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尾崎紀世彦 「 さよならをもう一度 」 1971年 【CD音源】

2020年06月03日 | 音楽
尾崎紀世彦 「 さよならをもう一度 」 1971年 【CD音源】

尾崎紀世彦さんと云えば私が少年の頃、 彗星の如くスターになられた方ですが、
元はと云えばカントリー&ウエスタンの大御所、 ジミー時田さんがリーダーの
「マウンテンプレイボーイズ」のボーカルの方でした。
愛称は「キーヨ」。 ダイナミックな歌唱力と、 立派なもみあげや髭がトレードマークでしたね。

尾崎 紀世彦 ( おざき きよひこ 1943年 昭和18年1月1日生まれ )
日本のポップス歌手。 神奈川県茅ヶ崎市出身 ( 生まれは東京都渋谷区 )
1960年にハワイアンバンド 「 ヒロ・ハワイアンズ 」 結成。
1965年にカントリーバンド 「 ジミー時田とマウンテンプレイボーイズ 」 に加入。
1967年からコーラス・グループ 「 ザ・ワンダース 」 を経て、
1970年にソロ歌手としてデビュー。
ヒット曲を持ちながら「 いい歌を自由に歌い続けたい 」との思いからスタンダード・ナンバーを中心として、
ジャンルや新旧を問わず数多くの名曲をカバーし、 独自の歌手路線を歩みました。
歌そのものの楽しさや素晴らしさを伝えることを生涯追求しました。
( 以下はウィキペディアから参照しました。 敬称略。 )

生い立ち
東京都渋谷区に男三人兄弟の次男として生まれ、 生まれてから6年間を渋谷区で、
その後、 神奈川県茅ヶ崎市で育つ。 父:尾崎繁(芸名:藤田繁)と
兄:藤田彰彦はクラシック・バレエのダンサーで演出家、
母:礼子はショーダンサー・日劇ダンシングチームの一期生。
父方の祖父はイギリス人のHenry Buckingham Lucas、本人は日英クォーターです。
幼少の頃からラジオのFENでジャズやカントリー等に親しんでいました。
茅ヶ崎市立第一中学校卒業後、 YMCA国際ホテル学校へ進学する。
趣味は小学生で始めたサーフィンや乗馬、 祭りの神輿担ぎやハーレーの収集とツーリング、
縦目メルセデス(オールドベンツ)でドライブ、 ヨット、 沖縄でスクーバ、
射撃、 銀細工、 シルバーアクセサリーの収集に料理と多趣味。

バンド時代
ヒロ・ハワイアンズ 1960年 - 1964年
13歳の時に父にウクレレを買って貰い、 中学の同級生6人でハワイアンバンドを結成する。
教則本が先生だった。 初めて覚えた曲は、おそらく「星は何でも知っている」。
箱根ホテル小涌園のバンド募集のオーディションに合格し、 17歳でセミプロデビューする。
ここで司会を担当したのが大学生だった露木茂(元フジテレビ)。
1964年には念願の日劇出演を果たすが、 目標達成とメンバーの学業と家業の忙しさから解散に至る。

ジミー時田とマウンテンプレイボーイズ 1965年 - 1966年
契約した芸能プロダクション東京ハワイアンズが、 ジミー時田と同じ所属先という縁でセカンドボーカルとギターで参加する。
アルバム『尾崎紀世彦/カントリー&ウェスタンを歌う』では、演奏を「ジミー時田とマウンテンプレイボーイズ」に在籍した
石田新太郎とシティライツが担当した。 ( ジミー時田は、1967年から音楽活動の場をアメリカに移している。 )

ザ・ワンダース 1967年1月10日 - 1969年
1967年にはGSでも活躍したコーラス・グループ、ザ・ワンダースを結成する。
初期メンバーは、 栗敏夫と朝紘一、 尾崎の3人。
TBSやNHKのポップス番組に出演し、 洋楽カヴァー、 テレビ主題歌などをリリースする。
「ジ・エコーズ」名義で『ウルトラセブン』の主題歌・挿入歌も担当。
主題歌冒頭で連呼される、3番目の「セブン〜♪」が尾崎の声である。
シングル 「 また逢う日まで 」 レコーディングの際には、既に解散していた元メンバーが再結集しバックコーラスを務めた。

ソロ
日音の村上司プロデューサー ( 後の日音・社長、会長 ) の熱心な働き掛けがあり、
1970年8月に 「別れの夜明け」 でフィリップス・レコードよりソロデビュー。
デビューにあたって 「ザ・ワンダース」 のリーダー小栗俊雄が歌手を引退、
日音に所属し尾崎のディレクターとなった。
ダイナミックな歌唱は業界内で話題となるが、
同年9月、 タクシー乗車中に六重衝突という交通事故に巻き込まれ、
4ヶ月に及ぶ入院生活でレコードの宣伝活動ができず売れなかった。

1971年、「また逢う日まで」「さよならをもう一度」「雪が降る」「愛する人はひとり」が次々とヒット、
出身地・茅ヶ崎ではワンマン・ショー、大阪にて初のソロ・コンサートを開催する。
2枚目のシングル 「 また逢う日まで 」 が売り上げ100万枚を突破、
第13回日本レコード大賞大賞と第2回日本歌謡大賞大賞をダブル受賞する。
日本レコード大賞を受賞した際に両手でVサインを、さらにトロフィーを持ち上げて
笑顔でVサインをしたパフォーマンスは、今もテレビで流れる名シーンは有名です。

同年、『第22回NHK紅白歌合戦』に白組トップバッターとして初出場する。
翌1972年、「ふたりは若かった」「こころの炎燃やしただけで」「あなたに賭ける」とヒットを重ね、
「ゴッドファーザー〜愛のテーマ」のカヴァーで、紅白歌合戦に連続出場。
1990年にも『第41回NHK紅白歌合戦』に出場している。
1979年、「My Better Life」をリリース。
歌謡番組を始めとして『ミュージックフェア』『サウンド・イン"S"』などのポップス番組に出演する。
その後も、『青春のポップス』『ときめき夢サウンド』『魅惑のスタンダードポップス』ほか多くの番組で、
レパートリーである数々の映画音楽、ジャズを披露。

1987年には「サマー・ラブ」がスマッシュヒットする。
1994年より、音楽バラエティ番組である『THE夜もヒッパレ』にも出演。
1995年、ソロデビュー25周年の記念コンサートを開催する。
同年に放送されたアニメ『空想科学世界ガリバーボーイ』では、
主題歌「燃えろ!ガリバーボーイ」を熱唱し、この番組で尾崎の歌声を知った若者も多い。
ソロ活動以外にも、1990年代より旧知の演奏家たちと
ジャズ、 ハワイアン・カントリーライブのジョイント・コンサートを定期的に公演する。
新たな試みとして
2007年に行われた、 オーケストラとのポップスコンサートも恒例となった。
ソロツアーとして、
2010年2月から「プレミアムコンサート」が開催された。
2011年4月、 公演予定 ( 5月 ) のコンサートを 「 病気療養のため中止する 」 旨、主催者より発表される。
翌年5月、 度重なる取材・報道に対し 「 1年以上前から入院している 」 ことが、親族より明かされた。
肝臓癌のため、 東京都内の病院で死去。 69歳でした。

9月2日、 ホテルオークラ東京にて 「 尾崎紀世彦をしのぶ会 」 ( 発起人:今井直次・前田憲男・猪俣猛・筒美京平 ) が開催され、
長年親交があったペギー葉山、 大林宣彦、 上條恒彦、 尾藤イサオ、 つのだ☆ひろ、 錦野旦ら
多くの音楽関係者・友人が出席して追悼した。
ハワイ出身女性との最初の結婚では1男1女を、 2度目の結婚では1女をもうけた。
療養の際には、交流が続いていたハワイ在住家族の献身的な看病があったという。
2012年12月30日、日本作曲家協会より、 第54回日本レコード大賞特別功労賞が贈られた。
2013年10月1日、「大衆音楽の殿堂」顕彰者に入選、殿堂入りした。

エピソード
1972年3月27日から始まった第44回選抜高等学校野球大会の入場曲にも『また逢う日まで』が選ばれ、
当日、観客席から入場行進を見ていた。
1974年から1980年代、ジミー時田が出演する六本木や新宿にあるカントリーのライブハウスに客として度々現れ、
ジミーに「素敵なゲストが来ている。」とステージに促されてカントリーソングの他『また逢う日まで』を歌わされていた。
茅ヶ崎の自宅隣が元TBS所属でフリーアナウンサーの鈴木治彦の邸である。
小さい頃は庭伝いに垣根を潜り抜けて毎日のように遊びに行き、
有名になってからも鈴木の姿を見つけるや「お兄さーん」と駆け寄っていた。
バイク好きでも知られ、16歳で2輪免許を取得。
Z400LTD(カワサキ)、750カタナ(スズキ)、GSX-750R(スズキ)、
ドゥカティ・パンタ、ハーレー、XLR-BAJA(ホンダ)などを愛車としていた。



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