ないちょの雑記帳

日々心に浮かぶこと、世の中のことをそこはかとなく書き綴ってます

仏法は勝負では無い

2004-12-30 | 創価学会関連
学会員は御所に基づき「仏法は勝負」と信じて止まない。
しかし、法華経常不軽菩薩品第20には、そのようなことは
書かれていない。むしろ、迫害を受けた場合は戦わず、「
逃げよ」とかかれている。そのことについて的に考えて居
る学会員のなんと少ないことか。
学会員はある特徴があって、御所に根拠と解釈できる文言
があれば、それ以上考えようとしない。たとえ他の経典に
矛盾する内容がかかれていようともそのことと含めて、教
義について一切考えようにとしない。
実際、精神的には楽では在るが、それだけのことで現実の
問題は何にひとつ解決しない。そのことにはほっかむりを
して、まるで問題が存在しないかのごとく、振舞う学会員
のなんと多いことか。そんな現状で、学会の自浄作用は全
くといって期待できないであろう。
学会員が学会組織の閉鎖性に目を向け、情報公開にむけた
動きをするようになってほしいものである。
決して仏法は勝負ではない。勝負にこだわるあまり、本質
から目をそむけ、体裁を整えることに奔走してはならない。
本当に必要なのは勝負に勝つことではなく、如何に自らの
魂の開放を行うかである。それは勝ち負けで決まることで
はない。

創価学会~その親切さとやさしさの向こう側~

2004-12-19 | 創価学会関連
創価学会の末端信徒は大体において、他人に親切でやさしい。
それは間違いないと思う。
しかし、その向こう側にあるのは一体なんだろう?
本当に単なる親切心ややさしさだけが理由なのだろうか?
創価学会の場合、常に”広宣流布”という一連の布教活動が
付いて回る。学会員の行動原理は単純でその一言に尽きる。
そのような動機で、他人に親切するということは何か一縷の
いやらしさを感じるのは小生だけだろうか?
当の学会員はそんなことは微塵も感じないだろう。
自らの行動の正当性を全く信じ込んでおり、小生からすると
思考停止に陥ったとしか見えない。
それはその本人だけでとどまるのであれば、なにも問題ない。
ただし、布教という目的を隠し、他人に関わるのであれば、
それは問題がある。
その問題とは、本当に相手のことを思って親切にするのでは
なく、結局は自己の”布教”を第一の目的としているため、
相手のことをみていない可能性があり、自己満足の域を出な
いということである。
自分の目的を達成するために、親切さの衣をまとう事は本当
に親切とはいえないと思う。
そのような欺瞞に気付こうとしない学会員は何か考える必要
があるのではないのだろうか?

学会員は命がきれい汚いというけれど・・・・・。

2004-12-08 | 創価学会関連
学会員はしばしば”命がきれい”、
”命が汚い”というけれど、本当にそ
んなことがあるのだろうか?
釈尊はそんなことはいってない。
また、学会員のなかには学会の言うこ
とを信じない非学会員を評し、”あの
人は命が汚い”という。
これは一種の選民意識から来る差別的
表現でしかない。
命にきれいも汚いもない。そのことを
考えない学会員が居ること事態、問題
である。
釈尊は現世で見える命は”大いなる存
在”の移り変わるさまの現れに過ぎず、
それ自体は本質のほんの一部が現れで
あるといわれている。
それをきれい汚いと言い切る学会員の
信仰していることにゆがみを感じずに
はいられない。
信仰すること自体には問題はない。し
かし、その内容について考えることが
なければ、その信仰は狂信にすぎない。

今年も財務の季節がやってきた

2004-12-05 | 創価学会関連
創価学会では毎年12月は”財務の戦い”と称し、学会員から
集金する。学会によれば”財務”はいわゆる寄付ではなく、
また”会費”でもないという。
ではこれは一体何のお金だろう?
毎年この時期の座談会では、正しい供養と称し、”真心の財
務”という言葉が強調される。
曰く
”財務は真心が大事です”
”金額では在りません。心が問題です”
しかし、1口1万円で渡される振込用紙は一体なんであろう?
ここまでシステマティックに納金システムが整備され、1口1
万円と決められている。
心が大切ならばなぜ1口1万円なのだろう?
座談会で財務の功徳を強調するため、高額の納付者の話をす
るのだろう?
なんとなく、高額納付すればするほど功徳があるように、強
調されるのは何故なのだろう?
疑問は尽きない・・・・・・・・。

学会員は日本人でありながら日本人を馬鹿にすることが多いけれど・・・。

2004-11-28 | 創価学会関連
学会員は日本人が多い。ある意味当然のことだが、解せないのはその”日本人”が
日本人を島国根性丸出しの無知な人間だという。逆に学会員はどうなのだろうか?
非学会員からみれば、池田大作率いる狂信者集団と酷評するものもいる。小生も、
学会員の中には考え方が偏っていると感じる人も確かにいる。妄信し、他の価値観
を全く受け入れず、他の宗教の本質を知らず、やたらめったら非難する人さえいる。
小生にはそういうことが、一種の選民意識の表れではないかと思う。学会の教えが
絶対正しいと思い込み、他宗との相互理解を行わない学会員は狂信的にさえ思える。
本当に必要なことは日本人が日本人を馬鹿にするようなことはやめることでないで
しょうか・・・・。それは天につばはく行為にしか小生には思えません。

”信じること”はリスクがともなう

2004-11-21 | 創価学会関連
ある宗教を信じることはリスクがともなう。
”信じる”という行為は思考停止状態に自ら陥ることである。
そのリスクは自らの財産あるいは場合によっては自己の生命を
も、犠牲にすることである。
”信じたこと”が本当に正しければ、何の問題もない。
ただ、往々にして信じることを強要する宗教は、排他的で他の
考え方や価値観を認めない。そのことによりおきる不幸な事態
を受けるのはその宗教を信じたもの自身である。
信じる前に考えよ。
信じる前によく観よ。
信じることはいつでもできる。
信じる前にすることがあるのを忘れてはならない。

教学試験に思う(其の弐)

2004-11-12 | 創価学会関連
昨日の教学試験の勉強会で、聖教新聞の自由座談会の記事について
批判してみた。講師役の学会員曰く「日顕宗は学会に金集めをさせ
て切り捨てた」とのこと。
でもちょっと待ってよ、日蓮正宗の創価学会との揉め事の経緯をみ
ると、一方的に日蓮正宗に問題があるとはいえない(まぁ日蓮正宗
のサイトだから当然といえば当然だが・・・)。あまりにも、事実
関係が食い違う。学会側から言わせると日顕さんが学会の金だけ取
っていって、切り捨てたとのこと。しかし、日蓮正宗側の経緯を見
ると、学会側から、「切り捨てられる」ように仕向けたように見え
る。実際、日蓮正宗から破門を言い渡されたときに聖教新聞で、破
門を歓迎するような記事が載っていたらしい。小生からすると、く
だらない勢力争いにしか見えないが大真面目に教学試験の一項目と
して、勉強するようになっている。しかも、日蓮正宗関係の問題は
配点が高く設定されているらしい。明らかに目的は日蓮正宗を敵と
して、学会員に印象付けるための教学にしか思えない。
いい加減そんなくだらない喧嘩をやめてほしいのだが・・・。
もし興味をもったなら、MSNのコミュニティに日蓮正宗側の主張が
のっているサイトがあるので参考にしてほしい。

URL:http://groups.msn.com/f0hg3enru3ip8hbddfd9ph0ka5/page22.msnw

ただ、ここは公開のサイトではないので、登録が必要なのでご注意
を・・・。

ついでに日蓮正宗のサイトのURLを下記に記す。

URL:http://www.nichirenshoshu.or.jp/jp/indexj.html

日蓮正宗側だけをとりあげるのは不公平なので学会側のサイトも紹
介する。

URL:139372@groups.msn.com
   http://www.sokagakkai.or.jp/index.html

一度両者のサイトを訪れて、両者の言い分の食い違いを検証してみ
てほしい。
参考までに、比較的中立の立場で日蓮正宗と創価学会の一連の揉め
事をまとめたサイトがあるので、そこも参考にしてほしい。

URL:http://www.uranus.dti.ne.jp/~yuugeki/nitiren-top.html

小生からみると単に主導権争いの果てに感情的対立にまで発展した
ように思えるのだが・・・・・。
信行学を重んじているはずの創価学会が特定宗教団体を口汚く批判
をすることに何の意味を見出せない。こんなくだらない揉め事で時
間を浪費するほど暇はないと思うのだが・・・・・。

教学試験に思う

2004-11-09 | 創価学会関連
小生は教学試験のための勉強会に参加している。
教学試験のテキスト(大白蓮華10月号)にはさまざまなことが
書いてある。しかし、抜粋されている御書は創価学会の教えが
強調されるような御書を引用している。御書全体を読んでいな
いのでなんともいえないが、情報操作で学会にとって都合のい
い部分を引用している可能性がある。
今後、少しずつ検証していきたい。

難を受けたのは日蓮上人だけ?

2004-11-08 | 創価学会関連
今創価学会の教学試験の勉強をしています。
日蓮さんだけが命に関わる難をうけたと教えられます。
しかし、信長による比叡山焼き討ちで多くの僧と信徒が死にました。
江戸時代に島原でキリスト教徒が大勢虐殺されました。
これらは「難」といわずしてなんと表現できるだろうか。
それらのことを、全て無視して難を受けたのは日蓮さんだけというのは
おかしい。
まぁ、学会の言うことだからそういうもんだといえなくもないが、それ
にしても、そこまでして権威化しなければならないものなのだろうか?

疑う技術

2004-11-06 | 創価学会関連
よく学会で「良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである」というフレーズをよく使う。しかし、これは通合のいい部分だけを引用している。実際にはもっと前の部分から引用すると学会の発行物はみんな悪書になってしまう。
以下に引用する。

「したがって読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。たとえば、読書界に大騒動を起こし、出版された途端に増版に増版を重ねるような政治的パンフレット、宗教宣伝用のパンフレット、小説、詩などに手を出さないことである。このような出版物の寿命は一年である。むしろ我々は、愚者のために書く執筆者が、つねに多数の読者に迎えられるという事実を思い、つねに読書のために一定の短い時間をとって、その間は、比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品だけを熟読すべきである。彼らの作品の特徴を、とやかく論ずる必要はない。良書とだけ言えば、だれにでも通ずる作品である。このような作品だけが、真に我々を育て、我々を啓発する。
 悪書を読まなすぎるということもなく、良書を読みすぎるということもない。悪書は精神の毒薬であり、精神に破滅をもたらす。
 良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。」

ということで、学会における引用や指導で偉人の言葉の引用はよく調べよう。都合のいい部分だけを引用している場合がある。それが本当のことを知る第一歩となるであろう。
疑う技術とは情報元にできるだけ近づくことである。
全体を俯瞰し、極端な引用や強調がある場合は特に注意を要する。
自らの頭で考え、真実を見極めることが肝要である。