~~産まれてくる太郎へ~~
2011年(平成23年)3月11日(金)14時46分18秒
産まれる前のことなんてあんまり気にしないと思うけど
太郎が産まれる2年2ヶ月前に「東日本大震災」がありました。
たぶん歴史の教科書に載るんじゃないかな?
15880人以上の命が失われました。行方不明が2600人以上。
最大震度は宮城県栗原市で観測された震度7
マグニチュード9.0で、日本周辺における観測史上最大の地震でした。
たくさんの人が亡くなったのは地震ではなく、津波が原因です。
最大遡上高40.1mにも上る巨大津波です。
お父さんとお母さんはまだ知り合っていませんでした。
約1ヶ月後に知り合います。
お父さんは調布の造園のお仕事中でした。
お母さんは港区の会社にいました。
お父さんは歩いて帰ることが出来たので、調布のあばあちゃんとおじいちゃんを守ってあげていました。
お母さんは電車が止まってしまい帰ることが出来ず、会社に一晩泊まりました。
東京もすごい揺れでした。
お母さんは怖くなって会社から近くの公園へ逃げました。
ビルが崩れると思ったのです。
ノラ猫も走り回っていました。
立っていられず一瞬地面に手を着きました。
地面が割れると思いました。
何が起きたのか分かりませんでした。
東京で起きた地震だと思っていました。
少し落ち着いてからインターネットの情報で東北の方の地震だということが分かりました。
そしてお母さんが公園で怯えている頃
津波が到達してたくさんの命が失われたようです。
東京の交通機関はほとんど麻痺していました。
会社の前の大通りは徒歩で帰宅しようとする人の大行列でした。
余震もまだ続いていました。
この先どうなるのか誰にも分かりません。
もっと大きな地震がくるかもしれない。
お母さんは近くのコンビニに食べ物を買いに行きました。
コンビニは大混雑で棚には食べ物、飲み物が無くなりつつありました。
あんなコンビニ見たことありませんでした。
こんな状況なのにコンビニの店員さんは働いている・・・
少し複雑な気持ちになりました。
夜になっても徒歩で帰宅しようとする人の行列は続いていました。
会社のテレビでニュースを見ました。
津波の映像でした。
これはどこの国の映像?と思いました。
どんどん津波にのまれていく畑、車、家。
みんな逃げることができたのだろうか・・・
まだ分かりませんでした。
夜は机の下でコートを布団代わりにして寝ました。
余震で何度も目が覚めてしましました。
翌朝、電車が動き、帰ることができました。
しかしこの後も地震の影響で東京でも色々なことがありました。
ガソリンがなくなったり
津波で原子力発電所の放射能が漏れたり
電気が不足して計画停電があったり・・・
嘘か本当か分からない情報が飛び交ったりしました。
この東日本大震災で感じたことは
「あたりまえのことなんてない」
ってこと。
大震災直前まで仕事が忙しくてストレスで湿疹ができていました。
しかし大地震後、仕事はピタリと無くなりました。
忙しく仕事ができるのも平和であるからなんです。
私のお父さん(太郎のおじいちゃん)は茨城県牛久市で働いていました。
常磐線の線路が曲がって数日電車が動かず、柏の家に帰れなかったようです。
断水もしていて、水道からチョロチョロ出る水を大切に使って歯を磨いたりしていたそうです。
私の家族や友人は無事だったけど
たくさんの命が失われました。
「あたりまえのことなんてない」
今ある幸せに感謝できる人間になりたいです。