東京都の方針で、今年度から、公立の小中学校の「教頭」は「副校長」という名称に変更された。
子供たちが通う中学校の「副校長」の話によると、「主任」や「主幹」の先生たちとの、明確な「住み分け」を目的に行われた改正らしい。
だから、名称が変更されても、やってる仕事とか、やらなければならない仕事は一緒だそうだ。
名称変更がなされた分、名刺やいろいろな書類や、事務的に必要なもの、印刷された物の変更が生じて、それにかかる手間や金額も、結構なものになるらしい。
そんな、こんなもあってか、彼はこの名称に違和感があるらしく、
「いやあ、『副校長』とか言われても、自分自身、ぴんと来ないし、『ふくこ~ちょ~せんせ~』なんて感じで言いにくいし、子供たちからは、『副教頭先生』なんて言い間違いされて、『俺は格下げになったのか~!』と、冗談で言い返したり、いろいろ大変ですよ。副校長と言ってくださってもいいですけど、今までどおり、教頭と呼んでくださっても、私は一向にかまいません・・って、対外的には内緒ですけど~・・」
な~~んて言っていた。
反対に、子供がこの春卒業した小学校の「副校長」は、その名称が嬉しいのか、格上げになったと勘違いしてるのか、単に、行政に対して忠実であろうとしてるのかわかんないけど、子供たちが
「教頭先生」
と呼ぶと、いちいち、
「いや、副校長先生だ。」
と、訂正してまわるらしい。
どっちの「副校長」がいいのかとか、そういった判定はしないけど、名称変更があると、しばらくは、現場は混乱する・・というのを、身をもって体験しつつある。
蔑称だという理由とか、放送禁止用語とか、そういった関係で変更した名称もあるよね。
一番最近だと、「痴呆症」は「認知症」に変更されたよね。
確かに、当事者の方たちや、その家族にしてみたら、「痴呆症」という呼び名は辛いであろう。
でも、本当に大切なのは、呼び名を変更することじゃなくて、そういった人たちに対する世間の認識を改めさせることや、そういった人たちや家族をバックアップし、ケアしていくことなんじゃないかな。
名称変更をして、ソフト路線にすることで、煙に巻かれているような気がするのは、coconutだけであろうか。
そういった本当に必要な対策が取られることこそが、名称変更よりも必要なことだと思う。
だから、名称ばっかにこだわる安易な「人権団体」とかは、私は嫌いである。
「男女平等」を叫び、お茶くみを拒否しながら、飲み会ではがんとして払わず、当然のように男に払わせるバカ女は、同じ女としてもっと嫌いである。
またまた話題が逸れてしまった・・・
昔は本当に、ストレートというか、凄かったよね。
小学校の低学年の頃、うちにあった「ヘレン・ケラー」の本。
帯に書いてあったのは、
「めくら、おし、つんぼにまけぬ、あいのひと」(あいのひと、は、愛の人ね)
だった。
今、漢字変換しようと思ってやってみたけど、変換されないよ~(笑)
言ってみりゃあ、そのとおりなんだろうけど、それに対して、抗議ののろしを上げる人は、あの時代にはいなかったわけだ。
そういった言葉が、蔑称だっちゅ~意識もなかったんだろうと思うけどさあ・・
みんなの知識レベルがあがり、変に「人権だ!」「人権だ!」と騒ぎ立てる人が出てきて、
「ああ、そういった言葉は使ってはイケナイのね。」
と、みんなが後ろ暗い気持ちになって、消えていったってとこなのかなあ・・・
そういった言葉を復活させよ!!なんちゅ~ことは、全然、全く、夢にも考えていないけど、それに関連して(?)「あきめくら」だの「つんぼさじき」だのって言葉も死語になってしまったよね。
「恋にめくらになっていたのよ~!!」
なんちゅ~表現も、使ってはイケナイんだよね~(って、なんか今日は、挑戦的??)
「恋は盲目」はOKでも、「恋に盲」はNGなのである。
あと、100年か200年したら、国語の・・というか、古文の教科書に、こういった言葉が載って、
「盲(めくら)・・目の見えない人。盲目の人。蔑称として、時の政府から使用禁止になった。」
ってなるのかなあ・・・
しつこいけど、そういった言葉を復活させろ!とか言う気は、本当にないよ。
ただ、昨今の風潮、行き過ぎがあるような気が、ど~してもするのよね。
小学校の低学年向けの「ヘレン・ケラー」の本の帯、アホで早とちり、思いこみの激しいcoconutは、しばらくの間、
「めくら、おし、つんぼにまぬけあいのひと」
だと思っていた。
本当に可哀想な人だったんだなあ・・と、内容以上に思っていたcoconutのほうが、「まぬけ」な人だったわけである。
子供たちが通う中学校の「副校長」の話によると、「主任」や「主幹」の先生たちとの、明確な「住み分け」を目的に行われた改正らしい。
だから、名称が変更されても、やってる仕事とか、やらなければならない仕事は一緒だそうだ。
名称変更がなされた分、名刺やいろいろな書類や、事務的に必要なもの、印刷された物の変更が生じて、それにかかる手間や金額も、結構なものになるらしい。
そんな、こんなもあってか、彼はこの名称に違和感があるらしく、
「いやあ、『副校長』とか言われても、自分自身、ぴんと来ないし、『ふくこ~ちょ~せんせ~』なんて感じで言いにくいし、子供たちからは、『副教頭先生』なんて言い間違いされて、『俺は格下げになったのか~!』と、冗談で言い返したり、いろいろ大変ですよ。副校長と言ってくださってもいいですけど、今までどおり、教頭と呼んでくださっても、私は一向にかまいません・・って、対外的には内緒ですけど~・・」
な~~んて言っていた。
反対に、子供がこの春卒業した小学校の「副校長」は、その名称が嬉しいのか、格上げになったと勘違いしてるのか、単に、行政に対して忠実であろうとしてるのかわかんないけど、子供たちが
「教頭先生」
と呼ぶと、いちいち、
「いや、副校長先生だ。」
と、訂正してまわるらしい。
どっちの「副校長」がいいのかとか、そういった判定はしないけど、名称変更があると、しばらくは、現場は混乱する・・というのを、身をもって体験しつつある。
蔑称だという理由とか、放送禁止用語とか、そういった関係で変更した名称もあるよね。
一番最近だと、「痴呆症」は「認知症」に変更されたよね。
確かに、当事者の方たちや、その家族にしてみたら、「痴呆症」という呼び名は辛いであろう。
でも、本当に大切なのは、呼び名を変更することじゃなくて、そういった人たちに対する世間の認識を改めさせることや、そういった人たちや家族をバックアップし、ケアしていくことなんじゃないかな。
名称変更をして、ソフト路線にすることで、煙に巻かれているような気がするのは、coconutだけであろうか。
そういった本当に必要な対策が取られることこそが、名称変更よりも必要なことだと思う。
だから、名称ばっかにこだわる安易な「人権団体」とかは、私は嫌いである。
「男女平等」を叫び、お茶くみを拒否しながら、飲み会ではがんとして払わず、当然のように男に払わせるバカ女は、同じ女としてもっと嫌いである。
またまた話題が逸れてしまった・・・
昔は本当に、ストレートというか、凄かったよね。
小学校の低学年の頃、うちにあった「ヘレン・ケラー」の本。
帯に書いてあったのは、
「めくら、おし、つんぼにまけぬ、あいのひと」(あいのひと、は、愛の人ね)
だった。
今、漢字変換しようと思ってやってみたけど、変換されないよ~(笑)
言ってみりゃあ、そのとおりなんだろうけど、それに対して、抗議ののろしを上げる人は、あの時代にはいなかったわけだ。
そういった言葉が、蔑称だっちゅ~意識もなかったんだろうと思うけどさあ・・
みんなの知識レベルがあがり、変に「人権だ!」「人権だ!」と騒ぎ立てる人が出てきて、
「ああ、そういった言葉は使ってはイケナイのね。」
と、みんなが後ろ暗い気持ちになって、消えていったってとこなのかなあ・・・
そういった言葉を復活させよ!!なんちゅ~ことは、全然、全く、夢にも考えていないけど、それに関連して(?)「あきめくら」だの「つんぼさじき」だのって言葉も死語になってしまったよね。
「恋にめくらになっていたのよ~!!」
なんちゅ~表現も、使ってはイケナイんだよね~(って、なんか今日は、挑戦的??)
「恋は盲目」はOKでも、「恋に盲」はNGなのである。
あと、100年か200年したら、国語の・・というか、古文の教科書に、こういった言葉が載って、
「盲(めくら)・・目の見えない人。盲目の人。蔑称として、時の政府から使用禁止になった。」
ってなるのかなあ・・・
しつこいけど、そういった言葉を復活させろ!とか言う気は、本当にないよ。
ただ、昨今の風潮、行き過ぎがあるような気が、ど~してもするのよね。
小学校の低学年向けの「ヘレン・ケラー」の本の帯、アホで早とちり、思いこみの激しいcoconutは、しばらくの間、
「めくら、おし、つんぼにまぬけあいのひと」
だと思っていた。
本当に可哀想な人だったんだなあ・・と、内容以上に思っていたcoconutのほうが、「まぬけ」な人だったわけである。