douce vie

現代アートを中心に、色々と考えた事とかを日々綴っています。主に関西の展覧会の感想なども書いております。

ゆっくり生きる。

2008-02-26 | 美術
ゆっくり生きる。 @芦屋市立美術博物館

いつもなら「ゆっくり生きる。」なんて言葉に惹かれはしなかった。
ここのところ色々と忙しくて、なんだかせかせかしすぎていた。
そんな時に、魔のように心に忍び込んだ言葉。「ゆっくり生きる。」
この展覧会を観に行ったからって、ゆっくり生きられるわけじゃないのに。
そんなことを考えながら、せかせかと美術館へと歩いていった。

赤崎みま、松井智惠、森口ゆたか、という三人のアーティストの作品で構成されている。
それぞれの作品のタイプは異なるのだけれども、不思議と調和している。

赤崎みまの作品は、暗闇に浮かび上がる葡萄やオリーブや蓮の写真。
美しい生命を放つ果物や花。それはまるで光のようだ。
真の暗闇など無いのだと教えてくれるような。
他にも水晶や、燐光のように青く光る枯れた花の作品もあった。

森口ゆたかの作品は、<LINK>という映像作品。
二本の糸が、よじれたり、絡んだり、結ばれたり、ほどけたりする映像。
靴を脱いでビーズクッションに座って、ぼんやりと眺める。
見ているのは糸なのに、何だか人の関係みたいに見えてくる。
こうやって人間も、触れ合ったり、強く結ばれたり、するりとほどけたりしている。

松井智惠の作品はハイジをモチーフにしたインスタレーション。
やわらかな色彩の水彩がが並ぶ先に、映像が流れる部屋がある。
田舎から都会に連れて来られて夢遊病になったハイジに松井智惠自身が扮している。
白いワンピースに裸足で煙草を吸うハイジの虚ろさ。
そして感情が迸るような切迫感。圧巻だった。
ただね。クララが田舎に行っても、やっぱりうまく馴染めないと思う。

忙しいとか暇だとか、そんなことじゃなくて、
ゆっくり生きるとか、抜きにして、
気持ちが満たされるような展覧会だった。

ピピロッティ リスト:からから その4

2008-02-26 | 美術
さすがに長くなり過ぎました。

「あなたの宇宙カプセル」
美術作品を輸送する時に使う箱の中にドールハウスのような部屋と宇宙が作られている。
上から覗き込む。小さいと何だかすべて可愛く見える。
大切に守られてこの小さな日常が世界中を移動しているのかな。

「あなたに大賛成」
女性がこっちをずっと見続けたままバスに乗りスーパーに行き、部屋に帰る。
そんな彼女の額のあたりには、森の中で全裸ではしゃぐ男女の映像が映っている。
すごく都会的な女性と、原始的な森にいる男女。この対比がすごく不思議。
自然に帰れという単純なメッセージでもないだろうし。

「エヴァー イズ オーヴァー オール」
可愛らしい水色のワンピースを着た女性が、楽しそうに花を持って歩いている。
そして駐車している車のガラスを、手にした花のハンマーで叩き割っていく。
彼女に微笑みながら挨拶する警官も女性だ。
この可愛らしさと暴力的なところのギャップが良い。
何だか解放感がある。怒りに任せた破壊衝動じゃなくって、笑顔で破壊。
フェミニズムとかジェンダーとかは言いたくない。

「隠れたサーキット」
トイレにある作品。
便器の中にカメラが仕込んであって、その映像がモニタされる。
つまり、排泄の様子を自分で見ることができるって仕掛けなわけ。
とりあえず、入ってみたものの、する気になれず・・・
悩んだけれど、トイレを占拠するわけにもいかないし。
結局、そのまま出てしまった。
金沢でもトイレにリストの作品があった。
毎日何気なく入るけど、実は生きているってことを実感する場所でもあるな。

全部見終わって、美術館を出た時には、
生きていることを悪くないなって思える。
否定するのは簡単で、肯定するのは難しい。
だけど、うまく肯定できたらきっと面白いし楽しい。

これで終わりです。

ピピロッティ リスト:からから その3

2008-02-25 | 美術
いいかげんくどいんですが。

「ダイヤモンドの丘の無垢な林檎の木」
タイトルだけで心わしづかまれるんだけど、この展覧会で一番好きなのはこれだった。
とにかくもう美しい。木にぶら下げられたプラスチックや発泡スチロールの容器に映像が投影される。
ゴミのはずなのに、きらきらと輝いて、儚くてせつない気持ちにさせられる。
この作品は木の下で座って見ることができるのですが、相当長い間座り続けてた。
日常にありふれたものの中にこんな美がひそんでいるのだって気づくだけで、
なんだか満たされた気持ちになる。

「膝ランプ」
椅子に座ると、膝のあたりに木漏れ日のような映像が投影される作品。
自分の身体に映像が映されるのって、なんだかくすぐったいような気持ちになる。
悪くないけど。

「ジーナのモービル」
”世の中に様々あるタブーの中で、皮膚のタブーに関する作品”
とパンフレットにある。
確かに、人の身体は全部、一枚皮でつながっているのに、
普段人目にさらさない、さらしてはいけない箇所がある。
そういう部分の映像。
時々、なんでかなって不思議に思う。林檎のせい?

ちょっと眠いんで、さらに分けます。

ピピロッティ リスト:からから その2

2008-02-21 | 美術
記憶と手元のパンフレットをたよりに。

「星空の下で」
入ってすぐの部屋でのインスタレーション。
ぐるぐると目の回るような映像が床に投影されている。
映像はこの地上と宇宙が繋がっていることを思わせるように、
宇宙かと思うと室内だったりして浮遊している。
音楽と合わさって解放感を感じる作品。

「ヒーリング」
救急箱を使った作品とのこと。箱にはピピロッティリストによって
言葉が書かれているのだけれど、英語と何語かで。
あまり意味がですね…わからずで…
側面にはモニターが埋め込まれていて赤血球の映像が流れている。
なんだか、生きるって代謝だって思う。
傷ついてもいずれ治るもの。

「溶岩の坩堝で我を忘れて」
どこからか「ヘルプ…」という声がすると思っていたら
廊下の床に仕込まれた小さなモニターからだった。
床の表面にではなく、床に穴を開けているところがすごい。
溶岩の炎に包まれたリスト自身の映像。
こんな小さなすき間で助けてと叫び続ける。
もしかしたらずっとずっと気づかれないかもしれないと思うと、怖い。

「部屋」
巨大なソファーやテレビのリモコンがある部屋で映像を見るというインスタレーション。
ソファーに座るにはよじ上らないと行けないし大変。
”世の中州のすべてが大きく見えた子どもの頃に戻ったかのような錯覚を覚える”と
あるのだけど、私はあまり大きくならなかった大人なので、
大人になってからも、世の中の大抵のものが大きく見える。
このインスタレーションほどじゃないけど。

まだ続きます。

ピピロッティ リスト:からから

2008-02-15 | 美術
ピピロッティ リスト:からから @原美術館

スイスの女性アーティスト、ピピロッティ・リストの日本での初の個展。

ピピロッティ・リストとの初めての出会いは「身体の夢」展。
京都服飾文化財団が京都近代美術館と組んで行われたファッションと現代美術の展覧会。
これ自体を私は見ていないのだけれども、機会あって展覧会のレクチャーを聴いたので、
その時に初めてピピロッティ・リストの映像を見た。「エヴァー イズ オーヴァー オール」
その後すぐにフェイドンから出ていた画集を買った程、気に入った。

次に横浜トリエンナーレ。確か「関連しあう脚」という作品だった。
フェミニンに仕立てられた展示スペースに映像が浮遊するように映し出されるインスタレーションで
時間を忘れて見入ったのを覚えている。
そして、金沢21世紀美術館。
トイレにある作品。新陳代謝を強く意識させられ、「生」を感じられる作品だった。

と、かなりのピピロッティ・リスト好きなつもりなので、
今回個展と聞けばもう行くしかなかった。

そして期待は裏切られることなく、展覧会はとてもとても素晴らしいものだった。
ピピロッティ・リストを語るとき、良くフェミニズムという単語が出てくる。
作品自体がフェミニンだと思うし、ピピロッティ・リスト自身も含めて女性の映像も多い。
私は女性なので、「女性として生きること」という部分を考えさせられるけれど、
女性だとか男性だとかを超えて人間そのものの「生きること」を肯定している心地良さがあるように思う。

それほど多い作品数ではなかったので、一つ一つくどく語りたい。
分けます。

ゴス展

2008-02-14 | 美術
ゴス展 @横浜美術館

国内外の6組のアーティストの作品を通じて現代美術のゴス/ゴシックを紹介、との事なんですが…
ゴシックに対する疑問だけがわき起こってしまいました。

ゴス/ゴシックって何?

いや、知っているつもりだったんだけど。
あいまいとはいえ、大体私の頭の中でこういうのがゴスみたいなのがあった。
ケラとかゴスロリバイブルとか夜想とか読むし。
私はそもそもの中世ヨーロッパのゴシック様式の教会も好きだし。
それを、何だか打ち砕かれた感じ。
これがゴスなんですか?
では、改めてゴス/ゴシックって何なんだろう。

多分、「ゴシック」って言葉は「ビジュアル系」みたいなもので、
なんら本質を表す言葉じゃないんじゃないか、という気がする。
そして現在のゴシックというカルチャーに本質なんかないんじゃないかな。
だから、ゴシックという言葉で想起するものが人によってあいまいになる。
私の中ではもっと退廃的で美的なものを想像していたので、
この展覧会の作品はどれもゴシックには思えなかったし、ただ痛々しいだけだった。
作品一つ一つについて語っても良いんだけど、
ほとんどの作品にイラっとしたのでやめておく。

この展覧会ではゴス/ゴシックというのが
世界的に共感を呼んでいるという前提なのだけど、そこも疑問。
表面的なかっこよさが一部の人に受け入れられているだけではって気がしてならない。
なんだか美術館も象牙の塔なのかな。

Space for your future-アートとデザインの遺伝子を組み替える

2008-02-13 | 美術
Space for your future-アートとデザインの遺伝子を組み替える @東京都現代美術館

建築、デザイン、ファッション、アートの領域を越境した表現の展覧会。
キュレーターが同じせいか、わりと金沢21世紀美術館の開館記念展に似ているような気がする。

4階分の吹き抜けに浮かぶ巨大な風船は良かったなー。
ぼーっと見上げているととてもなごんだ。
エルネスト・ネトの着るソファも癒し系。
私は意外にも(かどうかはわからないが)沢尻エリカが好きなので、
タナカノリユキの100 Erikasも良かった。
あんなにたくさんの沢尻エリカがいると、この子は本当に存在しているのかなって
逆に思えてくるから不思議だ。

展覧会自体は見ていてとても面白かったし、楽しめた。
ただ、アートとデザインってそもそも本質的に違うもののような気がする。
アートは何もないところから、形へと拡散していくもの。
デザインはすでにあるものを、形に収斂していくもの。
だからケータイをデザインすることはあってもケータイをアートはしない。
そういう風に思っているので、「何となくアートっぽいデザイン」みたいな中途半端なものが増えるだけじゃないのか。
確かにこれだけ表現が増えれば、はっきりと「これがアートなんです」という定義は出来なくなる。
そんな越境、もしくは既にボーダーレスな未来を予感させる展覧会だった。

「六本木クロッシング 2007:未来への脈動」展

2008-02-13 | 美術
「六本木クロッシング2007:未来への脈動」展 @森美術館

いまさら、という気がめちゃくちゃするけど、
会期が終わるのを待った方が良いか、別にそんなの構わないか、とか思ってるうちに
まんまと会期も終わり、記憶もおぼろげになってしまった。

というのも、見た直後はなんて面白くないんだ、と思ったため、
どうやって書こうか悩んだのでした。
で、色々ごちゃごちゃ考えているうちに、当初の新鮮な気持ちも失われ、
なんだかあれはあれで面白かったんじゃないかって気もしはじめ、気がつきゃあ二月も半ば。

前置きが長かった。

今、見たい日本のアーティスト36組。ということなんだけれど。
なんだかすごく疲れる作品が多かった。
量より質、みたいなメガマック的な作品。
これだけ労力をついやしたんだから、すごいだろみたいな職人的作品。

あと、どういう基準かわからないけれど、女性作家の作品が極端に少ない。
見た目が美しいものが少ない。
若手よりはベテランの方が異様なパワーがある。

何が「交差(クロッシング)」してるんかわからない。
どちらかというと「閉鎖(クロージング)」な感じがする。

でもね、面白いことに何だかこれが日本の現状をわりと表しているような気がする。
この不愉快な閉塞感。日本のアーティストだけを集めるとこうなっちゃうのか、と。
そう考えると、わざわざ見た価値はあったかな、とだんだん思えてきたりもして。

ムンク展

2008-02-12 | 美術
ムンク展 @兵庫県立美術館

混んでる…
こんなに混んでいる美術館って久しぶりだったので新鮮かも。

ノルウェーを代表する「叫び」で知られる作家ムンクの展覧会。
「叫び」が有名すぎて、孤独や不安に満ちた絵ばかりかと思ったけど、そうでもない。
やはり世紀末には共通する時代の雰囲気があったのか、
全体的に退廃的で不安感に満ちた絵が多いのだけれども、
後期になると明るい色彩のものや、力強い労働者の絵などもあった。
こうして生涯を通して見てみると、やはり時代的なものが多いに関係するのかな、と思うことしきり。

この展覧会では特に、ムンクの装飾性といった部分にスポットをあてているらしい。
いくつかの作品を組み合わせて展示することで、「生命のフリーズ」という連作を再現していた。
ただなんとなくピンとこなくて、あんまり成功しているようにも思えなかったんだけれど…
北欧は寒いから室内装飾に凝ると聞くが、あんまりこれらの絵と一日中向き合っていたい気はしないな。
まあ、それは個人的趣味ですが。

カリスマ

2008-02-12 | 映画
カリスマ 黒沢清監督 2000年 日本

「両方生き延びることは出来ないのでしょうか」
自らが生き延びるために毒を吐き出し続けるカリスマと呼ばれる一本の木。
カリスマを守れば森はやがては死んでしまう。
一本の木を守るのか、森全体を守るのか。あるがままとは何なのか。

一本の木を巡る人々の対立は、戦争のメタファーにも思える。
生きる力と殺す力は同じ。何かが生きようとすれば、何かが死ぬ。
そこに答えがあるのかどうか。
映画のポスターになっている会田誠の「紐育空爆之図(にゅうようくくうばくのず)」で
戦闘機は無限の形に隊列を組んでいる。争いに終わりがないとでも言うように。