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19.地沢臨

2009-08-24 17:44:15 | 易の解釈
19.地沢臨

地沢臨とは、進んでくる者に期待を抱くという意味の卦です。若い力に将来性を見る。そして彼ら/彼女らを伸ばし、育成したいという気持ちを表しています。子供や次の時代を担う人々に希望を託す卦。対する風地観は、仰ぎ見る。目標や憧れとしての存在を示している卦です。この臨と観の間にはヒーローやヒロイン、いわゆるスターやアイドルを見るような感情の交錯があります。プロスポーツ選手の活躍に胸を躍らせて尊敬の眼差しを向けているような状態が観で、逆に選手やプロとしての責務を果たし、それによって後進を導こうという姿が臨。希望の星(種)を育てる役割が臨にはあります。

陰陽反転すると天山遯。遯とは逃げる、撤収、退却、身を引くの意味で、その際の心の葛藤、決意などを表しています。臨も遯も実は抽象的な面が強く、視線の向かう先が夢などの一見すると現実離れした方向にあります。尊敬する職業に就いている人とか、自分にとっての理想的な姿・生き方を実現している人への憧れ…という風に。ただ、臨では前進する意欲に後押しされますが、遯では後退することで現状から脱却しようとします。もう少し書けば、臨では蠱で腐ってしまった状況に希望を求め、そこから活力を得て奮い立つようなところがあり、対する遯は、恒でマンネリ化して風化しつつある関係に退路を作り、心理的な緊張状態を緩める働きがあります。一種の現実逃避ですが、精神的分野の探求には向いています。昔から引退・隠遁の卦とも言われている所以です。一方の臨は、現実的パワーを発揮できる分野が向いています。

シンメトリー関係は震為雷です。臨の卦象からも震を見ることができます。これを大震と言います。共に屯・晋から17番目。10という社会・環境に対する7としての刺激が与えられます。7は滝の落水のように、見る者、聞く者、体感する者に電撃的なショックをもたらし、それを契機に、心理的にも現実的にも転換を促す数字です。これまでの流れとは逆位相の波を送り込んで相殺したり、抑揚の激しさを利用して事態に変化をもたらす。落ち込んで精神的に沈降している時もあれば、外的な刺激に触発されて周りを巻き込んでバカ騒ぎするような時もあります。事を荒立てたり沈んだりして忙しいですが、どちらにせよ人に与えるインパクトや印象の強さによって影響力を持つ卦と言えると思います。

ところで、臨も観も十二消息卦(消長卦とも言う)の仲間です。これらは旧暦月における陰陽の変化を易卦に当てはめたものです。臨は旧十二月(丑:新暦の1月頃)で、観は旧八月(酉:新暦の9月頃)です。ただ、僕は子を1番目としてカウントした12までの数字の意味合い(象徴数)で捉えた方が理解しやすいと思っています。つまり臨の丑月は2で、観の酉月は10です。

2は、1の子月の地雷復で再起した経験を下地に、自分なりの方向性とか指針を固めようとしている段階と考えています。情報量の多寡とか、何らかの優位性を持つデータに基いて方向性が定められ、今後の動向・傾向が生まれてくる、その瞬間を捉えた数。どんな行動指針(価値観)を基準にしているかによって、物事の善悪・優劣の判断、好き嫌いの感情が個別化してくるので、2の段階から両極性という分かれ道が出来てきます。これが人によって微妙に、時に大きく違ってくるので、調和したり諍いが起きたりするわけですね。

とにかく、臨を丑月としての2を象徴すると考えると、スター選手に憧れる子供のように、そこに焦点が固定されていき、力が方向性を持って動くようになります。反面、視野が狭まってしまうため、理解を示してくれない人には冷たくなってしまうことは否めません。けれど、そうして目標とするものがあると、いち早く自分を夢の実現に向かわせることができるのです。

一方の観は、酉月としての10。これはグラウンディング(地に足をつけること)を象徴する数なので、例えば、どんなに高尚な精神的教えも実際の人生で活用できなくては意味がないという内容と同一です。それは易の啓示的・教訓的な教えにしてもそうですが、具体的な成果として日々の生活圏に具現化されなくてはならない、という趣旨を持った数です。研究室での実験に終始せずに、臨床を経て、実際の社会貢献として反映されてこそ意義がある等。とにかく、追求してきたことが何であれ、地上に着地する必要がある、という意味合いを持っています。これを観と結びつけると、より理解が広がります。

観は人々から見上げられる、また現実の世界を観察することで、必要なものが行き渡っているかを調査する、といった姿勢を示しているので、大方の意味合いは10とリンクしています。王が一般市民の中に身を紛れ込ませて世相を直に体験し、どんな問題点があるのか、何が求められているのかを肌で感じるようなイメージ。また、現代では観光(観の六四)の原義として取り上げられることが多いので、様々な文化を渡り歩き、見聞を広め、自分の世界観をより融通性のあるものにしていく、という見方もできます。なんにせよ、臨も観も非常に味のある卦です。


◇初九

臨は蠱での腐敗した状況を蹴散らすほどに活気のある卦です。そのスタート地点である初九は陽位陽爻で正位を得、九四とも応じているので時に乗じて自分の道を見つけられるし、始めは不安でも思っていた以上に邁進することができます。ほんの気晴らしのつもりが、または面倒なことをサボる口実で始めたことが、いつの間にか最高に楽しくなっていくような時です。それも自分ひとりの楽しみではなく、友達や街の人など周りの人達を巻き込んで、フェスティバル的な盛り上がりが生まれてきます。これは「咸臨」とあるように、ワクワクする人々の心が感応し合って、集合意識としての気運になることを意味しています。また、之卦(伏卦)が師であることからも大衆のイメージが出てきます。ちなみに原文的には九二も「咸臨」ですが、九二の場合は自分自身の真実の気持ち(信じる道)に対して感応する、といった状態なので、初九のような社会的および文化的活動によって大勢の人と結びつくものとは異なります。ただ、「感じ入る」という意味ではどちらも人の心に端を発するものであることは変わりありません。対関係を考えると、観上九ではこれまでの自分の行いを外部的に総括(審査)される状況がやってきますが、臨の初九では視点が反転して、これから新しく作り上げていく期待感に満ちていたり、他の人々が行ってきた結果を総体的に眺めていくシチュエーションとなります。

◇九二

内卦兌の中位にいて外卦坤の六五と応じ合っています。しかし九二は陰位陽爻であり、ただ指示されるままに動くというタイプではありません。必要とあらば、命令や常識に反してでも自分の思うところに拠って立って信念を貫くことのできる人物です。臨は陽という希望の光が伸張していく卦ですが、この九二は陽の先端、陰(六三以降)の近傍にいます。ここで現れる陰気とは、事例的に過去の因縁だとか苦い記憶、はたまた知られざる歴史的真実などで(これには之卦――状況を形成する一要素で、爻の陰陽を反転させた卦――である地雷復が潜在的に関係しています。復は過去に培った根源的な因縁が再起するという意味の卦)、正直に伝えるべきか、そして真面目に聞き入れるべきかに苦悶する傾向があります。聞けば悲しみや憂慮に襲われ、そのために信念が揺らいで行動に戸惑いが生じるかもしれません。また逆に、真相を知ることで現実を受け止め、覚悟を決める人もいるでしょう。場合によっては、事情により真実(胸中)を告げられず言葉を濁してしまうことも。兌は収穫の喜びを象徴する卦ですが、この九二では単純な吉凶や善悪では判断しづらい状況になる率が高いです。結果的に、雰囲気の奥底に流れるものをリーディングしたり、つぶさに状況を観察する中で見出したことに自分の判断を被せる格好になりやすいのですが、仮にそれが六五の意志に逆行していたとしても、現場判断を優先するでしょう。

◆六三

陽位陰爻で不当位、さらに中を外れて応爻もなく臨の気運に乗れません。高い可能性を秘めてはいますが、上昇のストリームは六三には届いていないのです。しかも、比すべき九二は自らの信ずる先(六五)に向かって進んでおり、六三は仲間も得られず、寄る辺も見失って虚無状態です。兌においてカットされる部位(果実をもぐ時に折られる柄)に当たるため、もいだ人は甘さを享受できますが、六三自身は実を失ってしまうわけです。この比喩が現実的に何を象徴するかは各人で異なってきますが、見てきた事例に共通することは、実体のない思想誘導に陥ったような状態になりやすいということです。大概、この六三の時期には一つの指針とされる人物や書、方針などがあるのですが、このテーゼとなっているものが、実は中身のない虚ろなものであることが多いのです。そしてこのことが判明すると、必然的に、それを信じて行動していた人達は正常な思考を失って迷走状態となり、時に制御不能となって、あらぬ事態へと暗転していく傾向があります。特に、子供や後継者を育成する時、資質や能力は認めても、どこか将来に悪い予感を覚えてしまう面があります。そんな状態から脱却するには、一種の洗脳状態を解き放って自分を取り戻さなくてはなりません。伏卦は地天泰で内卦が兌から乾に変わります。この乾という全陽の意志の強さと自発性、そして良識を持つことが、六三の時を生きる処世術になるでしょう。

◆六四

陰位陰爻の正位、かつ初九と正応。根は柔軟で心優しい性格です。ただ、状況的には外卦坤が震に化する時であり、穏やかな状態が一変して、大なり小なり土台を覆すような出来事が起きやすくなっています。大概、この刺激的で衝撃的な展開に平静さを失いますが、一時的なものです。陰ならではの包容力で受け入れてしまうと、その内に不安定な揺らぎの中から新しい秩序が生まれてきます。たとえ状況的に悪く思えても、事態が収束する頃には結果オーライという気持ちになることが多いでしょう。事例としては、普段は競合する相手と共通の目的のためにタッグを組む(チームを結成する)、お互いに譲れない思いから全力で奮闘したり意見をぶつけ合うも後に和解する、各自が別々の手段を用いて同じゴールを目指す、親しい人とのプライベートな付き合いの中で悩んでいた気持ちに整理をつける…といったことが起きています。自分の中に沈殿している鬱積した感情が、この六四に至って一気に爆発するような状態が訪れます。これには怒りなどの激しい感情を伴う場合もありますが、悪意からではなく、誰かを救おうとか何か大切なものを守ろうというような“希望”を失いたくない純粋な気持ちから出てくるものです。こうした経験の中で互いの存在を有難く思ったり、改めて全幅の信頼を置けるようになっていきます。

◆六五

陽位陰爻で不当位であり、実行力でリードして権威を維持するタイプではありません。六五自身が変容の過程にあるために、自主的にしていることなのになぜか本筋から外れている気がしたり、自分の本心はどこにあるのかと自問する傾向があります。個人的には直観が高まっていて知的発想力は旺盛なのですが、現実との遊離感を覚えるために、具体的な行動や細かな仕事をするには不安定さが付きまといます。そのため六五には現場で活躍する人間が必要で、ぜひとも正応なる九二、および希望を抱えた初九を招いて尽力してもらわなければなりません。仮に六五自身に大きな力があっても今はそれを誇示する時ではなく、優秀な人材を登用して育てることが望ましいのです。初九、特に九二は即戦力となり得る実力を持っている可能性があり、加えて学生のような実害にとらわれない自由な知性を発揮しやすいため六五と通じ合うことも多いでしょう。直ぐにでも手なずけて傘下に入れたいと思うかもしれませんが、哲学的な話に終始して実用性を損なわないように気をつけて下さい。時には抽象論をスルーされ、「もっと社会や世界を見ましょうよ」と地上に引き戻してくれるかもしれません。彼らは必要な資質を身につけるためには努力を惜しみませんが、それぞれに固い信念も持っており、思い通りには動かないこともあります。知恵と人徳によって人々を導けるように、自分自身も日々精進し続けることを求められます。

◆上六

臨は、初九・九二の「咸」、六三の「甘」、六四の「至」、六五の「知」、そして上六の「敦」という構成になっています。内卦兌の二陽を希望の光として育むため、外卦坤は母親のような優しさと父親のような厳しさを、それぞれ六四・六五に織り交ぜて学んできました。最終的にこの上六では、敦厚(誠実で人情に厚いさま)を備えるべく、それに適した状況や人物に関わっていくことになります。事例を挙げると、この上六では何かを達成するために厳しい特訓や試練に耐える、互いの心情や苦悩を打ち明けてパートナーシップを再確認する、賢人だが世俗にまみれることを嫌う気難しい人物から教えを請うために必死になって自分をアピールする、家族や大切なものを守るために自らを犠牲にしてでも奉仕する…などが見られました。これらの共通点は、一般常識の通用しないような条件付けられた環境の中で、自分自身や関わる相手の素の気持ちと向き合いながら、求めるものや守りたいもののためにエネルギーを投入する姿勢がある、ということ。上六は次の観卦の兆候の中にあるので、ここでは内側から主体的に経験を求める側と、外側から客観的に相手を観察し見定める側とに分かれます。それぞれの側に事情や願望があり、自分の立場を守ろうともしますが、この両者の間の溝を埋めるのが「敦」というわけです。この敦の心が二人の間を繋ぐと、わだかまりが消えて、非常に強固な関係を築けるようになります。



※大意は2009年8月24日に、爻意は2010年6月18日に追加更新。


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