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米最高裁、妊娠中絶薬の流通認める(CNN)

2024-06-15 04:36:23 | 時事

神の怒りを招くでしょう。

米最高裁、妊娠中絶薬の流通認める  2024.06.14 Fri posted at 09:40 JST(CNN)

(CNN) 米連邦最高裁は13日、経口妊娠中絶薬「ミフェプリストン」の流通規制を求める訴えを退け、中絶薬の入手・使用を引き続き認める判断を示した。中絶の権利を擁護するバイデン大統領にとって、秋の大統領選に向けて追い風となる。

米国では2022年に、保守派の判事が多数を占める最高裁が人工妊娠中絶の権利を認める「ロー対ウェイド判決」を覆しており、妊娠中絶薬の流通に関する訴訟は最高裁で争われる中絶関係の紛争として最も重要なものだった。

最高裁は、中絶に反対する医師やグループで構成される原告には訴えを起こす権利がないとした。

米食品医薬品局(FDA)は00年にミフェプリストンを承認したが、原告らはFDAが承認の際にミフェプリストンの安全性を十分に確認していなかったと主張していた。

今回の最高裁の判断を受けて、米国では引き続き医師の診断を受けることなくミフェプリストンを取り寄せて使用することができる。

中絶問題は大統領選の争点の一つに浮上している。共和党やその支持者には中絶反対派が多い。最高裁の判断を受けてバイデン氏は声明を出し、「中絶薬への攻撃は、共和党議員らの全米で中絶を禁止しようという極端で危険な意図の一部だ」とあらためて批判し、中絶の権利の保護を訴えた。

米国では手術ではなく薬による中絶が一般的で、昨年に行われた中絶の63%が薬によるものだった。ミフェプリストンの販売元によると、承認されてから16年までに275万人超が使用した。






9-5-5 「スカロンの寡婦」 

2024-06-15 03:58:47 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
5 ルイ十四世が造ったベルサイユ宮殿の盛衰
5 「スカロンの寡婦」

 一六七九年、モンテスパン候妃が見いだした新しいライバルは、前述のマリー・アンジェリック・ド・フォンタンジュ(一六六一~八一)であった。
 金髪で十八歳のこの小娘に対して、モンテスパンは嫉妬にかられ、ルイの面前で荒れ狂ったらしい。
 のちに王は苦笑いしていった。「二人の女性のあいだよりも、ヨーロッパに平和をつくるほうがやさしい。」
 女の戦いはモンテスパン夫人の勝利であった。
 フォンタンジュは一人の子供をうんだのち、ポール・ロワイヤル修道院へひきこもった。
 しかしモンテスパン夫人の勝利は長つづきしなかった。ルイ十四世が年とともに、熱情的な寵妃に飽満の情をいだきはじめたころ、彼女のいかがわしい秘密がはっきりしでしまった。
 当時、上流社会に毒殺事件が多く、一六八〇年、当局は容疑者の逮捕にふみきった。
 ところがこれに関連して錬金術師、女占い師、魔術師などのうたがわしい組織が明るみにでてきて、モンテスバン夫人も関係があり、ラ・バリエールを呪っていたようなことがわかってきた。
 たとえば、モンテスバン夫人はあやしげな祈祷師のもとへ通い、秘密の「黒いミサ」に出席し、捨て子や幼児をいけにえにささげて、願いごとがかなうように試みたりしたのである。
 さすがに当局の追及はうちきられ、王も寛大ではあったが、彼女に対する情愛は急速に衰えていった。
 しかもモンテスバン夫人に代わるべき女性が、すでにいたのである。
 その女性、フランソワーズ・ドービニェ(一六三五~一七一九)は、アンリ四世の友人で、新教徒の詩人を祖父にもっていたが、父母にはめぐまれず、孤児として残され、一六五二年、十六歳のとき、四十歳をこえた詩人スカロン(一六一〇~六○)に見そめられて結婚した。
 スカロンは関節炎で不具、彼女は名ばかりの妻であった。
 しかし夫のサロンで、彼女は十分な教養を身につけ、才知豊かな女性に成長していった。八年ほどの生活をへて、彼女はスカロンと死別した。
 その後、夫に借財を残され、貧しさにあえいでいた三十なかばに近いスカロン未亡人に目をつけ、自分とルイ十四世とのあいだに生まれた子女の養育係としたのは、ほかならぬモンテスパン夫人である。
 王は最初は「社交界の才女」をきらったという。
 彼女はいつも黒衣をまとい、必要なとき以外は金や銀を身につけなかったので、変わり者と思われていたが、子守役としては申し分なかった。
 敬虔(けいけん)で思慮ぶかい彼女は、子供たちが母のルーズな生活にまきこまれないように努めたし、また彼らが病気のとき――母は賭事(かけごと)などにふけっていたが――看護に専念するのも彼女であった。
 王女が一人死亡したときには、父のルイは子供の死よりも、お守りの悲しみのほうに心をうごかされたという。
 そしてルイ十四世の心はモンテスパンから離れるにつれて、この「スカロンの寡婦(かふ)」にうつっていった。
 一六七四年、王は彼女の労に報いるためにマントノンの領地をあたえ、これより彼女はマントノン夫人(女侯爵)とよばれるにいたった。      

 一六八〇年の「毒物事件」にかんしてルイはモンテスパンをとがめなかったものの、マントノン夫人の地味で堅実な性格にひかれていった。
 しかも彼女は王の誘いに応ぜず、むしろ忘れられている王妃に愛情をそそぐことを彼にすすめた(モンテスパンはその後、修道院にはいった)。
 王妃はマントノン夫人に対する感謝のうちに、生涯の最後の三年ばかりを幸福にすごした。
 そしてまだ四十歳なかばの王妃は、一六八三年七月末マントノン夫人の腕に抱かれて病没した。
 それから、一年たらずのあいだに――日付については、いろいろ臆測はあるが――おそらくは一六八四年六月ごろ、ルイ十四世とマントノン夫人はベルサイユ宮殿礼拝堂で、ひそかに結婚した。
 王は四十六歳にちかく、夫人は三歳年長であった。
 この年齢からみても、王をとりこにしたものが、若さや美しさではなかったことが明らかであろう。
 夫人は正式の「王妃」となるには身分が違いすぎるので、「妻」にとどまったが、実質的には王妃に対する慣例が適用される場合もあったらしい。
 そしてこの結婚後、ルイは情事をまったくつつしみ、いわば家庭生活に専念するのである。
 マントノン夫人は外見は端麗で威厳にみち、王が日ごろ、「堅実なお方」とよんだというところから、強くてたのもしい性格と考えられがちであるが、じつは陰うつで、ほかから影響されやすい気分屋だったという説もある。
 王に対しても、政治や宗教問題についてある程度の力をもっていたとも、あるいは一般的なことはともかく、個々の問題の決定についてはまったく関係がなかったともいわれる。
 なお夫人は一六八六年、サン・シールに貧しい貴族の子女のための学校をもうけ、王の死(一七一五)後はここに引退した。   

          

霊と肉の欲求は相反する 聖書

2024-06-15 03:53:56 | 格言・みことば
霊によって歩め。そうすれば、肉の欲を遂げさせることはない。実に肉の望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反する。あなたたちが望みのままに行わぬように、それらは相反している。

ガラツィア人への手紙 5章16-17節



聖ヴィト、聖モデスト、聖女クレスチェンチア三殉教者 Sts.Vitus, Modestus et Crescentia MM.

2024-06-15 03:50:51 | 聖人伝
聖ヴィト、聖モデスト、聖女クレスチェンチア三殉教者        記念日6月 15日

      Sts.Vitus, Modestus et Crescentia MM.



 聖ヴィト、その乳母クレスチャンチア及びその夫聖モデストに就いては、歴史に伝えられる所甚だ少ないが、彼等に対する崇敬は中世紀から相当盛んに行われたもので、わけても聖少年聖ヴィトは14人の救難聖人中に数えられ、また聖会の諸殉教者の中でも、最も主要な一人と仰がれている。

 彼等は4世紀の末、すなわちディオクレチアノ皇帝がキリスト教徒に対しローマ帝国最終の迫害を行った頃の人で、ヴィトの生まれ故郷はシシリー島であった。彼の父はヒラスと呼び、偶像教を奉じていたが、乳母のクレスチェンチアとその夫モデストは熱心なキリスト教信者で、いかにも親切柔和な正しい人々であったから、ヴィトは子供心にも深く感じ入り、自ら望んで彼等の手から密かに聖い洗礼の秘蹟を授かったのである。
 その後ヴィトは乳母夫婦と心を合わせて、熱心に聖教を守ったが、山の上に建てられた街は隠れる事あたわず、その心がけや行いの目立って殊勝になった所から、遂に息子がキリスト教の信仰に入った事を嗅ぎつけたヒラスは、烈火の如く怒って是非とも祖先の宗教に帰らそうと、ある時は威嚇し、ある時はすかし、またある時は懲らしめるなどと、手をかえ品をかえて棄教を迫った。しかし一度かくしゃくたる真理の光に照らされた以上は、とても暗澹たる異教の闇に帰れる訳のものではない。で、ヴィトが情理を尽くして棄教の不可能な所以を述べると、父は益々腹を立て、「親に口答えをする憎い奴め、そういう不埒な了見ならもう親でもない、子でもない」と、我が子を邪宗徒として官憲に訴え出た。
 そこでヴィトは白州に引かれて、法官ヴァレリアノからいろいろ訓戒されたり鞭打たれたりしたが、どうしても心を翻さぬ、仕方なく再び父の許に下げ渡された。
 ヒラスは官憲の威光でも息子を改心させる事が出来なかったのに一方ならず当てが外れたものの、この上は女色によって世の快楽の味を知らしめたらやかましいキリスト教を厭うに至ろうと、わざと妖艶な若い女などをその側に近づけたりした。しかしもとよりそうした誘惑に乗るようなヴィトではない、ヒラスの奸計は又も水泡に帰したけれど、ヴィトは父の家にあってはこの先もどれほど霊魂に危険な事があるか解らないと思い、遂に乳母夫婦とも相談の上、共に家出する事を決意し、船で大陸に向かい、イタリアの南部、今のサレルノ湾のあたりに上陸したのである。
 さて3人はしばらくの間そこで人目を忍びつつ静かに麗しいキリスト教的生活を送っていたが、やがて周囲の偶像教徒等に訴えられ、再び法廷に引かれる身となった。ヴィトが天主に祈ると、さまざまな奇跡が行われ、ディオクレチアノ皇帝の皇子の病気も彼のおかげで全快したと伝えられているが、それでも法官は厳しく彼等に棄教を迫り、これを拒むと先ず熔けた鉛と油とチャンとのぐらぐら沸き立つ大釜に3人を投じ残酷にも煮殺そうとした所が彼等は天主の御保護により何等の苦痛も覚えず全く無事であったので法官は躍起となり、今度は猛獣の餌食にしようとしたが、これまた獣が飛びかからず猫のように身をすりつける始末に、呆れて最後に手ひどい拷問に処し、ようやくその生命を奪った。時は西暦303年か4年の事と推定されている。ヴィトの享年わずかに15歳。
 聖ヴィトの聖絵は大抵シュロの枝を手に持って天を仰ぎ見ている所が、あるいは釜の中にあって天使に守られている所かを描くのが常である。そのうち前者は彼が殉教の勝利を得た事を意味し、後者は釜ゆでの刑にあってしかも無事なるを得たかの奇跡の伝説に由来している事は、ここに改めていうまでもない。


教訓

 聖ヴィト及び聖なるその乳母夫妻の場合に見る如く、殉教者がさまざまの責め苦拷問の間に、一向苦痛を感ぜず、或いは甘美な慰めをさえ与えられる事は、古来その例が少なくない。その上聖書にはこれを説明する如く「汝等にかかる試練は人の常なるもののみ。天主は真実にて在せば、汝等の力以上に試みらるる事を許し給わず、却って堪えうる事を得させん為に、試練と共に勝つべき方法をも賜うべし」(コリント前書 10・13)と記されている。されば我等も如何なる試練が我が上に来るとも、いたずらに懼れる事なく、天主に対する厚い信頼を以て確固として立たねばならぬ。