ないちょの雑記帳

日々心に浮かぶこと、世の中のことをそこはかとなく書き綴ってます

みんな政治に関心を持とう

2004-10-31 | 政治
最近、国政選挙の投票率が6割をきる状態が続いている。
投票率が下がれば下がるほど、しっかりとした組織票をもつ政党が有利になり、
特定の団体の意見が特に強く反映されることになる。
特に公明党は創価学会という巨大集票装置があるため、有利になる。
与党である公明党が実際何を実現しようとしているのか明らかでないため、
日本も迷走している。
学会員は基本的に無批判に公明党を支持する。
つまりは低投票率下では、いつまでも公明党が政権与党であり続ける。
本当にそれでいいのだろうか?
もっと投票に行く人が増えれば、日本の政治は確実に変わる。
3年後には衆院選挙がある。
もっと投票率が上がることを期待する。


信仰はある意味、”ノリ”である

2004-10-29 | 創価学会関連
信仰はある意味”ノリ”であると思う。
その”ノリ”に波長の合う人はその信仰にあう人(あるいはハマる人)で、
波長の合わない人はその信仰にハマることはないだろう。
それゆえ、ある人にとって「この信仰がただしいいんだ」ということが、
あるひとには全くそうは思われないことがある。
信仰の自由とはそのような多様性を許容し、共存することなのではないのだろうか。
しかしある信仰をもつということは、ある一定の価値観を持つということであり、
自分が信仰しているその信仰以外の信仰を価値のないものと判断しやすい。
このような排他的な傾向は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教に多い。
仏教は比較的他の信仰を許容するが、日蓮宗系の信仰は排他的であり、
他の信仰を認めない傾向がある。
それゆえ、自分たちの”信仰”という価値体系の外にあるその他の信仰を
排撃するのである。
信仰の正しさをその信仰内の価値観で証明することは循環論になり不可能なのだが、
そのことに気付き、客観的に信仰を眺める作業をする人は少ない。
創価学会という価値体系を創価学会内の論理で正当化することはできても、
証明することはできない。
そこに気付く学会員は一体何人いるのだろうか。
また、気付いた学会員は創価の教えに疑問を持ち、場合によっては
脱会するということになるのだろう。
理屈ではなく、”ノレる”か”ノレない”か。
たったこれだけの違いを理解し、許容する人は多くない。
それゆえ多くの人を悩まし、様々な困難、不幸をもたらしてきたのである。

あなたは創価の”ノリ”にのりますかそれとものりませんか?

この言葉を冷静に受け取れる学会員が増えることを望まずにはいられない。

情報を発信し続けることは大変だ。

2004-10-28 | その他
インターネットだけでなく他の媒体でも、常に何がしかの情報を発信続けることは
かなりの努力を要する。
何か情報を発信するためには、自分で情報を集め、常に情報を集め続け、自分
自身に入力し続けなければならない。しかも発信する情報量より自分自身に入力
する情報が多くなければ継続的な発信は難しいと小生は考えている。また、情報
を受け取る側への配慮も必要である。自分の発信したい情報をどのように伝え、誰
に発信するのかによって、発信の仕方をいろいろ試行錯誤する必要がある。小生
もできるだけ情報を発信し続けるため、可能な限り情報収集に勤しんでいる。
また、発信の方法もいろいろ考えなければならない。文章を書くにしても、あまり長
文でだらだら書くと読み手に忍耐力を要求することになるし、いいたいこととも伝わ
りづらい。
如何にコンパクトに文章をまとめ、言いたい事を表現するか常に考えなければなら
ない。しかしあまり短いと発信した情報の背景がわからず、言いっ放しで終わって
しまう。
小生もまだそのさじ加減については修行中の身であり、必ずしも上記のことを実行
できているとはいえない。それでも、発信し続ける中で少しずつ改良を加えていこ
うと考えている。

生き続けること

2004-10-26 | その他
生き続けること・・・・。
ただひたすら生き続けること、それが生きることではないのだろうか?
生き続けようとする意思。それが力になる。
人は誰も毎日、いつ来るかわからない死の瞬間に向かって生きている。
如何に死んでいくのか、それが生きることの答えになる。
パンドラの箱から最後に出てきた”希望”を見つけること、それが生き
る力になる。
生き続けよ。
ただひたすら生き続けろ。
愚直に、みっともなく生き続けろ。
その中に生きる意味はある

学会・公明党批判を続けることとは

2004-10-26 | その他
小生にとって学会・公明党を批判することは自分自身への枷(かせ)のようなものである。

実際、学会員として他の学会員と接すると非常にいい人が多い。公明党に関しても、元々

が学会員がほとんどで、ひとなつっこい人が多い。そのため、常に小生はジレンマに悩ま

されることになる。学会のおかしなところや公明党の政策の変なところを「そういうものだ」

と見てみないふりもできる。しかし、なぜ一人一人はいい人なのに集団となると、おかしな

ことになるのか解らない。なぜ脱会者があとをたたないのかわからない。おかしいと思うこ

とをおかしいとおもうこととそれを指摘するときの他の学会員への後ろめたさを同時に抱え

てしまう。どちらかに完全に徹することができれば、精神的には楽になれるがどっちに転ん

でも、何がしかの罪悪感に悩まされる。その作業は精神的にまいる過酷な作業の繰り返し

である。それでも、つらくても続けなければ自分自身のアイデンティティを失ってしまう。た

だひたすら学会・公明党批判をするようになれば、個々の学会員・公明党員を見てみぬふ

りをしなければならない。学会・公明党のおかしいと思うことを批判しなければ自分の中に

矛盾が生じてしまう。だから、学会・公明党批判を続けるそのなかで否定でもない、肯定

でもない第三の選択支を見つけ出す以外にない。その道ははるか遠く茨の道である。

公明党政治の危うさ

2004-10-24 | 政治
現在政権与党は実質、公明党と呼んで差し支えない。その公明党が行う政治には
次のような問題がある。

その1:低投票率下における学会票の占める割合の高さ
その2:ばら撒き型福祉による国家財政の更なる悪化

その1は国民全員に責任のあることであるが、非学会員は投票にあまり行かないが、
学会員はほとんど投票に行く。そのため投票された票に占める学会票の割合が高く
なり、ごく一部であるはずの学会員の意向が反映され、その他多数の人々の意見意
向は反映されにくくなるということである。
その2は元々日蓮仏教を国教化し政治を行う目的で結成された公明党が70年代の藤
原弘達氏の著書の出版妨害事件以降、政教分離を明確化するため、宗教色を一切な
くし国民福祉の充実を図る政党となった。しかし、現在のところ従来のばら撒き型の福
祉政治であり、それにより国家財政の悪化が考えられる。基本的にばら撒き型福祉は
軍備と同様、経済的には再生産がない。そのため税金を投入しても税収が増えない。

以上が公明党政治の問題点である。

創価学会の教えに功徳も仏罰もない

2004-10-23 | 創価学会関連
創価学会の教えを信仰する上で、功徳や仏罰という話が出てくる。
学会員をやっていると、”選挙活動したから功徳をつんだ”とか、
”財務をしたから功徳をつんだ”という話をよく耳にする。
また、日蓮正宗に不幸や裁判で敗訴になると”仏罰があたった”
という人もいる。
小生の体験からすれば、選挙活動したからといって何の”功徳”
もないし、財務で学会に”財務”したからといって、正しい供養
をしたとはいえない。また、日蓮正宗が敗訴や不幸があったから
といって、仏罰が当たったともいえない。
選挙活動で得られるものというのは何かをやったという達成感で
あって、それは功徳ではない。日蓮正宗が裁判で負けたからとい
って、それが即、日蓮正宗が悪であると断罪されたわけでもない。
基本的に小生は仏教を信仰する上で、功徳も仏罰もないと考えて
いる。法華経を読むと功徳や仏罰について強調されているが、そ
れは”正しい教え”に導くための方便だと考えている。
仏教で目指すべき境地とは、ここの平安をいかに保つかであり、
功徳や仏罰はそれをわかりやすく説明するために使われた方便だ
と考えている。
それ故に、創価学会が功徳を強調し、学会員を選挙活動に駆り立
てたり、財務しなさいと指導することはおかしいのではないのだ
ろうか?
釈尊はあくまでこの世は無常であり、その移り変わりで一喜一憂
することはないということを悟ったのではないかと思う。そして、
日々の生活に専念することが大事だということを言いたかったの
ではないかと小生は勝手に思っている。
選挙活動で奔走し、聖教新聞を配りまくり、財務に血道をあげる
より、この世の無常を思いながらも、日々の生活をひとつひとつ
きちんとすることのほうが、どれだけ世の中をよくするかわから
ない。
そのきちんとした生活一つ一つが仏道であり、修行であるとする
のは間違いであろうか?

たたりがあるとは(その弐)

2004-10-22 | 環境問題
たたりとは一般に霊的なものが現世の人間に悪影響を与えることを指す。
前回人間活動の影響が自然に悪影響を与え、その結果人間に害を与えることを「祟り」とした。それは自然の仕組みは人間にはっきり見えないことが多い。そのため、人間活動の影響がどういう仕組みで影響しているのかわからないけれど、因果関係があるように見えることを「祟り」と呼ぶことがある。昔の人が自然を蔑ろにするような行為をすると「祟り」があるといったのは、仕組みは判らないが人間活動の反作用として起きたことを指す。
神道では「祟り」について話題にすることが多いが、上記の考えた方が神道の根底にあるからであろう。小生の独断と偏見ではあるが神道は日本人的な感覚で体系付けられた「エコロジー(生態学)」なのではないかと思う。もう一度神道的な感覚を見直し、取り戻すことで自然との関係を再構築することが必要なのではないのだろうか

たたりがあるとは

2004-10-20 | 環境問題
日本では昔、水神様や山神様を祭る習慣があった。恵みに感謝すると共にその脅威から
逃れるために祭る習慣があった。
今はそういう習慣はほとんど廃れてしまった。異常気象が続く昨今、もう一度そんな習慣
考え方を見直してみるのはどうだろうか?
異常気象の遠因に人間活動の影響があるのならばまさにたたられているといってもよい。
もう一度、そんな考え方を見直してみるのはこれからの環境問題を考える上で、新しい視
点を与えてくれるのではないだろうか?
もう一度、自然と共に生きていくために・・・。

創価学会と日蓮正宗との確執

2004-10-20 | 創価学会関連
ご存知の方も多いと思うが、創価学会と日蓮正宗は険悪な仲になっている。
その原因は下記のURLを参照してもらいたい

URL:http://www.uranus.dti.ne.jp/~yuugeki/nitiren-kiso.html

遊撃インターネットというサイトでいわゆるアングラな文章をあつめたサイトの中にある
創価学会と日蓮正宗と確執を第三者の目で書いた文章である。
サイト自身は危ないネタだらけではあるが、上記の文章は創価学会と日蓮正宗との関
係を客観的に記述してある。
上記の文章を読んでもらえばわかるが創価学会と日蓮正宗のと確執の原因は単に主
導権争いの結果であることがわかる。教義上の問題で袂を分かった形になっているが
端的にいってそれだけのことである。
両者ともたいそうな非難の応酬をしているが、簡単にいえば”陣取り合戦”なのである。
興味のある方、または初心者には一読の価値のある文章である。