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CTNRX的文學試行錯誤 ♯013

2023-07-03 21:00:00 | 出来事/備忘録

 ラジオの某トーク番組で、書評家の方が“太宰治”の作品、推しを紹介していた。   
 書評家曰く「勢いのある時の短編小説が良いんですよ〜」と宣う。
 太宰治の代表作言えば「人間失格」「斜陽」「ヴィヨンの妻」等あるかな・・・
 イメージ的には、暗く重い内容の書籍が多い。 
 書評家が言うには「あの代表作の作品は晩年の作品のもので暗い・重い、というイメージですが、実は太宰治は、ユニークでサービス精神旺盛な人なんです!」と興奮気味に言う。

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 太宰治(だざい おさむ)
 1909年〈明治42年〉6月19日〜1948年〈昭和23年〉6月13日)
 日本の小説家。
 本名:津島 修治(つしま しゅうじ)。 
 左翼活動での挫折後、自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。
 主な作品に『走れメロス』『津軽』『人間失格』がある。
 没落した華族の女を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。
 戦後は、その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳、檀一雄らとともに新戯作派、無頼派と称されたが、典型的な自己破滅型の私小説作家であった。


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 そのトーク番組で結局“推し”の作品は「畜犬談」だった。

 『畜犬談』(ちくけんたん)
 太宰治の短編小説、あるいは随筆

 〔ストーリー概要〕

 甲府の仮住まいに住む「私」は、いつか必ず犬に噛まれると確信しているほどに犬を嫌っていた。強い論調で犬の恐ろしさ・厭らしさを説く「私」であったが、いつしか一匹の汚らしい野良犬に付きまとわれることになる。

 〔作品の経緯〕

 表題には「伊馬鵜平君に与へる」と添えられている。作中の「犬に噛まれて三七、21日間通院した」という友人とは太宰の親友であった伊馬鵜平(伊馬春部)の事、あるいは伊馬をモデルにしたと思われる。
 また、作中の「私」は甲府に住む妻帯の小説家であるため太宰本人だと考えて間違いなさそうであるが、この小説の内容がすべて事実なのか、事実を基にしたフィクションなのか、あるいはまったくの創作であるのかは判らない。
 作品集『皮膚と心』に収録されたのち、『風の便り』(利根書房、1942年4月16日)と『玩具』(あづみ書房、1946年8月10日)に再録された。

 関連項目
   ー 皮膚と心(短編集) ー

 1940年(昭和15年)4月20日、竹村書房より刊行された。
1992年(平成4年)6月19日、日本近代文学館より「名著初版本複刻太宰治文学館」シリーズの一冊として当時の体裁どおりに復刊された。
 2014年(平成26年)11月7日、本書の電子書籍版がITmediaより発売された。

 内容

タイトル
1 俗天使 『新潮』1940年1月号

2 葉桜と魔笛 『若草』1939年6月号

3 美少女 『月刊文章』1939年10月号

4 畜犬談 『文学者』1939年10月号

5 兄たち 『婦人画報』1940年1月号

6 おしゃれ童子 『婦人画報』1939年11月号

7 八十八夜 『新潮』1939年8月号

8 ア、秋 『若草』1939年10月号

9 女人訓戒 『作品倶楽部』1940年1月号

10 座興に非ず 『文学者』1939年9月号

11 デカダン抗議 『文藝世紀』1939年10
月号

12 皮膚と心 『文學界』1939年11月号

13 鷗 『知性』1940年1月号

14 老ハイデルベルヒ 『婦人画報』1940年3月号

    〔ウィキペディアより引用〕



 


CTNRX的文學試行錯誤 ♯012

2023-07-02 21:00:00 | 編集後記/追記

 ■寓話

 『雑談ネタにもならない雑学 ♯03−B』補足として。

 ▼寓話(ぐうわ)

 比喩によって人間の生活に馴染みの深いできごとを見せ、それによって諭すことを意図した物語。名指しされることのない、
 つまりは名無しの登場者は、動物、植物、自然現象など様々だが、必ず擬人化されている。主人公が、もしくは主人公と敵対者が、ある結果をひき起こしたり、ある出来事に遭遇する始末を表現したりする本筋は、なぞなぞと同様な文学的構造を持ち、面白く、不可解な印象を与えることによって読者の興味をひき、解釈の方向を道徳的な訓話に向ける特性を持つ。民話によく見られるように、物語の語り末には寓意的な解釈を付け加えることが習慣的に行われてきた。

 ▼歴史

 〔古代オリエント

 寓話は、神話と同様にとても古い文献に発見されている。
 現時点では古代オリエントのものが最も古い。
 古代ギリシャ・ローマ以前の寓話は、アイソーポス(イソップ)以前の寓話 Ante-Aesopic fable と総称されている。
 19世紀後半から古代オリエントの楔形文字が解読され、1931年にドイツのアッシリア学者エーベリングがいくつかの文献をまとめて「バビロニアの寓話」として訳した。
 その後も文献は発掘されたが、寓話の研究は衰えた。最近ではアキモトの研究がヴァンダービルト大学から発表されているのみである。
 彼の研究によると、古代オリエント(メソポタミア、エジプト、地中海東岸、アナトリア)では、寓話は口承文学として文字以前からあり、文字の発達とともに粘土板にも現れた。
 シュメール語やアッカド語の短い寓話が、諺やその他の民話といっしょに収集された粘土板は、そのほとんどが学校の遺跡から発見されている。
 ヒッタイト語とフルリ語のバイリンガルで残る寓話集は、神話と伝説の中に盛り込まれていて、ある話し手が次から次へと寓話を語っては解釈して聞かせていくという形式をとっている最も古いもので、ヒッタイト版が紀元前1400年頃、その原本となったフル人の寓話はもっと古く、紀元前16から17世紀頃のものと推定されている。
 Ninurta-uballitsu ニヌルタ・ウバルリトゥスウの古代アッシリア寓話集は、紀元前883年に完成と記されていて、編纂者名前と編纂年の判明している最古の寓話集である。
 古代アッシリア王家の書簡の中にも寓話を使ったものが発見されている。

 〔古代ギリシャ

 寓話と言えばイソップ寓話である。彼の名を冠する寓話がこのギリシャ人の作品であるかは不明で、ヘロドトスの記述外での彼の歴史的な存在も確かではないにせよ、紀元前6世紀以降の寓話は、イソップの寓話 Aesop's fable またはイソップ的寓話 Aesopic fable と総称されている。伝説的イソップと文芸ジャンルとしての寓話は、ローマと東ローマの寓話収集家および作家の手によりギリシャ語とラテン語の文献が伝承された。

 〔インド

 サンスクリットで書かれた説話集『パンチャタントラ』では、釈迦が生まれ変わるたびに色々な動物として暮らす話を教訓的な寓話として表現している。

 〔欧州

 ギリシャ語とラテン語を読み書きするキリスト教の聖職者により、寓話は中世からルネサンス期を通じて受け継がれた。
 グーテンベルグの印刷機の発明のすぐ後に、ハイリッヒ・シュタインヘーベル(英語版)がラテン語とドイツ語のバイリンガルによる「エソプス」という題の寓話集を出版してから民間に広まっていった。
 近世には個性的な寓話作家も現れ、チョーサーやラ・フォンテーヌなどの作品はよく知られている。
  英仏: Fable(英語版)(フランス語版), 独: Fabel(ドイツ語版), 伊: Favola(イタリア語版), 西: Fábula(スペイン語版)などの各言語版ウィキペディアにある寓話の記事には、国ごとの寓話の発展が記されている。

日本

 イソップは、日本の寓話にとってもやはり元祖である。
 イソップの寓話として『伊曾保物語』は、16世紀のキリシタン(切支丹)によって日本語に翻訳され、しかも印刷されている(『イソホノファビュラス』のローマ字版は、現在大英博物館蔵)。

 ▼主な作品のひとつ
    『王様の耳はロバの耳』

 《ストーリー概要

 昔、立琴(ハープ)の神(アポロン)と笛の神(パン)がどっちの音が素晴らしいかで争っていた。
 その審査をした神たちは立琴の音が素晴らしかったと言ったが、王(ミダス帝)は「自分の耳には笛の音がよく響いた」と言う。
 怒ったアポロンは「耳がよく聞こえないのだろう。耳を大きくしてやる」と王の耳をピューンと伸ばしてロバのの耳にしてしまいます。
 このことに恥ずかしくなった王は頭巾を被って耳を隠すようになる。
  だが、床屋に髪を切ってもらう事になった時、王の耳がロバの耳であることを知ってしまった床屋は、王に口止めをされた苦しさのために、森の中の葦のちかくに掘った穴(或は井戸)の底に向かって「王様の耳はロバの耳」と叫ぶ。
 数日後、穴を塞いだあとに生えた葦がその言葉を言うようになる。
 それを聞いた王は床屋が言いふらしたと思って激怒するが、床屋から事情を聞いて家来に調べさせた結果、葦が言っていることを知ると恥ずかしくなって床屋を釈放します。
 アポロンはそれを見て、「お前のその寛大な心に感銘を受けた。お前の耳を元に戻してやろう」と王の耳が元に戻りました。

 《解説

 王様の耳はロバの耳」はイソップ寓話(イソップ童話)の一つですが、その大元はギリシャ神話に登場するフリギア王国の王様ミダス(ミダース)帝の逸話です。フリギアはかつてアナトリア(現在のトルコ周辺)に実在した古代王国です。
 王様の耳はロバの耳は、元は、ギリシャ神話として伝わっていますが、発祥はトルコらしいです。

 中には「自分が知ってる物語とは違う!」という人もいらっしゃるかと思いますが、イソップ物語は中世のヨーロッパでさまざま時代を経て、その時代に合わせた教訓などを組み込まれて作り出されたものなので、多様な形の物語が出来上がっているようです。
 細かい部分で無数のバリエーションが存在します。

 《主にどこが違う?》

 ▶床屋が王様の秘密をもらさないように我慢していたせいで病気になってしまう。
 ▶我慢できなくなった床屋が「王様の耳はロバの耳ー!」と叫んだ古井戸は町中の井戸とつながっており、秘密が知れ渡ってしまった。
 床屋が自分で掘った穴に向かって王様の秘密を叫ぶと、そこから生えた葦から「王様の耳はロバの耳ー!」という声が聞こえるようになる。
 床屋が秘密を叫んだ穴から木が生えてきて、羊飼いがその枝で作った笛。
 噂が広まったことで逆に隠す必要がなくなって助かったと言って王様が床屋に褒美を取らせる。

 王様の耳はロバの耳の結末は、「最終的に床屋を許した王様の寛大さを認めてアポロンが王様の耳をもとに戻してあげる」というもの。人に対して寛大な心を持つという教訓、また真実を言う勇気が必要であるという教訓を説いたおとぎ話となっているようです。 上記のようにこの他にも多彩なバリエーションがありますが、いずれも現在にも通じるような学びを与えてくれる教訓めいた内容になっていることが、王様の耳はロバの耳という物語が長きにわたって愛される理由の一つだと思います。

    〔ウィキペディアより引用〕



 

銭の花《商魂》 ♯004

2023-07-01 21:00:00 | 日記

 ■近江商人

 近江商(おうみしょうにん/おうみあきんど)または江州商人(ごうしゅうしょうにん)、江商(ごうしょう)
 中世から近代にかけて活動した近江国(現在の滋賀県)出身の商人。大坂商人、伊勢商人と並ぶ日本三大商人の一つである。
 現在でも俗に滋賀県出身の企業家を近江商人と呼ぶことがある。
 通常、近江国外に進出して活動した商人のことを近江商人と言い、活動地域が近江国内に限定される商人は「地商い」と呼ばれて区別された。

 ▼概要

 近江全域から万遍なく商人が生まれたわけではなく、商人が多く輩出した地域には偏りがあり、また地域によって活動時期・進出地域・取り扱い品目などに違いがある。

 高島商人

 高島郡大溝など。戦国時代末期から江戸時代にかけて、京都や東北地方に進出。南部藩盛岡の城下町形成・発展に大きく関わった。

 八幡商人

 蒲生郡八幡。八幡山城の城下町建設に際し、旧安土城下や近在の商人が集まったのが始まり。
 畳表や蚊帳といった地場産業を育て商材とした。早い時期から江戸に進出し、また蝦夷地開拓にも携わった。
 「八幡の大店」と呼ばれ、日本各地の主要都市で大型店経営に力を入れた。

 日野商人

 蒲生郡日野。蒲生氏の城下町として中世から商工業で栄えていたが、蒲生氏の移封と断絶によって衰退し、特産品の日野椀や医薬品の行商に活路を見出したのが始まり。
 のち醸造業を営む者も多く出た。「日野の千両店」と呼ばれ、地方都市(特に北関東)に小型店を多数出店した。

 湖東商人

 犬上郡・愛知郡・神崎郡一帯(高宮・豊郷・愛知川・五箇荘・能登川など)。江戸時代後期、彦根藩の経済政策(麻織物生産の奨励と、農民による商業活動の許可)によって農民が農閑期に行商に回ったのが始まり。
 産物廻し(都市部で仕入れた商品を地方に売り、その足で仕入れた地方の特産品を都市部で売る商法。「のこぎり商い」とも呼ばれる)を得意とした。
 地域名については「湖東」を参照。 北陸道、東山道や東海道などの主要街道が通る近江では、街道沿いに定期市や座が早くから発生し、中世より商業活動が活発であった。中世に活躍した商人集団には、九里半街道を通って若狭国方面へ行商に出かけた五箇商人(小幡・八坂・薩摩・田中江・高島南市の5村)と、八風街道や千種街道を通って伊勢国の桑名へ行商した四本商人(小幡・保内・沓掛・石塔の4村。鈴鹿山脈を越えて商いを行ったため「山越商人」とも呼ばれる)が挙げられる。
 とりわけ得珍保(延暦寺領荘園)を拠点とした保内商人の活動が近江商人の前駆となっている。
 江戸時代に入ると近江出身の商人は徐々に活動地域や事業を日本全国に拡大させ、中には朱印船貿易を行う者も現れた。鎖国成立後は、京都・大坂・江戸の三都へ進出して大名貸や醸造業を営む者や、蝦夷地で場所請負人となる者もあった。幕末から明治維新にかけての混乱で没落する商人もあったが、西川のように社会の近代化に適応して存続・発展した企業も少なくない。
 今日の大企業の中にも近江商人の系譜を引く会社は多い。 その商才を江戸っ子や同業者から妬まれ、伊勢商人とともに「近江泥棒伊勢乞食」と蔑まれたが、実際の近江商人は神仏への信仰が篤く、規律道徳や陰徳善事を重んずる者が多かった。
 様々な規律道徳や行動哲学が生み出され、各商家ごとに家訓として代々伝えられた。成功した近江商人が私財を神社仏閣に寄進したり、地域の公共事業に投資したりした逸話も数多く残されている。天保の大飢饉で仙台藩の農地復旧に貢献した日野商人の中井新三郎は住民らからも慕われ、神社にまつられた。
 一方で、蝦夷地でアイヌを漁業に酷使し、江戸幕府の箱館奉行所に「非道がある」と改善を命じられた藤野家のような例もあった。
 当時世界最高水準の複式簿記の考案(中井源左衛門・日野商人)や、契約ホテルのはしりとも言える「大当番仲間」制度の創設(日野商人)、現在のチェーン店の考えに近い出店・枝店の積極的な開設など、近江商人の商法は徹底した合理化による流通革命だったと評価されている。

 ▼近江商人の思想・行動哲学

 三方よし

 “三方”とは売り手・買い手・社会全体のこと。売り手の都合だけで商いをするのではなく、買い手が心の底から満足し、さらに商いを通じて地域社会の発展や福利の増進に貢献しなければならない。
 三方良しの理念が確認できる最古の史料は、1754年に神崎郡石場寺村(現在の東近江市五個荘石馬寺町)の中村治兵衛が書き残した家訓であるとされる。これを伊藤忠商事創業者・伊藤忠兵衛 (初代)が広めたという。
 ただし、「三方よし」は第二次世界大戦後の研究者が分かりやすく標語化したものであり、昭和以前に「三方よし」という用語は存在しなかった。

 始末してきばる

 「始末」とは無駄にせず倹約することを表すが、単なるケチではなくたとえ高くつくものであっても本当に良いものであれば長く使い、長期的視点で物事を考えること。また「きばる」とは本気で取り組むこと。

 利真於動

 利益はその任務に懸命に努力した結果に対する「おこぼれ」に過ぎないという考え方であり、営利至上主義の諫め。

 陰徳善事

 人知れず善い行いをすることを言い表したもの。自己顕示や見返りを期待せず人のために尽くすこと。
 近江商人の成り立ちに関し「(松尾)芭蕉の教導訓示によりて出来たもの」と言う勝海舟の談話が残されている。

 近江商人の起源

 湖上移動習性説

 近江の国は、琵琶湖があり、多くの近江商人が船を使用して湖上を移動し、京都や大坂に出て商売をしたという説である。 高島商人や八幡商人には、すぐ目の前が湖であるし、近江高島や近江八幡には、大きな堀があり、この堀に船を浮かべて荷物を運んだという事実は確かである。
 しかし、近江日野や五個荘、 湖東三郡の方は、琵琶湖から遠い内陸部である。 近江の地から出たどの商人も商売の形態は「行商」が中心であり、内陸部を周り歩いたのが事実であり、船を利用して湖上を移動した傾向が少ない。

 農民生活困窮説

 近江の国は、琵琶湖が中央に存在して、全面積の六分の一を占めている関係上、農業生産が少なく、湖岸でも水害が発生し、田畑は多数の領主の支配を受けてきびしい収奪をされていた。
 貧農の二男や三男は、地元にこれといった産業もないので苦しい農民生活から離れて商人になったという説である。
 反論としては、今も昔も滋賀県は米の産地として産米高は全国でも多い傾向にあり、他国の農民よりも生活に余裕があった。
 さらに商人になる以前の職業を分析してみると、貧農よりも酒屋、地主、豪農であった家の息子が多く、農民としての生活に困って商人に転化したというケースは少ない。

 楽市・楽座説

 近江商人の発生が、室町時代の後期から安土桃山時代にかけて戦国大名が行った経済政策である楽市・楽座からきているという説である。

 雪解け説

 この「雪解け説」を唱えたのは、小倉栄一郎氏で、その概略は次の通りである。
 江戸時代、封建領主は、自分の藩の領域経済を自立させるために、商人に対して種々の統制を行った。 つまり商品が特定の領域経済の意志に基づいて、他藩または天領へ向かって運搬される動きを取り締まった。
 全国各地どこの藩でも、経済活動を厳しくして、農民の商人化や離農と移住を厳重に禁止したが、近江八幡や近江日野・近江高島・五個荘の一部では、他藩よりも一足早い時期に経済統制が緩みはじめ、自由な商業活動への道が開けた。 これはちょうど雪原が解けて雪割草が白い花を咲かせる現象と同じなので、小倉栄一郎氏は、「雪解け説」と名づけた。

 交通要衝説
 
 この説は、近江の国は近くに文化都市の京都や商業都市の大阪が存在し、古代から交通の要衝であったから商人が数多く生まれたという説である。
 近江は、東海道、北陸道、中山道、西近江路など、申し分のない交通網があって、草津や大津の宿で泊まり、逢坂山を越えるとすぐに京都で、そこから大阪まで歩いていくと、山陽道や山陰道に出て、西国地方へと通じる道がある。
 交通要衝説は、商業活動に大切な条件を備えており、特に湖東地方は、東海道、北陸道、中山道と三つの街道が通って、商売をする好条件が揃っていた。

 渡来人説

 司馬遼太郎は近江人の商才という特質は、渡来人に帰すると考えるのが一番素直であるとし、 商人的素質をもった渡来人が移住し、本国に習って市を開き、比叡山と結んで専売権を確立、商権を拡張して飛躍し、全国の行商行脚に力を伸ばしたという説を述べている。

近江商人の流れを汲む主な企業

 流通業

 ・西武鉄道、西武グループ セゾングループ(愛知郡出身の堤康次郎が創業)

 ・髙島屋(高島郡出身の商人飯田儀兵衛の婿養子である飯田新七が創業。社名は高島郡に由来)

 商社

 ・伊藤忠商事、丸紅(犬上郡出身の伊藤忠兵衛が創業)

 ・住友財閥(初代総理事広瀬宰平は野洲郡出身、2代目伊庭貞剛は蒲生郡出身)

 三井財閥(三井家の家伝によると、三井家は近江の国佐々木氏に仕えた所から始まる)

 ・ヤンマー(伊香郡出身の山岡孫吉が創業)

 繊維関係

 ・日清紡
 ・東洋紡(前身の一つである金巾製織は、滋賀県知事の勧奨から複数の近江商人が創業)
 ・東レ
 ・ワコール (仙台出身神崎郡育ちの塚本幸一が創業)
 社名は「江州に和す」に由来。
 ・西川(八幡出身の西川仁右衛門が創業)

 その他

 ・トヨタ自動車(彦根出身の豊田利三郎が初代社長)グループ創始者豊田佐吉は前述の児玉一造に多くの支援を受けた。

 ・日本生命保険(彦根出身の弘世助三郎の呼びかけで創業)
 ・武田薬品工業(日野発祥の薬種仲買商である近江屋喜助からののれん分け)
 ・ニチレイ(前身である帝国水産は、野洲郡出身の西川貞二郎らが創業)

  〔ウィキペディアより引用〕