村下孝蔵 「 冬物語 」 スタジオライブ(音源)より 1985年
本格的な冬の季節が近づいて来ました。
今は遠い世界に旅だたれてしまった村下孝蔵さん。
でも、音の世界にこうして生きているって素晴らしいですね。
今日、ご紹介する 「冬物語」 は余りヒットはしませんでしたが
北海道の札幌を彷彿とさせる歌詞と伸びやかな村下孝蔵さんの
ボーカルが哀愁漂う名曲になっていると私は思うのですが如何でしょうか?
( 以下はウィキペディアより抜粋しました。 敬称略 )
「初恋」発売の前後に村下は肝炎を患い、「初恋」がヒットしても
テレビ番組にはほとんど出演できませんでした。
また、肝炎が原因で広島と東京の往復が出来なくなり、
1984年末に生活の拠点を東京に移しました。
同年秋から全国ツアーを開始、翌1985年に再び体調が悪化し、
入退院を繰り返します。 この時期に、広島から定年退職したばかりの
父親も東京で暮らし始めます。
1987年に全国ツアーを再開。 この年に催した七夕コンサートは毎年の恒例行事となりました。
1988年、神奈川県川崎市のCLUB CITTA'で行われたベンチャーズのライブにゲストとして出演。
ベンチャーズと一緒に演奏するという夢を叶えます。
1989年、アルバム『野菊よ 僕は…』を発売。
須藤晃によるとこの頃アルバムの売れ行きが落ち込みを見せ、
村下にも須藤自身にも焦りが生じたという。
1992年発売のシングル「ロマンスカー」は「これが売れなきゃおかしい」という思いで制作し、
完成時に村下が「やっと納得する作品が出来た!」と語った渾身の作品であったが売れず、
須藤は「時代が違ってきたんだ」と感じたという。 この時期の村下は試行錯誤の末、
「自分には"初恋"を越える曲はできんかもしれん」「時代は追いかけるものではなく、巡りくるもの。
向こうからやってくるのよ」という境地に至ったそうです。
本格的な冬の季節が近づいて来ました。
今は遠い世界に旅だたれてしまった村下孝蔵さん。
でも、音の世界にこうして生きているって素晴らしいですね。
今日、ご紹介する 「冬物語」 は余りヒットはしませんでしたが
北海道の札幌を彷彿とさせる歌詞と伸びやかな村下孝蔵さんの
ボーカルが哀愁漂う名曲になっていると私は思うのですが如何でしょうか?
( 以下はウィキペディアより抜粋しました。 敬称略 )
「初恋」発売の前後に村下は肝炎を患い、「初恋」がヒットしても
テレビ番組にはほとんど出演できませんでした。
また、肝炎が原因で広島と東京の往復が出来なくなり、
1984年末に生活の拠点を東京に移しました。
同年秋から全国ツアーを開始、翌1985年に再び体調が悪化し、
入退院を繰り返します。 この時期に、広島から定年退職したばかりの
父親も東京で暮らし始めます。
1987年に全国ツアーを再開。 この年に催した七夕コンサートは毎年の恒例行事となりました。
1988年、神奈川県川崎市のCLUB CITTA'で行われたベンチャーズのライブにゲストとして出演。
ベンチャーズと一緒に演奏するという夢を叶えます。
1989年、アルバム『野菊よ 僕は…』を発売。
須藤晃によるとこの頃アルバムの売れ行きが落ち込みを見せ、
村下にも須藤自身にも焦りが生じたという。
1992年発売のシングル「ロマンスカー」は「これが売れなきゃおかしい」という思いで制作し、
完成時に村下が「やっと納得する作品が出来た!」と語った渾身の作品であったが売れず、
須藤は「時代が違ってきたんだ」と感じたという。 この時期の村下は試行錯誤の末、
「自分には"初恋"を越える曲はできんかもしれん」「時代は追いかけるものではなく、巡りくるもの。
向こうからやってくるのよ」という境地に至ったそうです。
日本語の美しい歌詞において、右に出る者がないのではないでしょうか?
「冬物語」は知りませんでした。
何と言うか、芸術的に美しい音の響きですね。
「ここでそう来るか?」という、先の予想が付きづらい旋律で。
村下孝蔵サンだから歌えるけど、素人がカラオケで歌う曲ではないでしょうね。