墨絵の『高砂』です。
全体、72.0㎝ x 175.6㎝。本紙(紙本)、59.7㎝ x 128.9㎝。明治12年。
作者は、幕末―明治の儒者、村瀬太乙です。
村瀬太乙(むらせたいいつ、通称、たいおつ)、享和三(1803)年ー明治十四(1881)年。美濃國上有知村(現、岐阜県美濃市)生。頼山陽門。飄逸な墨画と書で知られる。
ちょっとみただけでは何が描かれているのかわかりません。
熊手をもった尉と箒を手にした姥が立っていますから、『高砂』の情景ですね。
村瀬太乙は、美濃の大庄屋村瀬一族の一人です。村瀬家からは、学者や文人が多く出ました。その中で、太乙は鬼才と言ってよいでしょう。遅くに頼山陽の内弟子となり、山陽没後は、名古屋へ帰り私塾を開きしました。その後、犬山藩に儒者として仕え、藩校敬道館の教授をつとめました。
彼は、非常に奇行が多い事で有名です。放屁先生の号を用いたことでもわかるように、放屁癖があり、藩主の前でも放屁してはばからなかったといいます(^^; その一方、世に迎合せず、清貧の中で自分の生き方を貫いた人柄が人々に愛されました。中部地方では、村瀬太乙の書画の人気は高く、生前から贋物が出回っていたそうです。
この戯墨『高砂』は大丈夫。その理由は、うーんと唸るような図柄ではないから(^^; 頼りないような薄い墨色も、自信なくしては使えません(^.^)
「己卯冬十二月 太乙七十七翁戯墨」とありますから、明治12年12月に描かれた物です。
先回の重安の『高砂』も76歳の時の作でした。
一見捉えどころのない墨画『高砂』ですが、奇人太乙の晩年の心境を表しているのでしょうか。