章は文字が立ち上がって見える、と書いているが、オレにもその立ち上がる様がついに感覚できはじめた。すると、難解に思えたその文章が、俳句のように簡潔だったのだと気づく。開高健の文章は、考えさせて読解を要求するのではなく、一瞥で感知させるという手法だ。文字をとらえて熟考するまでもなく、言葉の意味がひらいて連なって見えるのだ。「青空にシンバルを一撃したような」ひまわり、とか、「都が燃え落ちるような」夕焼け、とか、「バターを熱いナイフで切るように」釣り糸が走った、とか、キザだが、味わい深く、情景がはっきりと浮かんでくるではないか。その構築は、まさに芸術行為ではないか。なるほど、面白いものだ。オレは遅ればせながら、読書に目覚めた。そして逆に、書いてみようかな、とも思いはじめた。

つづく

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5・パチンコ店の駐車場

2019-08-05 22:13:22 | Weblog
 塾で受け持つのは中一特Aクラスだが、その中でもランク分けがされている。学習内容についていけない生徒には、特別な措置が必要だ。ひとり、やんちゃな坊主がいて、地はかしこいのだが、やる気がない。そこでオレは、「今度のテストで100点を取ったら、なんでも言うことを聞いてやる」と約束をした。すると彼は、「先生の原チャリを運転させてくれ」と言う。去年まで小学生だったガキが、大きく出るものだ。面白いではないか。のん気なオレは、「よっしゃ」と二つ返事をしてしまった。しかし、報償としてのエサは、生物に信じがたい意欲を与えるものだ。彼はがぜん、やる気になったようだ。そして結果、本当に100点を取ってしまったのだ。こうなっては、オレも男だ。約束を守るしかないではないか。塾の講義が終わって、やんちゃ坊主を近くのパチンコ店の駐車場に連れ出した。もちろん、愛車のジョグを押し押し、だ。興味津々の他の生徒たちもぞろぞろとついてくる。
「いいか、これがスロットルだ。手前に回すと、アクセルが吹かせる」
「うん」
「これがブレーキだ。チャリと一緒だ。簡単だろ」
「わかった」
 目がキラキラと輝いている。かしこい子だし、運転の要領も飲み込めている。そもそも、原チャリなど、ゴーカートと同じ造りだ。直感で動かせるようにできている。ガキとはいえ、乗れないわけがない。オレは坊主にジョグを渡した。きゅるるっ・・・エンジンに火が入り、発進準備完了。駐車場にひと気はない。チャンスだ。
「よし・・・いけ!」
 ゴーサインを出す。するとこのバカは、あろうことか、スロットルを全開に吹かしたのだ。
 ブオオオオンんんんんん・・・
 フルパワー!ヤマハ・ジョグは前輪を高々と掲げ、猛スピードですっ飛んでいく。しかし、駐車場はせまい。コントロール不能でロデオ状態の坊主の後ろ姿は、灯火の薄明かりから、たちまち暗闇へと消え入った。そして、激しい火花。さらに衝撃音!
 ドンガラガッチャ~ン・・・
 あ然と見送るしかなかった。が、瞬後、からだ中からいっせいに汗が噴き出す。やっちまった。周囲の子供たちは凍りついている。あわてて事故現場に飛んでいくと、坊主は・・・おお、神よ、彼は死んではいなかった!ドリフのズッコケオチのような格好でひっくり返っている。原チャリは、はるか前方の茂みに飛び込んだようだ。落ちていてくれてよかった。
「いってー・・・」
 尻もちはついているが、大事に至るようなケガはないようだ。どこかすりむくぐらいのことはあっただろうが。しかし、転んで泣くようなタマでもない。
「えへへ・・・」
 人間は、観衆の面前でこういうドジをしでかしたとき、苦笑いをするしかないようだ。が、一緒になって笑える状況ではない。取り巻く子供たちは、ドン引きしている。
「みんな、ずらかれ!」
 とっさに叫ぶと、子供たちはクモの子を散らすように逃げだした。
「誰にも言うんじゃねーぞっ。わかったな!」
 高校にバレたら、クビ。さらに警察にでも通報されようものなら、新聞沙汰は間違いない。一刻もはやく、この場を離れなければならない。すっ飛んで転がっているボロボロのジョグを起こし、オレも一目散に遁走する。誰になにを訊かれようと、しらばっくれよう!と決意する。・・・いやいやいや、そうはいかないぞ。あいつは親に言うだろうか?そうなると、めんどくさそうだ。中一の口に戸など立てられるわけがない。学校でも、武勇伝として触れまわるかもしれない。なにより、塾のクラスの全員がそれを見ていた。誰かが他人に漏らせば、オレの人生は破綻する。ああ、なんてことをしてしまったのだろう・・・
 その夜は、頭を抱えて眠った。が、奇跡が起きたようだ。その後になんのお咎めもなかったことを思うと、本当にみんな、口をつぐんだらしい。あの齢にして、罪の共有という意識を持ち得たのだろうか?だとすれば、なんと驚くべきクレバーな子供たちだろう。ありがとうございます!と言うしかない。それに引きかえ、22歳の、まったくひどい教師ではあった。

つづく

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