■ポイント 元から明への変化の意味を押さえ、当時の東アジアの状況を知る。
A紅巾の乱 14世紀 世界的な災害、疫病の多発 → 東アジアでも飢饉続く- 1351年 仏教をもとにした宗教結社a 白蓮教徒 が反乱をおこす。▲韓山童、韓林児の親子が指導。
= 弥勒仏がこの世に現れるという下生信仰と結びつき勢力を拡大。各地でも群雄が蜂起。 - b 朱元璋 貧農出身で反乱に加わり、次第に頭角を現す。 → 儒学の素養を持つ知識人=地主と結ぶ。
→ 長江下流を制圧し、1366年までに農民反乱を鎮圧。 → 北伐を行い、元軍を破る。
解説
紅巾の乱はきわめて宗教色の強い白蓮教徒によって主導されたが、反乱には広い農民層の支持があった。朱元璋も貧農の出身でこの反乱に加わったが、白蓮教徒であったかどうかは判っていない。当初は韓山童に従っていたが、途中で韓山童の子の韓林児を殺害して反乱軍の主導権を握り、地主層や知識人と結んで反乱を鎮圧し、1368年に明を建国した。同じころの1370年、中央アジアではティムールが建国している。
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B明 の成立。Text p.179
- 1368年、a 南京 で即位、年号をb 洪武 と定める=c 一世一元の制 。
=d 洪武帝 (廟号はe 太祖 )の即位。→ 元はモンゴル高原に退き、f 北元 と称す。 - 意義:g 漢民族の王朝を復活させ、江南から起こって中国を統一した最初の王朝となった。
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C東アジアの情勢 14世紀後半。- 日本:1333年 鎌倉幕府が滅亡 → 後醍醐天皇の建武の新政 → 足利尊氏、室町幕府を開く。
→ a 南北朝の内乱 が続く。日本人のb 倭寇(前期倭寇) の活動活発になる。
1392年 c 南北朝の統一 がなる。 → 室町幕府の安定。 - 高麗は親元派と反元派の対立し、 b 倭寇 の侵入にも苦しみ、衰退。
1392年、d 李成桂 がb 倭寇 の鎮圧で名声を上げ、王位につく(太祖)。(後出)
→ 国号をe 朝鮮 、都をf 漢城 (現ソウル)とする。
解説
李成桂の建てた国は「朝鮮」であり、王朝は「朝鮮王朝」である。「李朝」ということもある。にほんではかつて「李氏朝鮮」と言われたが、「朝鮮」と称する国はこの李成桂の建てた国だけなので、「李氏朝鮮」と言う必要は無い。現在の韓国でも「李氏朝鮮」という云い方はされない。
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用語リストへイ.明初の政治
■ポイント 明王朝はどのようにして中国を支配したか。またその特質は何だったか。
A洪武帝 の統治 (1368~1398) 漢民族の意識を高め、専制支配体制の強化をはかる。- 皇帝の独裁的権力確立 1380年 a 中書省 とその長官である丞相を廃止。
→ b 六部の皇帝直属 万事を皇帝が直接決定する態勢をつくる。
中央官制、地方官制とも行政・軍事・監察の三権を互いに牽制させる。
Text p.180
- c 里甲制 :民戸(農民、商人など税を負担する戸)を里と甲に編成。
110戸を1里とし富戸10戸をd 里長戸 、残りを10戸ずつ10甲に分け
甲ごとにe 甲首戸 を置く。1年交替で徴税事務、治安維持などにある。
長老をf 里老人 として裁判、民衆教化にあたらせる。

h 魚鱗図冊
- 税制:戸籍・租税台帳としてg 賦役黄冊 を10年ごとに作成。
あわせて土地台帳としてh 魚鱗図冊 (右図)を作成。 - i 朱子学 を官学とし、j 『六諭』 を定め、里ごとにとなえさせる。
解説
六諭(りくゆ)とは、洪武帝が里甲制の下での農村で、里老人を通じて農民に示した。「父母に孝順であれ」「長上を尊敬せよ」「郷里に和睦せよ」「子孫を教訓せよ」「おのおのの生業に安んぜよ」「非違をなすことなかれ」という、朱子学に基づく道徳観によって農民を権力に従順な存在に抑えつけようとしたもの。日本の江戸幕府でもさかんに農民に対して説諭された。
- k 科挙制 の整備。郷試→会試→殿試の三段階選抜。
- l 明律 ・m 明令 の制定。
- n 軍戸 を設け、o 衛所制 を編成。
= 112人で百戸所、10百戸所で千戸所、5千戸所で1衛とする。 - p 海禁政策 をとり、貿易はq 朝貢貿易 のみを認める。
→ 周辺諸国の貿易船に勘合符を発行するr 勘合貿易 を始める。 - ▲通貨:紙幣の他に銅銭の洪武通宝を発行。次の永楽通宝とともに日本にも輸出。
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B靖難の役 1399~1402年- 洪武帝、息子たちをモンゴルに備えて北方辺境に置く。 → 北平(現在の北京)の燕王朱棣が有力になる。
- 第2代a 建文帝 、諸王の勢力削減をはかる。
- 1399年、燕王が挙兵、南京を占領。「君側の奸を除き、帝室の難を靖んじる」と称した。
解説
建文帝は洪武帝の孫、燕王朱棣(しゅてい)はその伯父という関係。朱棣は若いときから父に従って戦場で活躍し、優れた軍事的才能を持っていたが、兄の子の建文帝が帝位を継いだため、不満を抱いた。朱棣は建文帝が伯父たちの力をそごうとしたことに反発して挙兵したが、大義名分がないので、「君側の奸を除く」つまり皇帝の政治と誤らせている側近を排除することをその口実とした。そこでこの戦いを朱棣側から見て、「靖難の役」という。追い詰められた建文帝は南京で殺害され、朱棣が永楽帝として即位すると、建文帝の存在を否定し、自らを第二代皇帝とした。建文帝が皇帝であったことが認められるのは後のことであった。
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C永楽帝 の政治 1402年、明の第3代皇帝(a 成祖 )として即位。- 1421年 b 北京 に遷都。 c 紫禁城 を造営。
- 親政を補佐する▲d 内閣大学士 を置く(内閣の始まり)。一方でe 宦官 を重用。
- 科挙の基準として、『 f 四書大全 』『g 五経大全 』を編纂。 → 朱子学道徳の重視。
- 『h 永楽大典 』の編纂 = 古今の図書を集め、分類整理した大百科事典として刊行。
- 経済:江南と北京を結ぶ運河を整備。 永楽通宝を発行。
- 対外:積極策を展開、i モンゴル に親征、j ベトナム に遠征軍を送り、支配。
k 鄭和 を南海遠征に派遣。朝貢貿易の拡大を図る。(下掲)
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D 明の転換 C 永楽帝 ユーラシア西部のa ティムール帝国 の進出に対抗して出陣。- 1424年 モンゴル遠征の途中で死去。以後各皇帝、北京北西に陵墓建設( 明の十三陵 )
その死後、明は対外消極策に変わる。 → 内モンゴルから後退、ヴェトナム(大越国)の独立。
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明の支配領域とその周辺 15世紀はじめのアジア

重要地
1. 南京
2. 北京
3. カラコルム
4. 漢城
5.<em "=""> 土木の変
周辺諸地域
a. 韃靼(タタール)
b. 瓦刺(オイラト)
c. ティムール朝
d. チベット
e. ベトナム(大越国)
f. アユタヤ朝(タイ)
g. 女真
h. 朝鮮(李朝)
i. 室町幕府
j. 琉球王国
※a 鄭和の南海遠征 イスラーム教徒で宦官といわれる。1405年~1433年の間、7回の大航海を行う。
- 第1回 南京 → チャンパー → ジャワ島 → スマトラ島 → セイロン島 → b カリカット 到達
- 第4回 c ホルムズ をへてアフリカ東岸に到達しd モガディシュ 、e マリンディ などを訪問
- 第7回 分遣隊をf メッカ に派遣、各地の王に朝貢を促し、ムスリム商人と交易を行う。
→ 帰国後、明の外交政策はg 海禁政策 の強化に転じこの事業は忘れられる。
解説
永楽帝が鄭和を南海に派遣し、大航海を7度にわたって行わせたのは、軍事的な目的ではなく、多くの国に朝貢をうながすことが目的であった。その背景には、宋代・元代と続いた広域経済圏の存在がある。鄭和が常に2万人を超える乗組員を従えた大艦隊を率いて南シナ海からインド洋にかけて大航海を行ったことは、それから約90年後の1498年にヨーロッパ人で初めてインド洋を航行してカリカットに到達したポルトガルのヴァスコ=ダ=ガマ船団がわずか60人の乗組員しかいなかったことと比べ、当時の中国の文明がヨーロッパより優位に立っていたことを示している。
しかし、鄭和の大航海は、ヨーロッパの大航海時代のようなインパクトを世界に与えることはなく、ほぼ永楽帝一代の事業として終わり、その後の明は再び海禁政策に戻ってしまう。
用語リストへウ.明朝の朝貢世界
■ポイント 14~15世紀の明朝を中心に行われた朝貢貿易の広がりを知る。

マラッカから朝貢されたキリン
- 1429年a 中山王(尚巴志) によって統一される。
- 明との朝貢貿易 → b 東シナ海と南シナ海を結ぶ交易の要となり栄える。
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Bマラッカ王国 14世紀末、マレー半島の南西部に成立。(現在のマレーシア)- a 鄭和 の遠征を機に成長、インド洋と東南アジアを中継し栄える。
- 15世紀半ばに東南アジアで最初に本格的にb イスラーム化 。(4章3節)
→ ジャワのマジャパヒト王国に代わり東南アジア最大の貿易拠点となる。
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C朝鮮王朝 一般にa 李朝 という。- 明に朝貢し、b 科挙 の整備、c 朱子学 の導入を図る。儒教が広く浸透する。
- ▲科田法 を制定し大土地所有を制限。全国の土地調査を実施。荘園を没収。
Text p.181
- 15世紀前半 d 世宗 の時代 に最も安定する。
e 金属活字 による出版、f 訓民正音(ハングル) の制定など。
解説
独自の文字を持たず、漢字を使用していた朝鮮で、世宗は朝鮮語を書き表すことができ知識階級である両班だけではなく、一般庶民も用いることのできる簡便な文字を創案しようとした。世宗は学者を集め、自身も参画してその作成に当たり、1446年に「訓民正音」として公布した。この文字は母音11字、子音17字のあわせて28字(現在は24字)を組み合わせてあらわされる表音文字で、漢字を変形させたものではない、独自の工夫がなされている優れた文字であるが、当初は両班は依然として漢字・漢文を用い、訓民正音は女子が用いることが多かった。19世紀に民族意識が高まると共に、「偉大な文字」の意味のあるハングルと言われるようになり、広く普及した。
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D日本 a 室町幕府 の将軍b 足利義満 、1401年に明に朝貢し、日本国王に封ぜられる。- 1404年 c 日明貿易 を開始。d 勘合貿易 の形態をとる。e 倭寇 は禁圧される。
- 並行して朝鮮との貿易( 日朝貿易 )も行われる。
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Eベトナム(大越国) 1400年に胡朝が成立。1406年 a 永楽帝 の遠征軍に征服される。- 1418年 黎利が明軍を撃退し、大越国の独立を回復し、b 黎朝 を樹立。
→ その後は朝貢を続け、明朝の制度を学び、朱子学が盛んになる。
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Fモンゴル 1388年 北元、滅亡。東部のa タタール と西部のb オイラト に分かれる。- 諸部族が朝貢制度に不満をもち、しばしば中国に侵入。
- 15世紀中ごろb オイラト がc エセン=ハン のもとで強大となる。
- 1449年 d 土木の変 河北省の土木堡で明の 正統帝 を捕らえ、さらに北京を包囲。
→ 明、e 万里の長城 を修復してモンゴルの侵入に備える。
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用語リストへエ.朝貢体制の動揺
■ポイント 16世紀、アジアの明を中心とした朝貢世界はどのように変質したか。その背景は何か。
Text p.182
A大航海時代の影響 (第8章1節を参照)- 1492年 コロンブスの新大陸到達、1498年 ヴァスコ=ダ=ガマのカリカット到達。
- a ポルトガル のアジア進出始まる。1511年 b マラッカ王国 (イスラーム教国)を占領。
→ 東南アジアのc 香辛料 の輸出が増大 → 西欧諸国間の抗争・アジアの交易国家間の抗争が激化。 - スマトラのd アチェ王国 、ビルマのe タゥングー朝 などが明から離れて勢力拡大。
- ▲ジャワのf マタラム王国 とバンテン王国 、タイ(g シャム )のh アユタヤ朝 などが自立。
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B北虜南倭 16世紀の国際商業の繁栄 → 明の経済統制を打破しようとする動き強まる。- 意味:a 北方からのモンゴル人の侵攻と海岸での倭寇の被害が増大し明が苦慮したこと 。
- 北方:タタール部のダヤン=ハン 、モンゴルを再統一。
→ 次のb アルタン=ハン 1550年 長城を越え、北京を包囲する。さらにチベットを征服。
→ 中国人も長城の外に逃れ住み、中国風の城郭都市を造るようになる。例、フフホト。 - 南方:東南海岸でのc 倭寇(後期倭寇) の活発化。中国人中心の編成となり、密貿易と略奪を行う。
背景 室町幕府の弱体化。応仁の乱(1467~77年)以降、d 戦国時代 に入る。→ 勘合貿易の衰退。
→ 五島列島を拠点としたe 王直 が活躍。その船でポルトガル人が日本にf 鉄砲 を伝える。
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C銀 の流入。- 明、貿易の統制がゆるむ。 → モンゴルと講和して交易場を設け、さらにa 海禁 を緩和。
→ 明代の生産力の増加(次項)→ 海外貿易の増大 → 通貨の不足 → C 銀 の需要増加。 - 15世紀以降 石見銀山などのb 日本銀 が丁銀(ちょうぎん)の形で大量に輸入される。
- 1557年 ポルトガルがc マカオ を居留地とする。
- 1571年 スペインがd マニラ を拠点に中国貿易に進出。 → 太平洋をまたいだガレオン貿易を開始。
- 16世紀後半 スペイン植民地、メキシコやポトシ銀山のC 銀 がe スペイン銀貨 として流入。
- f 中国商人 が、東南アジア各地に進出。
- 意義:g 16世紀にヨーロッパ・アジア・アメリカ新大陸をむすぶ交易網が形成され世界の一体化が始まった。
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