ないちょの雑記帳

日々心に浮かぶこと、世の中のことをそこはかとなく書き綴ってます

学会批判サイトが閉鎖しているような昨今・・・・・・。

2006-07-20 | 創価学会関連
最近、小生が時折訪れる学会批判サイトが閉鎖していることがある。
この前りしゅさんが管理人の「毒デムパ反射装置」が閉鎖する旨の書き込みがあった。りしゅさんによると「このブログをはじめてから、頻繁に私のところに、学会の男子部の幹部やら、支部長クラスの人が来て、いろいろとネットのことを聞いてきたり、会合を誘ってきたりと、今まであったのとは明らかに違うような異常な接触が頻発してます。」とのことで身の危険を感じ、閉鎖を決断したとの事です。

どうやらりしゅさんの個人情報が学会関係者に流れたらしく、そこからりしゅさんへ様々な働きかけへつながった模様です。もしこれが事実ならば由々しき自体といえるだろう。それはプロバイダーの個人情報管理が杜撰であることの証明であり、学会関係者へ流れる裏ルートのようなものの存在を勘繰らざるを得ません。どちらにせよ確証がないので断定できませんが、いろいろよからぬ策動があるようです。事実関係について、正確に把握しているわけではないので軽々にコメントすべきではないのですが、どうも気になったので新しい記事を挙げました。

毒デムパ反射装置←りしゅさんのサイト(近日中に閉鎖の予定)

  日記@BlogRanking にほんブログ村 ニュースブログへ←怪しげと思う方はクリックよろしくお願いします。

創価学会員に関して思うこと

2005-12-11 | 創価学会関連
最近、創価学会員について考えることが多い。
"学会員"とはいったい何者なのかということについて。
世間的には、迷惑なほど聖教新聞などの勧誘を行い、公明党候補への投票をお願いする人たちという認識が広がっていると思う。

学会員たちは法華経にある"正法"を広める"地湧の菩薩"と自分たちのことを信じ、自分たちの行いが唯一絶対、正しいものと信じている。
その情熱は一体どこからくるのであろうか?

学会員のうち、法華経にある"正法"について具体的なことを語れる学会員はほとんどいない。学会流の法華経信仰を"正法信仰"と学会員が実感するのは、願い事がかなったという体験からである。そのような体験から"正しい"と認識することがほとんどである。

そのような体験からくる確信は一見正しいように思われる。しかし、ちょっと考えてみる必要がある。成功体験があるからといってそれが絶対正しいと言うことはできない。そのように断言するためには、常にその方法であれば成功するという確証がなければならない。しかしながら、成功しなかった場合には、"信心が足りなかった"とか、"お題目を唱えたりなかった"など、およそ成功のための方法論とは関係のない理由で、正当化されることが多い。その過程で布教などの活動に忙殺され、精神的に追い込まれ、心を病む学会員があとを絶たないという(参考:病める学会員ーその2。病気の正体 「時計の針の 巻き戻し」)
このように熱心に信仰したうえで心を病むのでは、なんのための信仰なのかわからなくなる。

そのような自己欺瞞にうすうす気付きながらも、学会内の人間関係を重視するため、自ら疑問を封印する学会員もいる。

そのことから考えると学会員が一番大事としているものは熱心な信仰の結果、自分の幸せを確立することではなく、学会員同士の人間関係とその関係の中で築かれたファンタジーを守ることにあるように思える。

以上のことから考えると学会員が熱心に学会活動を行う理由は、活動によって充実感を得られるという理由だけでなく、明確な言葉では語られることはないが学会活動に学会員を追い込む、見えない強制力があるからでないのだろうか?

このように言えば、間違いなく熱心な学会員からそんなことはないと反論もあるだろう。たしかに、学会の活動を通して充実感を感じ、自分が組織に必要とされている実感も持つこともあると思う。それは否定しない。

しかし、問題なのはその充足感を感じた体験だけが正しいとはいえないということを学会員(特に熱心な学会員)が認めないということである。

聖教新聞を見れば、毎日のように学会の正当性を謳い、何の問題ないような記事が並ぶ。そのような状況の裏で心を病み、活動につぶされていく学会員がいることを忘れてはならない。

←学会員に思うところのある人はクリック!

座談会において考えた~不良学会員の告白~

2005-11-18 | 創価学会関連
本日、小生が住んでいる地区の座談会があった。
小生は一応学会員ではあるが、学会のあり方や政治へのかかわり等、それほど学会という組織をそれほど信用していないのである。

その小生が、月に一度程ある座談会に参加した。
その座談会に参加している学会員は純朴な人ばかりであり、それほど悪い印象をもっていない。しかしながら、学会組織および学会からの情報について疑念を持っている小生はいつも複雑な心境になる。

この状態は学会に対する疑念が解消しない限り、おそらく解消しないであろう。
それでも、小生は疑念を学会に持ち続けるだろう。
学会が真に本当のことを語り始めない限り・・・・・・。

←学会についていろいろ思うところのある人は1クリック!



沖縄における創価学会

2005-10-15 | 創価学会関連
例のごとくネットをぶらついていると、沖縄における
創価学会の歴史について、解説しているブログがあっ
た。
羊蹄学園大学社会学部講義集
である。

沖縄における創価学会組織の広がりについて詳細に
解説している。
詳細はそのブログを参照してもらいたい。

-------------------------引用------------------------

(略)

まぁそうですね…思えば、政教分離をここでは問う気はないものの、この政教分離とともに、創価学会は宗教団体としての組織の閉鎖性を問題視されることが多いとされています。
この県知事選挙もまた然りです。
組織でどういう力がはたらいて、「基軸」などというわかりにくい方針をとり、そして票集めをしたのかまったく見えてきません。
否、その前に末端の学会員、党員が見えてきません。
「基軸」などという曖昧模糊な言葉に、疑問を感じなかったのでしょうか。

だけれど、重ねて言いますがそういった末端の人間の顔は見えないし、声は聞こえてきません。

安見が創価学会を沖縄に広め始めたときを紐解けば、安見をはじめとする信仰に思い巡らす人間の様が外部にも知れ渡っています。
生活の苦しさの中で、村八分とされる覚悟で入信するのは二重の苦しみでありました。
だがその苦しみの中で生きた人々が、沖縄にある種の地殻変動をもたらせた。記録に残らないわけがないのです。

ところが今では…そういった末端の学会員の姿は、せいぜい学会内の機関紙で語られる程度です。
組織内で収められているだけなのです。
個々人の姿や個性が組織の中で埋没し、外部に見えてこないのです。
昨今のそうした創価学会・公明党の特徴が、この県知事選挙で如実に現れたのではないのでしょうか。

そして…2005年9月11日、自民党圧勝、民主党激減と言う総選挙の結果の中で、連立の一翼を担う公明党は2議席減となりました。
2議席減のうち1議席は小選挙区沖縄1区の現職、白保台一氏の落選によるものです。
勝ったのは元職で無所属、民主党推薦の下地幹郎氏。

下地氏はもともと自民党の議員でしたが、党本部が公明党との連立を重視した結果、前回の選挙では公認をはずされ落選、公明党の白保氏の当選を許しますが、自民党を離党した今回は地道な運動で当選を勝ち得ることに相成りました。
私は下地氏の復活は、田中角栄→竹下登→野中広務→鈴木宗男→下地氏という系譜である以上、他の政治家にはない、他を圧倒的にしのぐ利益誘導を軸にした情念と、その情念が自民党にくっついた、この数年のいびつな沖縄の公明党の有り様にどこか県民が疑問や反感を掘り起こしたことで、予想外の当選と言う結果をもたらしたと私はとらえています。

しかし、やはり重ねて言いますが沖縄の創価学会は一粒種によって、辛苦の末に華開いた歴史がある、これも事実です。
この歴史に学び、今一度、ともすれば県内政治情勢すら左右するこの組織に座する人々に対し、組織とうまく距離をとって意志・表現・行動を見せてほしいと思うのは、私だけでしょうか。
それがあるべき姿なのでは、と思うのです。
組織としても人としても。

今のままでは属する人間の顔が見えてきません。

(略)

喜茂具理佐の沖縄論第17回~創価学会の沖縄席捲(6)~

----------------------引用終わり----------------------

沖縄での事例でもあるとおり、初期の学会は周囲の差別や
偏見と戦いながら、次第に組織を拡大していった。
そして、沖縄でも本土同様に政界へ進出していった。
当初、沖縄の公明党・創価学会は知事選挙では革新系の候
補を推していた。
しかし、1998年の知事選挙では革新系の太田氏ではなく、
自民党の推す稲嶺氏を推した。

このとき公明党は以下のような対応をした。

-------------------------引用------------------------

(略)

ところが、この選挙では公明党は「大田支持」を表明せず、かわりに「大田支持を基軸に一部党内事情に配慮し、その部分については自主判断にゆだねる」という曖昧なものに変容しました。”

(略)

----------------------引用終わり----------------------

おそらくこれは公明党と自民党の連立に配慮したものである
と考えられる。事実、この翌年から自公連立政権が成立し、
現在に至っている。
ただこの過程において、紹介しているブログの管理人が指摘
しているように組織の論理が優先し、個人の顔が見えなくな
っていった。
このことは、個人的な見解であるが全国的にあると思う。
つまりは組織の論理が優先し、”個人の顔”が見えなくなると
いうことは沖縄に限ったことではなく創価学会全体に言えるこ
とではないのだろうか。

公明党と創価学会の関係は政教分離の原則に抵触するので
はという批判は以前から言われてきた。
政教分離の原則に抵触するかどうかは微妙な問題であるが、
政権連立与党の枠組み維持という組織の論理が優先し、支
持する学会員の意思が埋没していく現在の公明党と創価学
会との関係が、政党と支持政党のあり方として健全なものと
していいのかどうか考える必要がある。

もう一度、学会員は公明党支持について疑問を持ち、いった
い何を支持しているのか自問する必要がある。

←まさにそのとおりと思うなら、1クリック!

創価学会に思う(その伍)

2005-07-11 | 創価学会関連
面白い視点で創価学会について話題にしているブログがあったのでちょっと紹介。

三四郎日記

ブログの主はどうやら共産党支持者のようで、記事の元ネタが赤旗からのものが
ちらほら観られる。

それはさておき、そのブログにはこうあった。

-----------------------------------------------------------------------------
(前略)

その、創価学会=公明党が、共産党に対して「宗教みたいだね」といっていたのである。

これは、自らの宗教的価値の否定と言わざるをえない。共産党が悪い意味で「宗教みたい」なのは、われわれ共産党支持者でもしばしば思うことであるが、だからといって「宗教」が悪いわけではない。自らの頭で、自らの言葉で語っているようには見えないという点で「宗教みたい」というのならわかる。しかし、宗教自身が「宗教」をそのようなものと自己規定するというのは、自らの価値を貶める行為に他ならない。そういう点で、創価学会は他の宗教とは異なる。やはりカルトと言うべきであろう。

-----------------------------------------------------------------------------

この記事は聖教新聞に書かれた記事を基に批判を展開しているのだが、このよ
うな視点での論説というのは、小生が知っている中では初めてである。

共産党支持者の批判というものは侮れないものがあると思う。


ちょっと感動したカキコをみつけました

2005-06-19 | 創価学会関連
ちょっといい書き込みを見つけたので・・・。
小生がちょこちょこ訪れているブログで見つけました。
アタシの知ってる「創価学会」 にあるコメントです。

「考えない事こそ怠惰 (無冠) 2005-06-19 13:58:06」

を一度読んでみてください。
創価学会問題に悩む人間にとって非常に感銘を受ける
文章です。

あえて、引用はしません。

一度、読んでそして、考えてください。

人気blogランキングへ

創価学会の信教の自由って・・・・・。

2005-05-15 | 創価学会関連
聖教新聞に公明党議員は自分の子供にしっかり信心させなければ
いけないというような記事が載っていた。

はて?

何故公明党議員の子供は創価学会の教えを信じなければならない
のでしょうか?
子供の信教の自由って、どうなるのでしょう?

それに学会員は日蓮の教え以外を否定する。
にもかかわらず、大先生は世界の宗教指導者と会い、共存するこ
とを話し合う。

日蓮の教えに忠実になればおのずと信教の自由に抵触し、信教の
自由を認めれば、日蓮の教えを捨てることになりかねない。

今、学会の教えは少しずつではあるが混乱し、統一性をなくしつ
つある。
それでもこの教団は創立以来、徹頭徹尾統一された教えを守り続
けていると主張するのだろうか?



学会をダイエットにたとえて考えてみる

2005-02-22 | 創価学会関連
最近学会についてふつふつと考えている。
今考えていることをダイエットにたとえて述べてみたいと思う。
学会流ダイエット術は”食うな、運動せよ”これに尽きる。
太るという現象はごく簡単に言えば、取り込むエネルギーに対し
消費するエネルギーが少ないことによって起こる。
その意味で考えると、学会流は正しい。
しかし、よくよく考えてみると少し違和感を覚えないだろうか?

太るという現象は先に述べたとおりなのだが、人にはたくさん食
べても、太らない人も居れば、その逆の場合もある。
このことから考えると、学会流ダイエット術はあまりにも単純化
して、個々の差異を無視していることが判る。
学会流は大まかに観ると正しそうに見える。
しかし、細部を観るとかなり現実離れした考えになってしまい、
初期の”ダイエット”からずれてしまっている。
そんなところに学会員は気付かないのだろうか?

ファイナルファンタジーXと学会

2005-01-07 | 創価学会関連
最近、ファイナルファンタジーX(以下、FFX)をやり始めた。
FFXで遊んでいて、ふと思ったことがある。
FFXの世界で”エボンの教え”というものがでてくる。
その教えはFFX世界(以下、スピラ)では絶対的なもので、その
教えを盲目的に信じている。
その教えとは、スピラに災厄と死と破壊をもたらす”シン”は
過去人が機械に頼り、驕りたかぶった人の罪の象徴であり、人
の罪が贖罪されるまで、”シン”による破壊と災厄は終わらな
い。それ故、人は機械を捨て、日々祈りをささげ、贖罪に勤め
なければならない。それがスピラにおける絶対の秩序となって
いる。
その教えの中で、ひとの罪とは具体的に何なのか、贖罪がいつ
終わるのかなど重要なところであいまいなところが多く、もう
ひとつ合点のいかない教えとなっている。
そのような教えの話を聞いて、学会との類似点に気付かないだ
ろうか?
どちらも、明確な根拠は無く妄信するところなどそっくりでは
ないのだろうか?
ゲーム中、登場人物が言うセリフで特に気に入ったものがある。

”教えだからと何にも考えなかったら、このままだよ”

教えに従い何の疑問を持たず生きること、それは変化を排除し、
何が問題かを根本から考えずにすむ免罪符を手に入れようとす
る行為に他ならない。
何が問題かを根本から考え直し日々生きること、それはきわめ
て大きな苦痛をともなう生き方である。しかし、少しずつでも
自らの生活を変化させ、問題の根本を改めていくことが自らを
ごまかさず生きていく方法になるのではないのだろうか?
学会員にはどうも”教え”に従っている満足感がこの世界の問
題を解決する唯一の解答だと思い込んでいるフシがある。
それにもかかわらず現実の問題には関わらず、内輪の論理で、
さも問題解決に奔走していると思い込んでいる学会員の姿が滑
稽に見えるのは小生だけだろうか?