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松田 正平 「 薔薇 」 1983年

2020年09月17日 | アート
松田 正平 「 薔薇 」 1983年

「 教養の大切さは習ったことを忘れる頃にやって来る 」と説いたのは加藤諦三さんでしたか?クラーク博士でしたか?
忘れてしまいましたが( 汗 )私のような無教養な人間が東京芸大を語るのはたいへん烏滸がましいのはわかっておりますが、
私の数いる従兄弟たちの中に一人だけ、芸大に入学するため三浪までして卒業した、ど根性の持ち主がいました。
その者が申しますには「 芸大に入るためには何年も浪人する覚悟がないようでは卒業はおろか、
画家として大成する事は不可能とさえ言われている 」らしいです。
そして、入学するために一番必要とされるのが高いレベルのデッサン力でそれさえ身につけば、
裏口も表口も金も名誉も一切関係ない国立大学らしいです。
従兄弟は合格する為のデッサン力を身につけるため( コントラストがハッキリとしたデッサン画 )
明けても暮れても予備校に通いながら、確かに一心不乱に描いておりました。
従兄弟の家に行った時には少なくとも全紙サイズの大きなデッサンが5枚はぶら下がっておりました。
喩え、苦学でも受験勉強の出来る従兄弟をとても羨ましく思ったものです。



「 周防灘風景 」 1979年

今日は従兄弟の話ではなく、この肩の力の抜けた絵の描ける「 松田 正平 」と言う画家のご紹介です。
まるで放浪の果てにチョイと筆を持ってみました、と言わんばかりの「 かろ味 」のある油絵に私はとても魅せられました。



「 薔薇 」 1983年

( 以下はウィキペディアから参照しました。敬称は略させて頂きます。)
松田 正平(まつだ しょうへい)1913年1月16日 - 2004年5月15日)は日本の洋画家、山口県宇部市出身。
1913年、島根県鹿足郡青原村(現・津和野町)で久保田家の二男として出生するが、
8歳のころに山口県宇部市の松田家の養子となる。
神原尋常小学校を経て旧制宇部中学(現・山口県立宇部高等学校)に入学。
卒業後は上京して川端画学校に通う。
2年の浪人生活を経て1932年に東京美術学校西洋画科に入学し藤島武二教室に学んだ。
1学年上に同じ山口出身の香月泰男がいた。
美校卒業してまもない1937年10月に渡欧、パリのアカデミー・コラロッシュでデッサンを学ぶ。
1939年に帰国した後、42年山口師範学校(現山口大学教育学部)美術教師となるが、
1年で退職して上京、43年国画会会友に推挙される。戦局が深刻化したため家族とともに宇部に戻り、
炭鉱に雇用され捕虜とともに坑夫として働く。
戦後は山口県光市に移り住み、高校非常勤講師をしながら瀬戸内風景を描く。
1951年に国画会会員となりフォルム画廊で第1回個展を開く(以後ほぼ毎年開催)。
1952年に上京し世田谷区用賀に住む。
この頃から福田恆存『龍を撫でた男』装丁・題字、吉田健一『日本について』『近代文学論』等、仕事の声がかかる。
1955』年から1969年まで、かつてパリ時代に同じアパートに住んだ前田陽一の世話で
NHKフランス語講座(ラジオ)テキストの表紙絵を描く一方、国画会を中心に作品を出展する。
1963年、千葉県市原市鶴舞に転居、米蔵を改装・移築してアトリエを構える。
1983年に「松田正平画集」出版記念回顧展を開催。出品作品に対して「油彩に自在、新鮮な世界を切り拓いた画業」が評価され、
翌1984年、第16回日本芸術大賞が贈られる。1995年に宇部に帰郷する。



「 四国犬 」 1990年

松田の画業を高く評価した美術評論家で現代画廊主の洲之内徹がエッセイシリーズ『気まぐれ美術館』で
たびたび言及したことが広く世に知られるきっかけとなった。
2004年、腎不全のため宇部市内の病院で死去。
2013年には山口県立美術館、神奈川県立近代美術館で「生誕100年松田正平」展が開催された。

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