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【最後の卑弥呼】自説

2012年08月01日 | 【寺社と坊主の話】

【最後の卑弥呼】自説

 神代の昔、三輪の地に根した卑弥呼を中心とした邪馬台国(大和の音訳したのが邪馬台と考えている)の一大勢力が、土着の鴨氏、葛城氏を国譲りをもって平定し、金属を扱い巨大勢力であった出雲の勢力をもかろうじて国譲りをさせ平定した頃の話になる。

 神がかりの巫女ばかりを集め、中でも特にすぐれた神がかりの巫女が表れた。人々は彼女を卑弥呼と呼んだ。卑弥呼は、一生を神に仕え国の安泰を司る女王として君臨することとなる。また、一生を神に仕えるために子をなさずして世襲制がない。巫女集団の中から、より優れた神の告知ができる巫女を新しい卑弥呼として選ばれてきた。その為、国は長らく安泰し敵対部族を国譲りと称して治めてきた。

 卑弥呼には、実の父親や兄弟が神官として仕えていたと思われる。神官は、女王卑弥呼の世話やお告げを民に伝える仕事をして、低い身分なれど女王と民のつなぎ役として絶大なる力を持っていた。

 卑弥呼が亡くなるか引退した後、新しい卑弥呼の親族が次の神官となる。つまり、前の神官達は、失職し権力の座から下り低い身分に戻るか、女王と殉死した思われる。一度握った権力を維持するため神官達は、次期卑弥呼を身内の娘から出す必要があり、葛城氏や鴨氏(葛城襲津彦・迦毛之大御神)、出雲系(大国主神)、日向系(天照大神)の権力争いによりたくさんの殺戮が行われた。
  当時の人々にとって最も恐れることは、「祟り」である。実際には、土蜘蛛と称し殺して土着民を抹殺するも、彼らの祀る八百万の神の祟りを恐れそのまま神として祀る。または、国譲りと称して頭領を殺し神として祀ることで、土着の民を支配下に置くと言う政策を執ってきた。事実、古事記には数多くの神々が発生しては死んでいる様子が書かれている。

 だが、大物主の神が現れるや他の神々がほとんど現れていない。これが意味するものは何か。大物主の神以降、神官達の争いが無くなったことを意味していることになる。つまり、大物主の神を祀る一つの神官が、権力を牛耳ったことを意味するのだ。
 大物主の神と大国主神を一体とする学者が多々あるが、もしこの説が正しいとすると出雲国が大和を征服したことになる。「大国主神が国造りに当たり神々に協力を求めると、海より倭の青垣の東の山に身を清めて祀るが良い」とあり、三輪山に祀られし大物主の神と大国主神とは、別人となる訳である。

 さて、大物主の神である三輪山に降臨した人物、彼こそ最後の卑弥呼を妊ませた人物となる。つまり、大物主の神が白蛇となり夜這いした相手が、最後の卑弥呼「勢夜陀多良比売」となる。更に、卑弥呼と大物主との子「伊須気余理比売」と神武天皇との子より大王を中心とした世に変わり、祖神である大物主の神を唯一の柱として祀る崇神天皇までが、系譜程度の記述へと古事記が変わり、大王の男系を中心とした安泰した国造りの記述へと変わっていく。

 さて話を戻すと、夜這いしてきた神官と結ばれた卑弥呼は、女の子を産んだ。卑弥呼が人と結ばれ子をなした一大事件は、単に、卑弥呼が女王でなくなると言うだけで終わらない。この不名誉な事件を正当化するには、卑弥呼が神の子を産んだことを世に示す必要がある。そうでなければ、事件が事件だけに神官達の殉死は免れぬところであろう。
 そこで、「陰部に箸を突き刺して死ぬ」と言う卑弥呼を愚弄して死を民に伝え、妊ませたのは三輪に降臨した大物主と言う大神であるとしたのだ。
 何よりも祟りを恐れおののく時代のこと、大きな古墳(箸墓)をつくり祀ったのが最後の卑弥呼である勢夜陀多良比売の古墳となる。

 さて、当初神官達は、卑弥呼の子伊須気余理比売を次期卑弥呼としようとしたと思われる。しかし、河内を中心とした伊迦賀色許売(物部氏)の祖の武力集団が強くなり、国が乱れ卑弥呼が空席のまま時が過ぎた。
 そんな中、神の子伊須気余理比売がひとりの強大な力を持つ神官と結ばれた。その神官には妻も子も居たが、より強大な力を得ようと神の子と結ばれたと思われる。その神官が、神武天皇である。女系の女王制から、初代大王として君臨し、以後、男系として現在に至るまで続く天皇制の基となったと考えられる。

 ちなみに、三輪に大物主の神を祀り疫病より国を救ったのが崇神天皇であるが、神武天皇と同一人物として考えると、大王制への政変の一連の流れが理解できる。以後、大物主の神による夜這いに始まる神の血を継ぐ男系の世襲制をとり続けることとなったと私はみる。


 余談だが、その後、初代天皇は、応神天皇だとみています。その子3人(仁徳は架空の人物)、履中、反正、允恭が中国の晋書や宋書にでてくる讃・珍・済と考えられる。つまり、履中が2代、反正3代で、腹違いの4代允恭が仁徳陵の主と思われるが、履中と反正の一族が琵琶湖の北高島へ追いやられたか、流された。それが、継体天皇へとつながると思っている。
 この時代も好き勝手に話をしても古墳の発掘しないかぎり夢ある妄想の世界を話すことが出来るのだ。ちなみに、履中陵(堺)は、仁徳陵(堺)や応神陵(藤井寺)より古いことが分かっている。また、允恭天皇は、履中、反正と同じ血と思われているが矛盾が多い。私は、允恭は腹違いで正当な継承する者ではないと考えている。つまり、履中より大きな墳墓(仁徳陵)を作ることで正当性を誇示しようとしたと考えている。允恭天皇の系統は、ほぼ断絶していることがそれらを物語っている気がしている。
 ちなみに、藤井寺にある允恭陵は何か、そんなことは宮内庁が勝手に決めたもので発掘しないと分からない。更に、本当の応神天皇陵は何処か。楽しい妄想の世界は尽きることが無い。

 


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