2004 明大 法
【問】次の文章を読み、下記の問いに答えなさい。
道教は、( 1 )・仏教とともに中国の三大宗教の一つに数えられる。道教は多神教であり、その教理の原型は、不老長生および仙人になることを願う神仙思想と、『老子』『荘子』などの無為自然を目的とする道家思想である。さらに時代によって、その中に五行思想・占い・医術等が流入し、( 1 )・仏教の倫理や形式とも融合して、現在見られるような道教ができ上がった。
その歴史は、伝説的には神話時代の黄帝を開祖とし、老子が教義を述べ、後漢の張陵が教団を組織したと言われているが、文献によれば、(ア)後漢の太平道と( 2 )(天師道)から始まると考えられる。北魏の( 3 )は、( 2 )を継承し改革して新天師道とし、(イ).初めて国教にすえた。天師道の流れは、(ウ).元代以降正一教と呼ばれている。
北宋末には、いわゆる新道教が台頭する。とりわけ( 4 )を開祖とする全真教は大いに発展し、前に述べた正一教とともに道教界を二分する勢力となった。
道教経典は仏典と体裁が似ており、(エ).
その集大成されたものを道蔵と呼ぶ。多神教の道教では、老子を神格化した太上老君、宇宙の道を神格化した太上道君、さらに黄帝の変身である玉皇大帝や呂祖・媽祖等が礼拝の対象となった。
仏教の僧に当たる者を真人(または道士)、尼を女冠、祭祀の建物を廟(または宮、楼)、道士の居所を( 5 )と呼ぶ。
中国三大宗教の中、とりわけ道教は迷信として、新中国建設の過程で(オ)批判の対象とされ、多くの道教施設が閉鎖、破壊された。しかし文化大革命後にまた活動を再開し、中国の民衆の中におけるその信仰の根強さを示している。
- 問1
- 文中の空欄1~5のそれぞれにもっとも適切と思われる語句を記入しなさい。
- 問2
- 文中の下線部(ア)~(オ)に関して、下記の問(ア)~(オ)に答えなさい。
- (ア)
- 太平道の教祖によって指導された貧窮農民を主力とする大反乱を何というか。
- (イ〉
- 5世紀半ば新天師道は北魏の国教とされ、時の皇帝をして廃仏を断行させた。この皇帝は誰か。
- (ウ)
- この正一教の教団の本拠があった江南の竜虎山は、現在のどこの省にあるか。
- (エ)
- 道蔵のモデルとなった仏教経典の集大成を何というか。
- (オ)
- 1927年に湖南省の5県を視察し、その状況を「湖南農民運動視察報告書」にとりまとめ、農民を縛る3本の綱(女性の場合、夫権が加わり4本となる)の一つに神権(迷信)を数え上げた湖南省出身の革命指導者は誰か。
- 解 答
問1
問1 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 |
儒教 | 五斗米道 | 寇謙之 | 王重陽 | 道観 | |
問2 | ア | イ | ウ | エ | オ |
黄巾の乱 | 太武帝 | 江西省 | 大蔵経 | 毛沢東 |
解 説:
問1.五斗米道(ごとべいどう)は、通説では後漢末に張陵(張道陵とも)が、蜀(四川省)の成都近郊の鶴鳴山(あるいは鵠鳴山とも、現在の大邑県)で起こした道教教団。2代目の張衡の死後、蜀では巴郡巫県の人である張脩(張修)の鬼道教団が活発化した、益州牧劉焉の命で、3代目の張魯とともに漢中太守蘇固を攻め滅ぼしたが、後に張魯が張脩を殺害してそれを乗っ取り、漢中で勢力を固めた。 調理用米。
3.寇 謙之(こう けんし365年 - 448年)は、中国・南北朝時代(北魏)の道士。新天師道の創始者。道教を体系化し、教義・教典・儀礼を定めた。上谷郡昌平県(現在の北京市昌平区)の出身。北魏の河南公・寇讃の弟。後漢の雲台二十八将の一人である雍奴威侯・寇恂の末裔を称した。寇 謙之-新天師道(尻取り)。
5.道観(どうかん)とは、道教教団において、出家した道士が集住し、その教義を実践し、なおかつ祭醮を執行する施設である。道教寺院。道教宮観の略。宮観(きゅうかん、拼音: ゴォングアン)とも呼ばれる。
それ以外は、いずれも順当な設問。高校の授業では道教については簡単に触れられるだけか、全く触れられないので、入試では穴になりがち。実際にこのような問題が出てくるので、この程度は抑えておこう。
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