鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

今日ももう4時が過ぎた。

2008-07-15 17:16:50 | 直言!
何日か前の残り物で食べた。
ご飯も私が食べてなくなった。
12時半まで昼食をしながらテレビを見ていたが眠たい。猛烈に眠たい。
睡魔の中で新聞を読み始めるが睡魔に勝てない。
寝てしまった。うとうととよく寝る。起きると2時半まわっている。
うとうとするが新聞を読み始めると目が覚めてきた。
ようやく頭の回転がまわりそうだ。
電車の中・街の中の原稿を作ってセットアップした。
夕食の前にブログを1本作ろうと思って書き始めた。
岐阜小旅行の話はたくさんあるがそれはネットで紹介するときにのせよう。
まあみんな小学生にかえった旅だった。
あんなに気を使わないで皆わいわいがやがやと話していた旅は初めての体験だった。楽しかった。皆もう少年少女である。
大勢の参加、幹事たちの人徳である。
本当に楽しかった。
幹事たちの準備は大変だったが皆楽しく過ごすことができた。
これは高校時代の女友達の旅と違う楽しい旅になった。
いくらいい格好しても皆の家庭も家族も知っている。
私がどんなにええ格好しても母親のがむしゃらに働いたあの姿は皆知っている。無学でただ廃品回収業を生業にして会社員の少ない月給取りの家計を支え子どもも女の子は高校まで男子は大学まで教育つけてくれた。
父親は娘の私からすればずっとずっと会社員を通して母親に苦労かけたことか記憶ない。しかしこうして振り返ると力仕事の母親を影で支えたのは品物の相場を教えて売り時と買い時を母親らに教えた。
売り時になるまで倉庫で保管した。
1950年代はまだまだ日本の国は貧しかった。
電線泥棒がいた。廃品回収業者に売る人がいた。そんな世相の新聞記事を見て母親にそんなことは裏から教えた。「盗品は絶対に買わないように」と言っていた。
父親は子どもの教育は影で見ていた。
私が高校生になった時父親はいつもヒヤヒヤしていただろう。
当時、マルクス・レーニンの著書を好んで読む人が多くいた。
私は高校1年のころから大学ノートに日記をつけて小説を書いたりしていた。愚作だったが父親は物を書くということに心配していたのだろう
あの当時の物書きはけっこう社会主義傾向が多かった。
そんなこともあって娘の物書きにヒヤヒヤしていたのだろう。
たまに私の本棚を見ていた。1度父親が本棚をみているところ私は見た。
その時は人の本棚を見てと気分が悪かったが口答えなんて出来ない。
ただいつも「政治に関与するな」が口グセだった。
政治に関与と言っても日本の政治に参加できないことは漠然とわかっていた。
なぜ政治に関与するなと言うのだろうと思っていた。
大人になって気がついた。
父親の故郷は朝鮮半島、分断国家になっていた。分断国家は双方の国の支持をする民族団体に関与だったことに気がついた。
私だけに限らず父親の弟たちにもそうした。
しかし1人は北朝鮮を支持する団体に関係していく。これはその人の考えだったがなんと言っても父親の姉の娘婿の影響があっただろう。
こうした兄弟の生き方に父親は家長として兄弟を統率するのにさらにもっと中立の立場になり双方の民族団体に決して関係することがなかった。
娘の私が雑誌記者から在日韓国人の新聞記者になった。
日刊紙の記者時代はいい加減大人になっている娘なのに政治にのめりこんだら大変と考えていたのだろう。一生懸命に猛烈に働く私、実家に帰ると父親は「仕事はいいかげんにしとき」と言っていた。それは後になって気がつく。
どれもこれも韓国・日本政府に対する過去の歴史問題に関する取材に「いいかげんにしとき」と言っていた。
日本で生まれて日本で生きて日本で骨を埋めていく。
物事は客観的に見て偏ってはいけないという忠告だった。
そして韓国系の民族機関の新聞記者になった時はやっと私の仕事を認めてくれたのだろう。正月や盆になると父親の兄弟の家族がやってくる。韓国式の祭事が終わると甥や姪に「我が家の渡日史」を話していたと言う。そしてこれ以上知りたかったら「韓国に行って勉強すればいい」と言った。
客観的に物事を見ることを教えてくれたのは父親だった。
最後まで母親に苦労かけて亡くなった。
ずっと会社員を通した父親は最後母親に恩返しをした。
長い間の勤めは厚生年金受給者だった。父親が亡くなった後は母親が遺族年金を受給した。半分の金額になるが好き勝手に使っていた。
ホームヘルパーに使っていた。これが最後の父親が母親にした恩返しだった。
日本が高度成長期のときに母親の商いはそれなりに稼いだのだろうか。
母親は父親の薄給に「あんたの給料は3日で稼ぐ」と言ったらしい。それから給料はわずかしか家に入れないで会社の帰り京都で美味しいものを食べて好き勝手にしていた。
この話は父親の姉に聞いたことがあった。
「それで家に給料をいれなくなったんやで」と。
人生、どこの家もいろいろある。
父親は母親の商いを影で支え子どもの教育は精神的には支えた。しかし家計の出所は全部母親の商いからだった。そして1番母親にきつく言っていたのは借金をするなだった。だから母親は現金で商い用の倉庫の土地を買っていった。娘の私から見てもやっぱりすごい母親だったのかと改めて認識している。
自分はいい物は着ないで食べる物も食べないで生きた人だった。
父親はそれでも家長として死ぬまで厳しい人だった。
母親はこんなことも相当苦労した。
母親の生きた人生は町の人が皆知っている。
誰もが言う。
「あんたのおかちゃんは偉い人やった。男の俺も真似でけへん」と言う。
この言葉を聞いて母親の人生は子どもたちに地域で暮らす信頼を作ったという自負心につながっていく。また墓参りしたときには心でありがとうということにしょう。
それがまた母親の憎たらしい言葉が聞こえてくる。
「あんたは仕事するようになってからはちっとも家に来てくれへんようになった」と声が聞こえてくる。
同級生たちは言う。
「ヒラカワ、だんだん母親に似てきたな」と言う。
皆母親とのつながりがあったのだろう。
この言葉に私は「いらんは。あんな不細工な母親に似るのは」と言っている。
草葉で母親が同級生の言葉に1番喜んでいるだろう。母親が捲いた商いは弟がしている。弟のことも同級生が知っている。地域で暮らすことはこんなことなのだとしみじみ思う旅になった。
同級生と過ごした飛騨高山の旅はネットで紹介していこう。

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