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寧波の乱

2018-09-13 | Weblog

 1523年(大永3〈寧波の乱〉

Ningbo Turmoil: Envoys of the Hosokawa and the Ōuchi clash in Ningbo, over right to tally trade with Ming-dynasty.

以後罪(つみ)負うは 寧波(ニンポー)さ。

           1523年 大内氏=博多 寧波の乱 細川氏 堺 

 

大内氏と結ぶ博多商人と細川氏と結ぶ商人の勘合船が日明貿易港として開かれた寧波で衝突。そのため貿易は一時中断したが、その後大内氏が貿易を独占し、16世紀後半の大内氏の滅亡まで続いた。



[ポイント]

1.寧波の乱(1523年)以降、博多商人と結ぶ大内氏勘合貿易の覇権を握る。

[解説]

1.寧波の乱1523)で博多商人と結ぶ大内氏堺商人と結ぶ細川氏をやぶり、貿易の覇権をにぎった。1551年大内義隆の滅亡で、貿易は廃絶した。

2.これらの経緯は→〈2013学習院大学・経済〉
 
〈2016早大・国際教養

問5 下線部d博多に関連する説明として、誤っているものはどれか。1つ選び、マーク解答用紙の該当記号をマークせよ。

 ア 1274年のモンゴル襲来に際して、元軍が上陸した。

 イ 寧波の乱の後、この地の商人と結んだ大内氏が日明貿易を独占した。
 ウ 南宋からの貿易船が入港した。
 エ この地の商人の肥富が日明貿易船の副使として明へ渡った。
 オ 足利義満によりこの地に九州探題が設置された。

(答:オ ※設置は1336年、足利尊氏の代。歴代のなかでは、義満により任命され、九州平定に成功した今川貞世(了俊)が著名)

〈2013学習院大学・経済

 元代までの中国王朝は、民間の貿易利益を国家が吸い上げることを目的として貿易統制を行った。貿易の発展は民間の取引を前提とするものだった。これに対して、明政府は倭寇対策のため自国の商人が海外へ進出することを禁じ、朝貢国からの商品買い上げを国家が独占する政策をとった。取引総額は政府財政の余力によって制約される形であった。いっぼう、倭人通交者を優遇する朝鮮政府の政策は、国家財政を直接的に消耗するものであった。このため、15世紀半ば以降、明・朝鮮の国家財政が悪化してゆくとともに、交易の発展が阻害されるようになった。

 1432年、将軍(17)〔イ足利義尚 ロ足利義政 ハ足利義勝 ニ足利義量 ホ足利義教〕が日明貿易を再開した。明政府は前年に琉球王を介して日本の朝貢を求めていたので、取引条件は日本側に有利だった。ところが、1453年の日明貿易では、明政府が買い上げ単価を著しく低数に査定したため、持ち込み貨物量が大幅に増加しているにも関わらず、買い上げ総額は大幅に圧縮されてしまった。日本側は商品単価の見直しを嘆願したが。朝貢の義理を盾にとった明側はこれを認めなかった。明に軍馬を供給していたモンゴル(オイラート部)でも買収単価の引き下げに起因する紛争が起こっている。こちらでは戦争に発展し、1449年に明皇帝が敗れて捕虜となる土木の変に展開した。買収価額の引き下げは、明政府の財政悪化という共通する問題に起因していた。


 1523年4月、堺の商人と結ぶ細川氏の遣明使節が、博多の商人と結ぶ大内氏の遣明使節に対して数日遅れで中国の(18)〔イ碧蹄館 ロ三浦 ハ漢城 ニ寧波 ホ天津〕に到着した。細川方の通訳だった明人の宋素卿は、中匡澗官吏に賄賂を贈って細川方の買い上げ順序を大内方よりも前に入れさせた。順序が後であると、取引条件が悪くなるからである。怒った大内氏の使節たちが武力に訴えて細川方の正使を殺害し、宋素卿を追って市街・沿道で放火狼藉に及んだ。(18)の乱と呼ばれる事件である。このように、取引に関わる者のなかに賄賂や不正がはびこるようになったことが、やがて後期倭冦へと展開する。後期倭寇の主体が中国人であったのは、私的な交易を禁止して明政府が貿易を独占する体制が明人の商人・海民との間に利害対立を引き起こし、密貿易を促したからである。

(答:17ホ、18ニ)〉


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