【 聖徳太子と蘇我馬子 】自説
聖徳太子が架空の人物であったと言う茶番な大山誠一説がありますが、私は実在したと思っています。大山誠一説は、用明天皇の子である厩戸王と聖徳太子を別人とし、聖徳太子を中国聖天子像に無理矢理結びつけて太子自身を否定している。更に、不比等や長屋王の時代の創作として位置づけして日本書紀や法隆寺の伝承を完全否定している。
ここで問題となるのが、その大山説の根拠であるが、たとえ神話伝承のたぐいであっても否定するだけの根拠が必要なのだが、その根拠がどこにも示されていないのである。ただ、否定するだけなら誰にでもできること。大山説は、それこそ茶番論にすぎない。で、茶番に付き合うつもりもなく、これ以上、大山説について論ずることは止める。
では、聖徳太子の実像はどうであったか。そこには、蘇我馬子が大きく関わっていたと見る。以下、大山説と同様に茶番の自説であることを前置きし述べることとする。
聖徳太子は、用明天皇と穴穂部間人皇女との間に生まれた。蘇我氏との血縁関係が深く、更に太子の嫁は、蘇我馬子の娘である。物部氏が、軍事勢力を中心とした大豪族であることをいいことに武力で天皇を牛耳ろうとした。それに対し蘇我氏は、王族と血縁関係を深め子を天皇することで権力を得ていく方法をとった。
物部氏と蘇我氏の戦争は、軍事勢力で排仏派である物部守屋と、祈祷勢力である崇仏派の蘇我馬子が敵対する宗教戦争のように見える。しかし、実際には、軍事と政治の権力闘争にすぎない。用明天皇が崩御し、蘇我馬子が、守屋の推す穴穂部皇子を暗殺したことから始まった戦争。ここには、蘇我馬子に正義がなく、単なるクーデターの要素が強い。そこで、蘇我馬子が物部守屋を攻める正義を得るための幡立て役が、厩戸皇子と私は見る。厩戸皇子を参戦させることで、蘇我馬子軍が国軍となる。と言っても、物部守屋の軍事力に勝てるはずもない。そこで、新羅と敵対していた百済人や高句麗人と接触、また、漢により滅ぼされ葛野井(京都)に流れてきた秦一族とも接触して先進国の武器や戦術を学んだと考えられる。法隆寺や四天王寺の寺説では、聖徳太子が四天王を刻み祀り祈祷したとある。だが、そんなもんで勝てるはずもなく、渡来人がもたらした高度な武力や戦略により勝利したに違いない。そこで、士気を高める為に、聖徳太子伝説が登場する。元々祈祷集団であった蘇我氏が、聖徳太子を神がかり的な存在にすることなど簡単であったと思われる。これにより士気が高まり、渡来人がもたらした最新兵器で物部守屋を壊滅させた。
その後の馬子は、崇峻天皇を皇位につけたが、やがて敵対し崇峻天皇を暗殺、女帝推古天皇を皇位にした。太子を摂政にして政治の実権は、馬子が握ることになる。馬子が飛鳥寺を建立し、太子が難波宮に四天王寺を建立し仏教興隆の始まりとなった。四天王寺が大和川の河口にあり、石川との合流する古市に野中寺や道明寺がある。更に、大和川の中流にあたる奈良盆地の入口に法隆寺がある。四天王寺、道明寺、法隆寺は、大和川を見張る関所と考えると理解できる。更に、堺から飛鳥への陸上の要である竹内街道には、野中寺、遺言による墓所叡福寺もある。これらが陸上の関所だとすると、仏教寺院を利用した砦としての要素が強い。
厩戸皇子は、仏法を憲法とし自分が神格化し、天皇を中心に置く中央集権国家を建国したと見える。だがしかし、厩戸皇子が、天皇になったわけではない。いや、なれなかったとみる。実権を握った蘇我氏は、天皇中心政治ではなく、蘇我氏による官制を執ったと考える。蘇我氏が出ると敵を作り新たな火種となる。そこで、王位継承権のある厩戸皇子が、導入した新しい政治のしくみとして定着させれば敵が出ないことになる。更に、馬子によって、物部守屋を破った英雄として祭り上げられたとくれば逆らう者が居ない。馬子の思惑通り、以後、現代に至まで官制政治になってしまう。
蘇我氏により神として祀られた厩戸皇子は、後世まで神として祀られることとなる。一方、実権を握った蘇我氏は、強欲な蘇我入鹿が登場し物部守屋と同じく中臣氏(藤原氏)に滅ぼされてしまうこととなる。そして、藤原氏は、天皇と血縁を深め官制政治の実権を長らく握ることとなる。その後、神官としての藤原氏は、念願であった排仏を進めるべく仏教寺院のない長岡京を作らんとした。しかし、天災により桓武天皇があっさりと平安京に都を移し、東寺や西寺を含め寺院を建立した。藤原氏は、神仏習合をせざるを得なくなる。
仏教国日本の根本は、蘇我馬子によって始まり永遠に続くことになる。信長や廃仏毀釈にも負けなかった仏教は、役行者小角や弓削道鏡のような神になろうとする坊主、政治の実権を握ろうとする坊主さえ現れなかったら永久に続くであろう。
また、聖徳太子は、仏と一体となり庶民に親しまれた太子信仰として今尚生き続けていて、信仰がある限り実在している。