まちづくりはFeel-Do Work!考えるより感じよう、みずから動き、汗をかこう!(旧“まちづくり”便利帳)

まちづくりの支援者から当事者へ。立ち位置の変化に応じて、実践で培った学びの記録。もう一人の自分へのメッセージ。

志摩半島の漁村に残る寝屋子(ねやこ)制度

2005-02-13 23:18:35 | まちづくりの素材
     (民族文化映像研究所の画像より)

数えで15歳になる少年たちが親元を離れ、世話役となる「寝屋親」の下、結婚者が出るまでの十数年間を数名のグループで起居を共にし、共同生活や地域の行事を通じて、生業や生き方、地域社会の成り立ちなどの多くを学ぶ。

かつて日本各地の農山漁村に、このような若衆組の制度が存在していたことを、日経WOMAN別冊『Brava!』 No.2で知った(残念ながら雑誌は休刊)。少子高齢化の時代の波を受けつつも、三重県鳥羽市指定の無形民俗文化財として、全国で唯一、答志島(人口約3,000人)の答志地区に残っているらしい。過疎化の進む漁村にあって、珍しく過去2年子供の数が増加しているとのこと。寝屋子制度以外にも青年団等の仕組みがきちんと機能しているらしく、地域全体で子供を育てるということの何たるかを教えてくれるようだ。
誌面から印象的な台詞を紹介(同誌P.106、文:羽生祥子氏)。

「生活も仕事も考え方も、当然のことしとるだけやけど、ほかのところの若い奴らには負けることはない。答志では、”俺はオレ”がないから。人の道をはずしたときは親たちの注意とか意見で、自分を見直すっちゅうんかな。皆つながりあってる。将来もこの町には、横のつながり、縦への尊敬がずっとあってほしい。そこがうちらの誇りやに」

この言葉を発したのが、26歳の青年団長(山下良郎氏)と言うから驚く。「信頼」や「尊敬」という類の単語を口にするのは、何もこの青年に限ったことではなく、レポーターは同じような若者の口からも耳にしたそうだ。髪を染めた人もおり、見た目は東京にいる若者と変わらない。

今朝2/13付の朝日新聞では、欧米のメイドなどを引き合いに出して「日本の育児インフラ整備はなってない」と書かれていたが、工業化で土地から人が離れた結果が招いたことに根本の原因があり、地域のつながりを無視した応急処置的な整備で完結すべき問題ではないように思う。
海の仕事には危険が伴う。このような漁村では、昔は親を亡くす子も少なくなかっただろうし、「結」のような共同作業も多いだろう。だが、これが習わしのように緩やかな約束事に留まらず、システムとして制度化されていたことは驚きを感じるし、地に足をつけて暮らす人々の生活の知恵と必要性から生まれた素晴らしい仕組みだと思う。

『地域が人を育て、人が地域を育てる。』

寝屋子を受け継ぐ答志地区の営みは、地域発展に欠くことのできないこの普遍的な原理を気づかせてくれる。暮らしの場と働く場が離れた人間関係の希薄な都市では実現の難しい仕組みかもしれないが、地域の担い手が減り過疎に悩む地域においては、示唆に富むコミュニティ・モデルではないだろうか。

ただ、ここで忘れてならないのは、どんなに素晴らしい制度であっても、存続自体が目的化してしまうと、単なる義務と化し、制度の価値はあっという間に減じてしまうということ。逆に、制度が優れていなくても、使い方によっては大いに有効となることもある。例えるなら、制度は容れ物、「器」であると言えるかもしれない。器を活かすも殺すも使う人次第である。大事なことは、制度(器)そのものの完成度ではなく、その制度(器)を使う人々が、納得し、よりよい効果を生み出すためにどのように活用したらよいのか、一人一人がきちんと考えるということだ。
答志地区の人々は、それがちゃんとできているからこそ、「信頼」や「尊敬」という言葉が自然と出てくるのだろうし、その結果が出生率に現れているのだと私は思う。


鳥羽市答志島答志地区の寝屋子制度(すばらしきみえより)
田中治彦氏による「伝統的地域社会と居場所での紹介記事(立教大学文学部教育学科田中研究室のHPより)
地元漁協による寝屋子制度の説明(鳥羽磯部漁業共同組合のHPより)
『寝屋子』特集(広報とば1999年12月号より)

数少ない寝屋子の記録映像を持つ民族文化映像研究所←フィルムの貸し出しや販売もあり。
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