遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

鼓の会で囃子を打ちました~遊行柳~

2019年03月18日 | 能楽ー実技
 春ですね。
 クリスマスローズが満開です。







先日、鼓の会があり、遊行柳の囃子を打ちました。

小鼓との出会い

何十年も前、謡、仕舞を習い始めて何年かたった頃、外にも何かやってみたいと思うようになりました。

      おお、そうだ。鼓だ!

当然、何の知識もありません。触ったこともない。
どうやら、能の鼓には2種類あるらしい。大鼓と小鼓。

そこで、能楽堂でじっと観察(鑑賞ではなく)。すると、どう考えてみても、小鼓は、大鼓の3倍くらい数多く打っているのです。

どうせやるなら、多く打てる方がいい!・・・・・
という、笑えるほどイージーな判断で小鼓に決定!

それが間違いのもとでした。
ポン、ポン、ポンとよい音が出る、はずでした・・・・・・・が、バケツの底を叩くほどの音さえしない。
後で知ったのですが、小鼓を始めたら3年間は音が出ないと心得よ、だったのです。

それにもう一つショックだったのは稽古場の見学。
高級そうな着物を装った、上品な御高齢の女性(お婆さん)が、ヨゥ、ホゥと掛け声をかけながら、小気味よくポンポンと打っているではないですか。しかも、無本。

こんなことが、自分にできるのだろうか?

ゴムボートでひとり、大海へ漕ぎ出すような気持ちでした。

素人が舞台に立つ

最初は、心臓が喉から飛び出るかと思いました。
ここはどこ、わたしはだれ・・・・頭が真っ白になり、舞台上で立ち往生。
回を重ねるうちに、少しずつ慣れてはきましたが、今でも、緊張がとれません。

舞台は忘れそうになった頃にやってきます。その時はあれこれ反省しても、すぐに忘れてしまいます。
情けないことに、いまだに、満足に帯が結べません。袴の紐もすぐに緩んでしまう

一番の問題は、ぶっつけ本番であることです(大きな曲では、事前の申し合わせもありますが)。
普段の稽古は、師匠と一対一。師匠が、謡、笛、大鼓、太鼓を一手に引き受け、それに合わせて、小鼓を打ちます。
ところが、いきなり、さあ本番。横に並ぶのはプロばかり。

能の囃子は、能管、小鼓、大鼓、太鼓、すべて一人ずつです。(翁の場合は例外で、小鼓が3人)

謡いも含め、それぞれが主張し、せめぎ合うところに、何とも言えない緊張感が生まれます。
予定調和の安全運転では、面白くない。

ですから、プロの方も手加減をしてはくれません。




                      ↓組み立てると


          my 小鼓(蕪蒔絵鼓筒、江戸中期、古皮)
蕪絵は、「根が張る」を「音が張る」ともじって、好んで使われます。
蕪は「良く実る」から転じて「良くなる」とも。こんな所にも、遊びごころが。


遊行柳という曲

遊行柳の手付け(楽譜)です。
何の変哲もない謡本ですが、赤で小さく書いてある部分が小鼓の手です。これがすべて。後は、練習あるのみ。
一番の難関は、暗譜です。







小鼓を始めてみてわかったのですが、早い曲よりもゆっくりしたものの方が、はるかに難しい。
勢いで打っていくのと違い、ゴマカシがききません。

ゆっくりの曲は位の高いものが多く、情感を表現できなければ退屈このうえない。

ですから、寂閑とした雰囲気を保ったまま、最後は消え入るように終わる遊行柳は、謡も囃子も力量が問われる能です。

今回の囃子は、遊行柳、後場です。 

夜、柳の精が白髪の老翁姿であらわれ、遊行上人一行に、柳にまつわる故事を語る場面から始まります。
年老いて、弱々しい老翁ですが、華やかな都の情景を生き生きと語ります。

「~柳桜をこき混ぜて、錦を飾る諸人の、華やかなるや小簾の隙、洩れくる風の匂ひ来て~

能・遊行柳は、桜の季節の物語りなのでしょうか?

西行が、柳の下で休み、歌を詠んだのは水無月(7~8月)半ば。
芭蕉がこの地を訪れ、句を詠んだのは6月初旬。

能・遊行柳、導入部、道行きで、
「♪~心の奥を白河の。関路と聞けば秋風も。~♪」
と従僧たちが謡います。

寂しさを出すため、季節は設定は9月に設定されているのです。

ですから、後場に、「~柳桜をこきぜて~」とあるのは、桜で華やかさを少し加えて、老柳の精が、よわよわしく舞を舞い、消えていく寂寥感をきわだたせるためと考えられます。

このように、デリケートな雰囲気を小鼓で打てたでしょうか。
もしよかったら聞いてみてください。青柳之舞の小書付きです。

囃子 「遊行柳 青柳之舞

ps. 誤ってICレコーダ全削。あわてて復活ソフトかけるも、一部上書きされ、最後の部分が欠けています。まちがえた箇所もいくつか。それに鼓の音もイマイチだし・・・言い訳ばかりですがよろしく。
ps. 小書きとは、能の特殊演出のことです。小書きがつくと、通常とは少し異なるバージョンとなり、難易度が上がります。「遊行柳 青柳之舞」の場合は、シテの舞いが、通常の序之舞から青柳之舞に変わります。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

能・遊行柳

2019年03月17日 | 能楽ー実技

                        フッキソウ

庭の片隅に、また、見逃しそうな花が咲いています。

フッキソウ(富貴草)、キチジソウ、キッショウソウなどと、結構な名前がついていますが、名は葉の様子から来ていて、花はイマイチとか。
私としては、ドウダ!と言わんばかりの花よりも、ひっそりと咲くこんな花に心が動きます。


高札についてしばらく見てきました。
キリシタン札や明治政府、五榜の掲示のドタバタ劇から高札の終わりまで、まだまだ続きます。

が、少し疲れたので、能のよもやま話などをボチボチ。

例によって、たまりにたまった能関係の故玩を紹介しながらです。
お付き合いをよろしく。


能楽の絵

能を描いた絵は、江戸時代から、多数描かれています。

江戸時代は、基本的には、絵師による肉筆の一品物。
歌舞伎とちがって、人気役者の浮世絵に相当する物は存在しません。 
ただ、わずかですが、勧進帳(安宅)や俊寛など歌舞伎にもある(元々、能を歌舞伎にアレンジした)演目や歴史上の有名事件などには、能の浮世絵があります。
明治以降は、肉筆と錦絵の両方があります。残された品も多いです。

次に描かれた場面についてです。
能絵には、大きく2種類あります。
①実際に能舞台で演じられる様子を描いたもの。
②能のストーリィのなかのある情景を写実的に描いたもの。
②に関しては、能舞台では、あらゆるものをギリギリまでそぎ落としてあり、演出も実にあっさりしています。ですから、情景はすべて想像で描かれたものです。

江戸時代の絵は、ストーリィ中の情景描写が多い(②)。
逆に、明治以降はほとんどが舞台絵です(①)。


能 『遊行柳』

 遊行上人(ワキ)が従僧たち(ワキツレ)を伴い白河関を越えて陸奥にやって来ると、一人の老人(前シテ)が現れ、かつて遊行聖が通った古道を教え、そこに生えている名木「朽木柳」に案内する。老人は、西行がこの柳のもとで休み、歌を詠んだ事を教えると、柳の蔭に姿を消します(前場)。
             (中入り)
 その夜、一行が念仏を唱えていると、老柳の精(後シテ)が現れ、上人の念仏で草木まで成仏できた事を感謝する。老柳の精は、華やかだった昔を慕い、柳にまつわる様々な故事を語り、よわよわと舞を舞う。やがて、夜明けとともに消えてゆき、あとには朽木が、残っているだけだった(後場)。

観世小次郎作。
世阿弥の名作『西行桜』を意識して作られました。

派手な場面は何一つないけれど、しみじみとした情感あふれる、能らしい能です。

   「道のべに清水流るる柳蔭 しばしとてこそたちどまりけれ」
                           西 行


    http://www.longhat.fan-site.netfolder_hosomichitr_05page_tr05_01.html
        史蹟:遊行桜;栃木県那須郡那須町芦野

芭蕉は、謡曲にも造詣が深かったようです。
奥の細道では、「殺生石」を訪れた後、この地に足を止めました。
敬愛する西行法師が詠んだ「清水流るる」の柳を訪れ、その下で、自分も休んでみたかったのでしょう。
感慨に耽っているうち、気がつけば、田植えは終わっていた。                         
    田一枚植えて立ち去る柳かな」
                芭 蕉


能・遊行柳の絵 




      「遊行柳」(河鍋暁翠 『能楽図絵』)明治32年
    河鍋暁翠は、河鍋暁斎の娘。女性画家。





            遊行柳(作者不明『能狂言図画』)明治時代

いずれも明治時代の木版画、能舞台を描いたもの。
老柳の精(後シテ)が、作り物から出て、遊行上人(ワキ)に、老柳を表す柳の故事を語っているところです。




謡曲画誌

稀覯本です。
江戸時代、本格的に能を解説した唯一の絵入り本。
全八巻のうち、1,4,6,7,8巻しか持っていません                 (ん万円もつぎ込んだのに)。
復刻がなされています(勉誠出版、2011年)が、これはオリジナル。


        橘守国画『謡曲画誌』享保20(1735)年

橘守国は、上方の浮世絵師。詳細不明。
『謡曲画誌』は、50代の作と言われている。

遊行柳は、四巻に載っています。






まず、『遊行柳』全体の解説を2ページほど、書いています。

絵は2枚。いずれも、能の中の一場面をリアルに描いています。

   前場。土地の翁(前シテ)に案内され、老柳の下で、遊行上人(ワキ)が十念仏を唱えている情景。


   後場。柳の精が語る、柳にまつわる故事の一節。
  華やかな都の様子を語る場面です。
 
「🎵~蹴鞠(しうきく)の庭の面。四本の木蔭枝たれて。 暮に数ある沓の音。🎵~」 

 正式の蹴鞠場には、4本(柳・梅・松・楓)の式木が植えられていました。よく見るとそれらが描かれています。

 蹴鞠は、遊行柳のストーリーとは何の関係もない(しいて言えば、柳の木が関係している?)のですが、能の本文(謡曲)では、このように、シュールに飛ぶことが多くあります。
 
謡曲はこの後、次のように続きます。

「🎵柳桜をこきまぜて。錦をかざる諸人の。花やかなるや小簾の隙洩りくる風の匂いより。手飼の虎の引綱も。ながき思いに楢の葉の。その柏木の及びなき。恋路もよしなしや。🎵~」
                              手飼の虎=飼猫 

じつはこれ、源氏物語、第34帖若菜上の一場面です。

「桜の花の下、蹴鞠に興じる柏木たち。その時、女三宮の飼猫が紐をからませ、御簾を上げてしまう。女三宮を見てしまった柏木は・・・・・・」


                  源氏絵 若菜上
   (源氏絵屏風六曲一双の一部。詳細はまたいずれ)


ことば遊びのように、ぴょんぴょん話しが飛んでいく。
能の特徴のひとつです。
こんなところが、移り気な自分に合っているのかも。


 



コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高札場と火事4.火事場泥棒はクズ政治家

2019年03月14日 | 高札

火事にあった高札場

 高札と高札場の日常管理は、町や村の担当。先のブログでみてきたように、火事の際、高札板を避難させることは広く行われていたようです。

 ところが、高札場の方は動かせない。火事で焼失を防ぐ方法はありません。また、暴風、地震などでもダメージを受けました。
 このような場合、修理や新たな高札場の建設が必要となります。そのための手続きと費用負担が大変。
 残された資料は多くありませんが、いずれの町や村でも苦労したようです。

 大まかに言えば、町の場合、高札の費用は公用銀で賄えたが、高札場の造営費は、町掛銀が使われ、町の負担となりました。
 村の場合は、図面、調書、入用金高の書類を揃えて、藩の裁許を受ければ、数ヶ月後に造営ができたと言われています。

高札場と自治

 確かに、高札は徳川支配の道具でした。しかし、何十年、何百年の間、地元住民が、火事や天災から高札を守り、高札場を日常的に維持、管理していくうちに、人々にとって、高札場がそこにあるのが当たり前の風景になってきたのではないでしょうか。

 幕府も、当初の目的である、高札によって、厳しい決まりを人々に周知させ、遵守させる事から、高札場自体を幕府権威の象徴と考えるようになったようです。

高札場の維持管理や建設には神経を使わねばならないけれど、高札の方は少し規制が弱かった。たとえば、風雨にさらされ、墨書が薄くなった高札は、村方で墨入れをすればよい事になっていました。

 さらに、高札場に対する人々の考えも次第に変わってきたようです。
 高札場は村の中心であり、そこからの距離で地図なども書かれました。高札場に近い位置を占めることが、村内での地位を表すことになりました。
 また、分村などの場合、高札場を持つことが、村の独立を意味しました。

 さらには、村人たちも、高札や高札場の意味を彼らなりに学びました。一揆への参加を呼びかける場合、高札を模した札に、日時、目的、集合場所などを書いて、立てたのです。その場所も、境界や辻など、情報発信に適した所に自ずと決まっていたようです。

 現在、各地で街おこしが盛んです。
 そのなかのひとつに、かつての高札場を復元しようという動きがあります。
 明治6年の高札制度廃止から145年。高札場が人々にとって抑圧するだけのものであったなら、このような動きは生じなかったでしょう。

 
わからないことだらけの高札

時代劇でおなじみの高札ですが、その研究は意外に進んでいません。
江戸時代に、多数出された御触書のうちの一部が、高札として、人々に直接示されたわけです。
高札には、幕府の出した公儀高札とそれ以外の高札である私高札(主として藩のレベルで出された高札)に二分されます。

研究がすすんでいるのは、公儀高札のみ。ましてや、村や個人のレベルで出した札については、全く手つかずの状態です。
 
高札場に、高札板をどうやって掛けていたかさえわかっていません。
物に即した研究が絶対に必要です。

さらに、単なる封建社会の遺物では捉えきれない多面的で柔軟な視点が必要です。


ありそうでない高札本

 政治学や法制史の先生方は、支配者側が出す文書を分析するだけでした。
 これでは、すぐに行き詰まるのは当たり前。

 そのせいか、『高札』と銘打った本はほとんど無い。
 唯一のものが下の冊子、「高札」です。

これは展示会の図録で、正確には成書ではありません。しかし、100頁の図録の中味は実に豊富です。
 これまでの支配する側からの高札にとどまらず、受け手からの視点が斬新です。

これをまとめたのは、大阪人権博物館。

しかし、この博物館が、今、クズ政治家のため、危機にあります。


      「高札ー支配と自治の最前線」大阪人権博物館、1998年


狙われた人権博物館

この高札本を出した大阪人権博物館は、存亡の瀬戸際に立たされています。

大阪府、大阪市は、補助金を全廃し、さらに、土地の賃貸料2700万円/年を請求してきているのです。
 狙いは、もちろん、人権博物館潰し、そして、文化、芸術潰し。
 元凶は、もちろん、維新、橋下徹というクズ政治家。



                       大阪人権博物館ホームページより
                          http://www.liberty.or.jp/







大阪人権博物館は、現在、サポーター制度によって、自主運営を続けています。






クズ政治家たちの犯罪

今、世の中は、クズ政治家のオンパレードです。
クズ政治家は、政治家のクズではありません。
クズ人間が政治家になったのです。

クズ人間って?
人間の弱みとコンプレックスに付け入り、フェイクを垂れ流して人々の不安をあおり、扇動して、権力と金を得る輩。

人間はロボットや神ではありません。誰しも、不安、悩み、そして、コンプレックスをもっています。
それに向き合い、自分の内で、なだめ、ごまかし、あきらめ・・・・なんとか折り合いをつけながら生きていくのが人間です。

ところが、自分と向きあわずに、歪んだ形でコンプレックスを外へ向け、人間の弱みにつけ込んで人々を組織し、自分の欲望を満足させる者たちがいる。それが、クズ人間です。

代表格は、ヒットラー。画家を志望するも、才能無し。
石原慎太郎。かつて、三島由紀夫に鼻であしらわれた自称文士。
御存知、安部晋三の学歴と教養。
そして、橋下徹の出○。

彼らは、文化や芸術を毛嫌いする。
橋下には、人権博物館に対して、近親憎悪に近い感情もあるのでしょう。

クズ人間が政治に進出すると恐ろしい事になる。
人々をけしかける手だては実にたくみで、話術にたけている。メディアの利用も狡猾です。

敵をつくり、人々を扇動し、攻撃をけしかける。
人々の心に火をつけ、火事を起こすのです。

戦争はその最たるもの。一番おいしい公共事業です。人の金(税金)をつぎ込み放題。キックバックで大儲け。岸信介のように、麻薬ビジネスに手を染めれば、莫大な資金を簡単にゲットできます。

権力と金のために、人間の弱さとコンプレックスを歪んだ形で悪に応用。
 
火事を起こしておき、そのどさくさに金と権力を得る。

人心を巧に盗み利用する火事場の泥棒です。

火事場泥棒は、クズ政治家だったのです。




コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高札場と火事3.そこのけそこのけ御高札が通る~中山道垂井宿~(後)

2019年03月10日 | 高札
垂井宿の高札場



  『中山道分間延絵図』(文化3(1806)年頃)(復刻、原本は東博)

『中山道分間延絵図』は、絵図ではありますが、非常に正確です。家の数、配置はもとより、道路、橋から木々、藪などにいたるまで、当時の状態が記録されています。


 中央部を拡大すると、


  本龍寺前に「高札」と書かれているのが高札場です。
 


        名刹本龍寺。石碑の所に高札場があった。



防火の工夫

   本龍寺、高札場の向かいです。
 分限延絵図では、家並みが小さく切れて描かれている所です


 
左側は、重要文化財小林家です。

                 

     
 軒先をよく見ると、古い鍵形の金具がずらーっと打ってあります。
 これは一体、何?


 
実は、これは濡れムシロをつるすフックなのです。
垂井宿の中山道脇には、かつては、水路が流れていました。
火事になったら、すぐにムシロを水路に浸し、フックに掛けて、類焼を防いだのです。


残る言い伝え

このように火事が頻発した垂井宿では、ある言い伝えが残っています。
「火事の時には、真っ先に高札場の高札をはずし、泉に浸して守った」

確かに、垂井宿には泉がいくつかあり、このような事が行われていたとしても不思議ではありません。
しかし、それを証明する物は何もない。言い伝えは、あくまで、言い伝え。
先に紹介した、柳井奉行所高札場守護係の大野家文書のようなものが見つかればいいのですが・・・・・・



謎の巨大地図

垂井宿には、江戸時代の巨大な地図が残されていました。


    垂井宿場街大絵図(中山道ミニ博物館蔵、天保2(1831)年)

 4mを越える巨大な絵図です。
 
 この地図はとても変わっています。各家の持ち主の名と共に、家の部屋割りと広さ(畳)がすべて記入されているのです。

 誰が、何のためにこんな大きな絵図を作ったのか?
 地元では、ケンケンがくがくの議論。

 「和宮が降嫁する時、一行の宿を確保するために、泊まれる所と広さを調べた」
 「ほー、なるほど」
ということで、皆、納得していたようです。

 確かに、3万人もの行列人員が宿泊するためには、相当の準備が必要だったでしょう。

でも、ちょっと待った。
和宮の生まれたのは、弘化3(1846)年、この地図が作られたのは、天保3(1831)年。生まれる前に、公武合体が決まっているはずはないのです。

地元のロマンに水を差すようですが、和宮とは関係ない。

この巨大地図が作られたのは、多分、課税法の検討のためだと思います。

街道に面した間口の大きさから家の広さへ、変更を検討しようとしたのでしょう。その時のデータ地図を作成したのだと思います。
この地図は、役所へ出した地図の下絵か控えでしょう。



ついに発見!御高札用心通!

この地図の本龍寺高札場附近を拡大してみます。



道路南側をもっと拡大すると、



あっ、ありました!ついに、発見!

高札場の向かいにある家並みの狭間に、
御高札用心通」の文字。

その先には、「清水」が・・・泉です。
「清水」は、50mほど西(上流)にもう一つ。

地元に伝わる言い伝えは、本当だったのです。

火事になったら、急いで高札をはずし、道路を横切って、御高札道を走って、清水(泉)に浸したのです。距離にすれば、100m足らず。一分もかかりません。



 本龍寺の向かいの小径は、御高札用心通だったのです。


この道を、突き当たりまで走る。




 竹藪のふもとには、小さな水たまり(清水、泉)が。
 昔は、もっと大きな水たまりだったそうです。
  ここに、高札板を浸しました。
  今は、水はほとんど湧いていないようです。


上流の清水。今でもコンコンと水が湧いています。

火事になれば、何よりも優先された高札の用心。

「そこのけそこのけ、御高札が通る」


家の用心は後回し。
炎の中を運ばれていく高札を、当時の人々はどんな思いで眺めていたのでしょうか。





コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高札場と火事2.そこのけそこのけ御高札が通る~中山道垂井宿~(前)

2019年03月06日 | 高札
泉の宿場町、中山道垂井宿


浮世絵に描かれた垂井宿

 中山道垂井宿は、日本橋から57番目の宿です。名古屋から大垣を経る美濃路の起点でもあり、中山道と東海道を結ぶ交通の要所でした。

 江戸後期には、本陣、脇本陣、旅宿27軒、総家数315軒の規模を誇り、美濃一宮(南宮大社)参拝の人々も含め、多くの旅人で賑わいました。また、毎年行われる曳やま祭りでは、安永年間創始と伝えられる子供歌舞伎が演じられ、壮麗な3台の山車とともに、往時の垂井宿の繁栄を今に伝えています。


       一勇斎国芳「木曽街道69次之内 垂井 猿之助」

 この浮世絵は、一勇斎国芳「木曽街道69次之内 垂井 猿之助」、オリジナルです。

 木曽街道(中山道)69次の浮世絵シリーズには、国芳によるものの外に、歌川広重・渓斎英泉によるものがあります。

     歌川広重「木曽街道69次之内 垂井」(復刻版)


              現在の同場所(西見附)


 広重の絵は、垂井宿の西の端(西の見附)を描いています。雨の中、旅人はうっそうと繁る松並木を、次の宿、関ヶ原へ旅立っていきます。かなり忠実な当時の宿場風景です


 広重・英泉「木曽街道69次」の方がはるかに有名ですが、市場に出るのは非常に稀です。また、版元がめまぐるしく変わるなど、出版事情が複雑で、どれが初期の作品か、素人には見わけられません。私も、広重・英泉シリーズを、30点ほど持っていますが、全く自信がありません。

 それに対して、国芳シリーズは、オリジナルが結構出回っています。結果、財布にやさしい。

 ただ、広重・英泉シリーズがすべて、宿場町の情景を描いているのに対して、国芳は、それぞれの宿場とは何の関係も無い絵を描いています。歌舞伎や戯作の場面を取り上げて描き、そのタイトルなどをもじって宿場名と無理やりこじつけたものがほとんどです。一種の判じ絵ですね。

 国芳のこの錦絵は、『絵本太閤記』の一場面を描いています。日吉丸(秀吉)が奉公先の子供を井戸の筒にくくりつけて逃げ出す場面です。「樽の井戸」を描いて「垂井」を暗示しています。表題に、「垂井 猿之助」とあるのは、猿に似ている日吉丸の呼び名、猿之助から来ています(描かれている日吉丸は猿には似てませんが)。

 垂井のこの絵も、ことば遊びと宿場名とを結びつける国芳「木曽街道69次」に典型的な浮世絵の一つですね。


垂井の泉

   実は、ここからが面白い。

 国芳は、ただ言葉の綾として、『絵本太閤記』樽の井戸を描きました。ところが、これが予期せぬ大当たり。絵が、現実なのです。荒唐無稽な国芳の木曽街道シリーズのなかで、異色の一枚なのです。

 垂井宿では、多くの泉がわいています。垂井の地名もそこに由来します。また、庭先を少し掘れば、簡単に水がわき、国芳の浮世絵に描かれていた井筒井戸が、どの家にもあったそうです(今も、いくつか残っています)。

 その中でも、一番大きく、有名な泉が、「垂井の泉」です。

 中山道垂井宿の中心部に、南宮大社石鳥居があります。

             南宮大社石鳥居(寛永19年(1642))

 中山道をここで南に折れ、鳥居をくぐって、南宮大社方面へ150mほど行くと、道路脇に「垂井の泉」があります。


                    「垂井の泉」

  「垂井の泉」は、古くから和歌にも詠まれています。  
 そして、芭蕉も名句を残しています。
 元禄4年(1691)年、江戸へ向かう途中、芭蕉は、垂井宿本龍寺住職八世、規外のもとで、冬ごもりをしました。
 その時にこの泉で詠んだ句。
    「葱白く 洗いあげたる 寒さかな




まだまだある泉

この先100mほど西方にも、泉があります。
今回の火事と高札は、その泉が舞台です。
続きは、次回。

ところで、垂井には、どうしてこんなに泉が多いのでしょうか。
 ブラタモリ風に言えば、地形です。
 この地は、伊吹山系と養老山脈の両裾が合わさる所に位置します。この裾が終わる部分が小さな崖になっていて、それに沿って、点々と泉がわいているのです。


 左、養老山脈、右、伊吹山系。二つの山並みの隙間を、垂井、関ヶ原、今須、柏原と進み、中山道は美濃から近江へ抜ける。
 山に降った雪や雨は、川と伏流水となって下流へ。伏流水の一部が、泉となって地表に出ます。泉(自噴水)は、垂井宿周辺と10kmほど下の大垣周辺に多くみられます。



コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする