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12.天地否

2009-07-25 19:48:16 | 易の解釈
12.天地否

泰が陰陽和合の卦であるのに対し、否は陰陽背反の卦です。要訣は「縁があるか、ないか」。泰では相思相愛のように互いが正面を向いて近づき合うけれど、否では互いに背中を向けて別々の道を歩み出し、もはや会う機会すら失われてゆく。何かの出来事がきっかけとなって、特定の人達や環境との縁が切れるか、会うこと自体が気まずくなりやすい。予定のキャンセルなどで状況が計画通りに進行しなかったり、目上(上司・先輩)からのシゴキやプレッシャーに潰される傾向があります。思うようにいかないことに不満が募りやすい時期です。

男女関係であれ上下関係であれ、家族や同僚・友達との関係であれ、また職場環境とか生活環境に対してであれ、そこに反発や憤りが生まれやすく、始終ネガティブな感情に心を支配されやすい。自分達の立場や意思・意見が軽視されていると感じ、精神的にも周辺事情的にも苦しい時です。さらに、状況に対する閉塞感が自分のみならず周りの人にも出てきます。支配的・強権的な連中に対して強い反発心が生まれ、それが仲間内にも伝染していきやすいでしょう。特定の相手に対する好悪の感情が沸々と湧き上がって、悪口や誹謗中傷、圧力などに発展する恐れがあるので、セルフ・コントロールがとても重要になってきます。また、スタッフのメンタルケア、待遇の見直し、職場全体の環境改善が希求されることもあるでしょう。

泰では周囲との関係は比較的良好で、平穏無事に時が過ぎていく雰囲気がありますが、そのぶん緊張感に欠け、状況把握も漠然としたものになる傾向があります。一方、この否は空気が痛いほどに張り詰めたり、重苦しさがあったりと状態が正反対です。正直、そんな状態が長期間続いたら、誰だって精神的に参ってしまうでしょう。だからこそ、なぜそんな雰囲気になってしまったのか、何が原因なのか……重い空気に耐え切れなくなって暴動が起きる前に、納得できるだけの答えを得る必要があります。その上で、これからどう対処していけばいいのかを判断する。結局、原因がわかっても既に修復不能になっているかもしれないし、縁は切れたままかもしれませんが、それでも気持ちの整理がつけられるだけ、まだマシです。理由もわからずにダメになってしまうことほど後味の悪いものはありません。

ところで、否は[女后]と対称関係にあります。乾坤坎離を除いた60卦で屯および晋から10番目。先の泰と夬は9番目。陰性・陽性の違いはありますが、同じ仕組みをもった関係です。どちらも泰と夬までで突き詰め、そして極めてきた(限界を超えた先で見た)内容を引っ提げて、それを現実の世界に投影しようと苦心している姿です。泰は陰陽和合という理想を語りますが、現実には思うようにいかずに苦汁を嘗めることが少なくないですし、夬で全陽を目指して陰を消し去ろうとしても、陰の流れを汲んだ者が僅かであれどこかに潜伏しています。江戸時代の踏み絵のような印象もなくはありません。

[女后]は一陰五陽で、乾為天状態だった乾いた空気に一片の湿った風が吹き込む情景です。良くも悪くも一人の女性が物事の鍵を握っているという絵柄。女性潜入捜査官、女スパイ、くのいち、営業や勧誘する女性。とはいえ、陽という状況下に陰が割り込んでくるという構図であれば現象は何でもいいわけで、必ずしも女性が絡んでいる必要はありません。女性関連の例が多いのも確かですが。それはそうと、[女后]は陽に潜り込んだ陰ですので、相手の虚を突いたり付け入る隙があると見るや策を打ってくる感があります。ただ、これは全陽という土台があってこそ陰が入り込む価値があるわけで、乾のきらびやかさ・魅力・ヴィジョンがなければ陰は関心を示さないはずです。

否も基本的に同じです。物事の光と影、陰と陽のコントラストが美しく調和した有様が泰だとすれば、そこに不協和音(ノイズ)が発生してリズムを崩してしまうのが否。簡単に言えば、気分良くしていたところに何か調子を崩すような事態が起きて、それが原因でネガティブな結果を招いてしまうという状況です。調律の正しさあっての泰なので、それが変則にさらされると、とたんに気分が悪くなってしまうのです。泰の場合は「始め良く終わり悪い」でしたが、否は「始め悪く終わり良い」で、終盤になるほど閉塞感が消えていく内容になっています。しかし、それにしても問題点を克服しない限りは、自分のリズムを取り戻せないまま、ずるずると最後まで持っていかれてしまいます。

否は自分(内卦)が坤で周囲(外卦)が乾ですから力量に差があり過ぎて、ぶつかっていくのは利がないばかりか潰される結果になりかねません。状況が打開されるまで心を折らずに耐えるか、さもなくば自分自身を省みて改めるべきは改めるよう努力してみる他はないかもしれません。いずれにせよ、いつか存分に力を発揮できるように基礎力を身につけておくことは必要だと思います。


◆初六

「茅を一本引き抜くと、芋づる式に一株ごっそり抜ける」――泰の初九も似たような爻辞ですが、内卦が乾と坤では大違いです。泰の初九では仲間に歩み寄って共同戦線を張り、良くも悪くも相手に引っ張られていきますが、否の初六では自分の得てきた知識・経験・技能・信念を、否の進行を防ぐため、はたまた抑圧された状況の中で大切なものを見失わないために使おうとします。内卦坤の初爻が変ずると震で初動(発端)の意味を持ちます。つまり、この時期、坤という一般大衆における先陣として、また状況や時代の申し子として機能することが多くなるでしょう。初六に相応する人物がキーパーソンとなって全体を揺り動かしてゆくはずです。この人がやる気を出せば取り巻く人々も気合が入り、逆に意気消沈すれば周囲の士気も下がる、という具合にです。それが茅に象徴されているわけです。ともかく、環境に対する影響力の強い時期なので、自分の振る舞いがもたらす結果についてもよく考えておく必要があると思います。大概、一度言い出したら聞かないほどの強情さがあり、納得できないことにはハッキリとした態度で反抗する性格です。異端児的な雰囲気をまとっているか確固とした自分の生き様(スタイル)を持っており、流行の発信源になる可能性は高いでしょう。

◆六二

泰の九二では周りの空気を読んで独自に行動していきますが、この否の六二では周りが何と言おうと自分自身の意思をコントロールし続けることがテーマです。一応、集団の潮流に従って動けば無難ですが、その分、自分の本心を犠牲にしているように感じるでしょう。この時期、社会的事情などで魔女狩りのような排斥感情の標的にされやすく、対人関係をはじめ周囲の状況が殺伐化しがちです。自分の目的を果たそうとすると、それを忌み嫌う人々から抵抗を受ける構図。六二は坎ですが中正に居り、上には九五という正応がいるので、あまり大仰に振舞わなければ目上の保護を得られ、やがては事態も収束していきます。この六二は一種の精神修行者のような趣き、あるいは刀鍛冶のような職人気質があり、忍耐とか練磨を通して人格の禊ぎを行っているような印象です。「玉磨かざれば光なし」の状態。完成度を高めるためにどんな苦しさにも耐えられるし、気の持ちよう(考え方)を意識的に切り替えることで、周りから批判されても簡単には潰れなくなります。将来的には当時の信念は間違っていたと思う時が来るかもしれませんが、否という逆境の中でグッと我慢して精神的に一皮剥けることに意義があります。辛い状況ですが、心を鍛える修行の時とも見なせます。逃げないことです。

◆六三

内卦坤の最上部で変爻すると艮。止とか静の意味です。坤という大衆性と個人的裁量のせめぎ合いが起きます。チームメイトや同僚としての付き合いに個人がどの程度まで関われるか、ここでその限界値を知ることになります。たとえば、打ち上げなどで先輩に否応なく酒を飲まされて急性アルコール中毒で倒れたという経験をした後、それ以降「これ以上は危ない」という勘所を抑えることができます。自分の限界を超えてしまった時にどうなるかを目の当たりにして恐ろしくなりますが、それが今後のストッパーとして機能し始めます。ある程度までは付き合うけれど、危険ゾーンが見えてくると口実を述べて遠慮したり、席を立って距離を置くなどの対策を講じるはずです。また、自分は大丈夫でも周りを見てハメを外しそうになっている人がいると、何かと世話を焼いたり保護してあげたくなるでしょう。しかしそうした経験がない場合、周囲の雰囲気に容易く飲まれて見るも無残な結果になってしまいがちです。興醒めしてお開きになるかも知れません。なお、九四以降の上卦乾は閉塞感の打破が目的になります。思い当たることがあれば、行いを振り返って改悛しましょう。否もこの六三で自制心を得れば、むやみやたらと無理はしなくなるので、次第にまた運気が戻ってきます。

◇九四

いよいよ乾に入りました。陰位陽爻の不正位ですが正応があります。初六は草の一本でしたが、九四とは根茎で繋がっています。泰の六四では陰としての落ち着きでもって時を過ごしますが、否では陽としての活気でもって人々と結びつきます。六三では、自分の限界を超える体験で嫌な思いをしたことでそれ以降は無理をしなくなりました。この経験によって自分を客観視する基礎ができ、やがてもっと全体を見渡せる高い視点を獲得したいと望みます。その結果、九四ではサン=デグジュベリの「星の王子さま」みたく、自分の鏡(生き写し)のような人々と接することで自らの世界観を打ち破る体験をしてゆきます。個人的な視野(枠)に収まっているとなかなか他の世界が見えないため、自分と似た生活をしている人を観察することで鏡像や反面教師として自分を見つめ直す糧にするのです。同類の存在と苦労を知ると共に自分達の限界性とか悲壮感を悟りますが、より大きな視点も得られます。否の最終的な目標は袋小路の打開ですが、現実の環境とか生活を変えるためには、まず自らの思い込みや固定観念を打ち破らなければなりません。日々の思考の集積が「私」を構築していることに気づけば、前向きとはいかなくとも、これまでほどネガティブ思考に陥ることはなくなります。

◇九五

剛健中正で六二と正応。乾が変じて離となる爻で、失いそうになっている中心を六二が繋ぎ止める象意。先に見たように六二は逆境の中でも自分をしっかり持つという爻でした。六二の状況ではそれが精一杯だったのですが、この九五ではその精神を保って自戒しつつ、否を打開するために外部に打って出ます。閉塞状況は自己収束している限り打破できませんから、まだ見ぬ世界に歩を進めて見聞を広げるのは必然の流れです。そこでカルチャーショックを受けるかもしれませんが、新しい視野なり希望を見出せたら、凝り固まった筋肉に針が打たれるような刺激を得て生活が活性化します。かつての遣隋使や遣唐使、今でいう異文化交流をする留学生とか帰国子女のような感じです。ただし、アウェーに身を置いても飲まれないくらいの強さを備えている必要があります。せっかく打開のチャンスを得ているのに、現状の考え方にしがみ付いていたり、馴染みの人(同類)と毎日顔を突き合わせているだけでは何も変わりません。ポイントは「行って、帰ってくる」こと。自分の知らなかった外の世界の空気を吸って(関わりのなかった分野や人達と交流して)学び得たこと、気がついたことを元の世界の住人に還元する。これをして始めて、行き詰まった状況の活路が開きます。

◇上九

上卦乾の最上位で、遥か頭上の雲(陰)に首(陽)を突っ込んでいます(乾の用九参照)。バーチャル世界とかネット世界で生きる人のように架空の存在が想起される爻です。雲隠れするのは何か明かせない秘密があるのかも知れません。知的または精神的分野の才能があり、その時々の活動には意義もありますが、いざ終焉を迎えると実体のあやふやさが浮き彫りになるでしょう。上九は陰位陽爻なので、否の終息期にあってなお勢力を振るおうとします。次の同人の潮流を汲み取っていますが、未だ否の流れにあるために仲間を募ってもリアリティに欠けやすく、得体の知れない人と思われて次第に縁遠くなりがちです。一般性の低い意見をもつ人間が集って同人となる性質上、上九では仲間集め以前の方向性の自覚が課題です。この時期、九五で新しく得た資質や技術を受け入れてもらうことに意識が焦点化されているので、他者の意見を聞いたり別の方法を学ぶよりも自分の主張を押し出す方が圧倒的に多くなります。異なるやり方を軽視しているわけではなく、むしろ多様性については寛容さを示すのですが、それでも否という閉じる性質の影響から話題は手前味噌になりがちでしょう。否を脱出して同人として受け容れてもらうには、まず自分自身が相手を認めなくてはなりません。



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