ないちょの雑記帳

日々心に浮かぶこと、世の中のことをそこはかとなく書き綴ってます

ファイナルファンタジーXと学会

2005-01-07 | 創価学会関連
最近、ファイナルファンタジーX(以下、FFX)をやり始めた。
FFXで遊んでいて、ふと思ったことがある。
FFXの世界で”エボンの教え”というものがでてくる。
その教えはFFX世界(以下、スピラ)では絶対的なもので、その
教えを盲目的に信じている。
その教えとは、スピラに災厄と死と破壊をもたらす”シン”は
過去人が機械に頼り、驕りたかぶった人の罪の象徴であり、人
の罪が贖罪されるまで、”シン”による破壊と災厄は終わらな
い。それ故、人は機械を捨て、日々祈りをささげ、贖罪に勤め
なければならない。それがスピラにおける絶対の秩序となって
いる。
その教えの中で、ひとの罪とは具体的に何なのか、贖罪がいつ
終わるのかなど重要なところであいまいなところが多く、もう
ひとつ合点のいかない教えとなっている。
そのような教えの話を聞いて、学会との類似点に気付かないだ
ろうか?
どちらも、明確な根拠は無く妄信するところなどそっくりでは
ないのだろうか?
ゲーム中、登場人物が言うセリフで特に気に入ったものがある。

”教えだからと何にも考えなかったら、このままだよ”

教えに従い何の疑問を持たず生きること、それは変化を排除し、
何が問題かを根本から考えずにすむ免罪符を手に入れようとす
る行為に他ならない。
何が問題かを根本から考え直し日々生きること、それはきわめ
て大きな苦痛をともなう生き方である。しかし、少しずつでも
自らの生活を変化させ、問題の根本を改めていくことが自らを
ごまかさず生きていく方法になるのではないのだろうか?
学会員にはどうも”教え”に従っている満足感がこの世界の問
題を解決する唯一の解答だと思い込んでいるフシがある。
それにもかかわらず現実の問題には関わらず、内輪の論理で、
さも問題解決に奔走していると思い込んでいる学会員の姿が滑
稽に見えるのは小生だけだろうか?