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『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年
4 ペルシア戦争
3 戦いの準備
マラトンの敗戦を知ったダレイオスは怒り、ますますその復讐の念を強くした。
彼は領内の各地に使いを出し、軍艦や輸送船などの建造や、馬や食糧などの供出を命じた。
これがあまりはげしいためもあったろう、エジプトで反乱が起こった(紀元前四八七年)。
このためダレイオスは、ギリシアを征服するよりも先に、エジプトの反乱を平定しなければならなくなった。
ところが彼は、平定の軍を進めようとしていたときに、急に死んでしまった(紀元前四八六年)。
ダレイオスをついだのは、彼の子のクセルクセスであった。
彼は軍隊を集め、翌年エジプトの反乱を鎮定(ちんてい)した。
そして弟のアカイメネスを、エジプトの太守にした。
しかし彼はギリシア征服をする意志は持っていなかったという。
紀元前四九二年に、トラキアへの遠征軍を率いたことのある、クセルクセスのいとこのマルドニオスは、ギリシアが征服された際には、その太守となろうと欲していた。
そこで盛んに、クセルクセスを説いて、アテネを征服して、父のあだをはらすことをすすめた。
またアテネからペルシアに亡命して来ていた、かつてアテネの僭主(タイラント)であったペイシストラトス一族のものも、さかんにギリシア遠征をすすめた。
そればかりか、ギリシアの北方にあるテッサリアの王も、使者をクセルクセスのところに送って、しきりにギリシア遠征をすすめた。
しかし、もちろん遠征をすすめる者ばかりではなかった。
ダレイオスの弟のアルタバノスは、無謀な計画だと、しきりに反対した。
クセルクセスは、いろいろためらったあげく、ようやく決心した。
それだけに、遠征の準備はたいへんなものだった。
まず、かつて突風のため艦隊が難破したアトス岬は、迂回しないですむように、岬のつけねの地峡部に運河を掘った。
これは三年もかかるような大工事だった。
こうした工事に巧みなフェニキア人やその他おおぜいの人々が、工事に従事した。
全長は二キロメートルほどあった。
そして当時の軍艦である三段橈船(かいせん)が二隻、すれちがうことができるほどの幅があった。
海軍のためには運河を掘り、陸軍のためにはヘレスポントス海峡に船橋をかけた。
船橋といっても、なかなか簡単なものではない。
ヘロドトスによると、アビュドスというところから対岸のセストス市の近くまで、一キロほどの海に、七百隻近い五十橈船、三段橈船をならぺて、錨(いかり)を下ろし、麻やパピルスの六本の綱でそれをたがいに結び、それに丸太を並べ、その上にそだと土をのせ、さらに両側にてすりをつけたというものだった。
船橋はいったんできたが、暴風がおそい、橋は徹底的にこわれてしまった。
クセルクセスは、その報告をきくと、たいへん怒った。
そしてけしからん海だといって、海に鞭打ちの刑を課し、三百打たせ、そのうえ、足かせを海に投げ入れ、また罪人のしるしの焼き印を海に押させたという。
また工事監督官たちは、みな首をはねられた。橋の工事は再開され、完成した。
そのあいだに兵の装備もすすめられた。装備をもっとも立派に整えた太守には、ほうびを与えるとふれ出された。
また糧食もたくさん集められ、トラキアやマケドニアなどの、ギリシア遠征の道の諸所に、集積された。
他方アテネは、どのような準備をしていたのであろうか。
アテネ人の多くは、またペルシア軍が攻めて来るとは思っていなかった。
しかし、心ある人は心配していた。テミストクレスもその一人だった。
紀元前四八三年、アテネの国有鉱山のラウレイオン銀山に、マロネイアという新しい豊富な坑口が開発された。
そのため国庫に、百タレントという多額の臨時収入があった(当時の金を現在の金に換算することは、たいへん困難であり、あまり意味もない。一タレントで三段橈船が一隻建造できた)。
アテネではこういう臨時収入は、市民に均等に分配するしきたりになっていた。
テミストクレスはこの金で軍艦を建造することを、民会に提案した。
アテネ市民にはペルシアに対する危機感がほとんどなかったので、「ペルシアの来襲にそなえて」と説いても、うけいれられないと思ったテミストクレスは、当時不和だった隣国のアイギナとの戦いに備えて建艦が必要だと説いて、アテネ人の賛成をえることができた。
こうしていっきょに二百隻(百隻ともいう)の大艦隊を、アテネは建造した。
こうしてアテネはいっきょに、ギリシア第一の海軍国になった。
ペルシアの大軍は、サルディスに集結した。クセルクセスは、遠征に出発する前に、まず使者をギリシア諸市に送って、ふたたび「土と水」を要求した。
ただし、アテネとスバルタには使いを出さなかった。
紀元前四九〇年に、ダレイオスが使いを出したとき、アテネはその使者を殺し、スパルタは古井戸に使者を投げこんで、「そこから好きなだけ、土でも水でも持って行け」といったのに懲(こ)りたためだった。
ペルシア軍にとうていかなわないと考えたテッサリア、テーベ、ロクリスなど多くのポリスが、「土と水」をペルシアに献げた。
アテネ、スパルタをはじめ、あくまでもペルシアに反抗しようと決心した三十ほどのポリスは、コリント市に集まり、一つになってペルシアと戦う決議をした。
また戦いに勝ったときは、ペルシアに降伏したポリスは壊し、住民は奴隷にすることなども決議した。
会議に集まらなかったアルゴス、クレタ、シチリアなどに参加するよう使いを出したが、これらの地方は、口実をこしらえて、会議に参加しなかった。
またペルシア軍のようすをさぐるためにスパイが三人、サルディスに送られた。
彼らは捕えられてしまい、死刑にされそうになった。
しかしクセルクセスは、彼らに全軍を詳しく見させ、「おまえたちが、ペルシア軍の実勢を報告すれば、ギリシアは戦わずに、降伏するだろう」といつて、彼らを許して帰国させた。
4 ペルシア戦争
3 戦いの準備
マラトンの敗戦を知ったダレイオスは怒り、ますますその復讐の念を強くした。
彼は領内の各地に使いを出し、軍艦や輸送船などの建造や、馬や食糧などの供出を命じた。
これがあまりはげしいためもあったろう、エジプトで反乱が起こった(紀元前四八七年)。
このためダレイオスは、ギリシアを征服するよりも先に、エジプトの反乱を平定しなければならなくなった。
ところが彼は、平定の軍を進めようとしていたときに、急に死んでしまった(紀元前四八六年)。
ダレイオスをついだのは、彼の子のクセルクセスであった。
彼は軍隊を集め、翌年エジプトの反乱を鎮定(ちんてい)した。
そして弟のアカイメネスを、エジプトの太守にした。
しかし彼はギリシア征服をする意志は持っていなかったという。
紀元前四九二年に、トラキアへの遠征軍を率いたことのある、クセルクセスのいとこのマルドニオスは、ギリシアが征服された際には、その太守となろうと欲していた。
そこで盛んに、クセルクセスを説いて、アテネを征服して、父のあだをはらすことをすすめた。
またアテネからペルシアに亡命して来ていた、かつてアテネの僭主(タイラント)であったペイシストラトス一族のものも、さかんにギリシア遠征をすすめた。
そればかりか、ギリシアの北方にあるテッサリアの王も、使者をクセルクセスのところに送って、しきりにギリシア遠征をすすめた。
しかし、もちろん遠征をすすめる者ばかりではなかった。
ダレイオスの弟のアルタバノスは、無謀な計画だと、しきりに反対した。
クセルクセスは、いろいろためらったあげく、ようやく決心した。
それだけに、遠征の準備はたいへんなものだった。
まず、かつて突風のため艦隊が難破したアトス岬は、迂回しないですむように、岬のつけねの地峡部に運河を掘った。
これは三年もかかるような大工事だった。
こうした工事に巧みなフェニキア人やその他おおぜいの人々が、工事に従事した。
全長は二キロメートルほどあった。
そして当時の軍艦である三段橈船(かいせん)が二隻、すれちがうことができるほどの幅があった。
海軍のためには運河を掘り、陸軍のためにはヘレスポントス海峡に船橋をかけた。
船橋といっても、なかなか簡単なものではない。
ヘロドトスによると、アビュドスというところから対岸のセストス市の近くまで、一キロほどの海に、七百隻近い五十橈船、三段橈船をならぺて、錨(いかり)を下ろし、麻やパピルスの六本の綱でそれをたがいに結び、それに丸太を並べ、その上にそだと土をのせ、さらに両側にてすりをつけたというものだった。
船橋はいったんできたが、暴風がおそい、橋は徹底的にこわれてしまった。
クセルクセスは、その報告をきくと、たいへん怒った。
そしてけしからん海だといって、海に鞭打ちの刑を課し、三百打たせ、そのうえ、足かせを海に投げ入れ、また罪人のしるしの焼き印を海に押させたという。
また工事監督官たちは、みな首をはねられた。橋の工事は再開され、完成した。
そのあいだに兵の装備もすすめられた。装備をもっとも立派に整えた太守には、ほうびを与えるとふれ出された。
また糧食もたくさん集められ、トラキアやマケドニアなどの、ギリシア遠征の道の諸所に、集積された。
他方アテネは、どのような準備をしていたのであろうか。
アテネ人の多くは、またペルシア軍が攻めて来るとは思っていなかった。
しかし、心ある人は心配していた。テミストクレスもその一人だった。
紀元前四八三年、アテネの国有鉱山のラウレイオン銀山に、マロネイアという新しい豊富な坑口が開発された。
そのため国庫に、百タレントという多額の臨時収入があった(当時の金を現在の金に換算することは、たいへん困難であり、あまり意味もない。一タレントで三段橈船が一隻建造できた)。
アテネではこういう臨時収入は、市民に均等に分配するしきたりになっていた。
テミストクレスはこの金で軍艦を建造することを、民会に提案した。
アテネ市民にはペルシアに対する危機感がほとんどなかったので、「ペルシアの来襲にそなえて」と説いても、うけいれられないと思ったテミストクレスは、当時不和だった隣国のアイギナとの戦いに備えて建艦が必要だと説いて、アテネ人の賛成をえることができた。
こうしていっきょに二百隻(百隻ともいう)の大艦隊を、アテネは建造した。
こうしてアテネはいっきょに、ギリシア第一の海軍国になった。
ペルシアの大軍は、サルディスに集結した。クセルクセスは、遠征に出発する前に、まず使者をギリシア諸市に送って、ふたたび「土と水」を要求した。
ただし、アテネとスバルタには使いを出さなかった。
紀元前四九〇年に、ダレイオスが使いを出したとき、アテネはその使者を殺し、スパルタは古井戸に使者を投げこんで、「そこから好きなだけ、土でも水でも持って行け」といったのに懲(こ)りたためだった。
ペルシア軍にとうていかなわないと考えたテッサリア、テーベ、ロクリスなど多くのポリスが、「土と水」をペルシアに献げた。
アテネ、スパルタをはじめ、あくまでもペルシアに反抗しようと決心した三十ほどのポリスは、コリント市に集まり、一つになってペルシアと戦う決議をした。
また戦いに勝ったときは、ペルシアに降伏したポリスは壊し、住民は奴隷にすることなども決議した。
会議に集まらなかったアルゴス、クレタ、シチリアなどに参加するよう使いを出したが、これらの地方は、口実をこしらえて、会議に参加しなかった。
またペルシア軍のようすをさぐるためにスパイが三人、サルディスに送られた。
彼らは捕えられてしまい、死刑にされそうになった。
しかしクセルクセスは、彼らに全軍を詳しく見させ、「おまえたちが、ペルシア軍の実勢を報告すれば、ギリシアは戦わずに、降伏するだろう」といつて、彼らを許して帰国させた。