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9-6-1 雷帝後の動乱のロシア

2024-06-18 04:08:01 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
6 雷帝後の動乱のロシア
1 帝位を奪ったボリス・ゴズノフ

 ロシアのモスクワ国家では、専制皇帝イワン四世(雷帝・在位一五三三~八四)の死後、この皇帝のもとで恐怖の日々をおくっていた大貴族たちが勢力をもりかえし、多年の混乱をひきおこした。
 彼らのまき返しは、すでに雷帝の子フョードル一世(在位一五八四~九八)の時代にはじまり、最初に勢力をえたのは、ロマノフ家(雷帝の最初の妻アナスターシャの実家)であった。
 その当主が病死すると、皇妃エレーナの兄、ポリス・ゴズノフ(一五五一~一六〇五)が実権をにぎることとなった。
 このゴズノフ家は、タタール(モンゴル)出身の大貴族で、ポリスが頭角をあらわすのは、イワン雷帝の親衛隊長の娘婿になったときからである。
 彼は、目に一丁字もなく、死ぬまで文字が読めなかったというが、その才能といい、風貌といい、非のうちどころのない人物のように思われ、その治世―― 一五九八年、フョードル一世が世を去ると、後嗣がなかったので、ポリス・ゴズノフが帝位についた――も、はじめは「万事に愛想がよい」ので、好評であった。
 しかしまもなく彼を非難し、中傷するうわさがどこからともなくひろがり、ポリスはメフィストのように、すべての「悪」の中心人物と目されるようになった。
 たとえば一五七一年、クリミア汗国(十五世紀に成立、トルコの勢力下にあった)の軍隊を引き入れて、モスクワを焼け野が原にしたのはポリスであるとか、フョードル一世とその妃(ポリスの妹)も、彼によって毒殺されたのであるとか、ポリスがツァーリ(皇帝)に推戴されたのも、政治的陰謀によるものであるといったように――。
 しかしポリスが根っからの悪人であったかどうかは、問題である。
 プーシキン(一七九九~一八三七)の詩史劇『ポリス・ゴズノフ』は、この立場にたっているが、評論家ベリンスキー(一八一一~四八)にいわせると、これはあやまりで、ポリスは「不運な」善人であった。      

 つまりポリスは「能吏型」の人物で、したがって、あまり人から好かれるたちの人間ではなかった。
 それでも、彼が「生まれながら」のツァーリであったならば、おそらく「英主」として歴史に残った々あろう(ロシアから留学生がはじめて西欧に送られたのは、彼の時代であるという)。
 しかし成りあがりのツァーリで成功するには、とくに卓越した才能が必要であり、ポリスにはそれが欠けていたともいわれる。
 いずれにせよ、前述のような悪評にたいして、ポリスがとった弾圧政策も、世人の不満に油をぞそぐ結果となった。
 すなわち彼は、ロシアで悪名の高い「秘密警察」の創始者となり、政敵である大貴族の下僕たちを買収し、密告を奨励した。
 この密告の結果、追放、拷問(ごうもん)、処刑、家産没収があいつぎ、当時の人の言によれば、「前代未聞の不幸」をまねいた。
 したがってポリスの治世は、いつしかイワン雷帝時代の「恐怖政治」の復活となり、各家庭では食事のさいに、「ツァーリとその一族」を祝福するお祈りを強制されるにいたった。
 農民の生活も、この時期にはいよいよ苦しいものとなった。
 ロシアに「農奴制」をしいた張本人は、ポリスであるといわれる。
 この説はかなり割引されなければならないが、このころになると、新しい領主層である「士族」(下層貴族)の農民にたいする搾取が、一段とひどくなるのは事実である。
 それにたえかねて、辺境やポーランドヘ逃亡する農民の数も増大し、そのような農民の移動を禁止する法令が、しばしば出されている。
 とくにポリスの治世にとって致命的となったのは、一六〇一年からはじまる全国的な凶作であった。
 春には霧雨が七週間にわたって降りつづいたが、秋には収穫をまえにして、「史上に前例のない」寒波が襲来し、作物がすべて立ち枯れた。
 しかも不作は翌年も、そのつぎの年もつづき、全国の穀倉は空となり、おそるべき飢饉がはじまった。
 飢えた群衆は食をもとめて全国を流浪し、モスクワの人口は殺到する避難民でふくれあがったが、ここで餓死したものの数は五十万に達したという。
 ところで、このような不穏な情勢のうちに、一六〇三年十月、コサックの頭目(アタマン)フロプカの乱がおこり、数千のコサック・農民軍が首都に向かって攻めのぼるようになる。
 なおコサックの語源は、タタール語で「自由な冒険者」を意味するという。
 彼らは、前述のような逃亡農民たちで、中央権力のとどかない辺境(とくに南ロシアのステップや大河の流域)にのがれ、自治組織をつくって農業にしたがい、兵士としても勇猛であった。
 また中央政府に、つねに敵意をもっていた。
 ポリスの軍隊はかろうじて、このフロプカの乱を鎮圧するが、その翌年には、ポリスにとってきわめて不利なうわさがひろがりはじめた。
 すなわち、死んだとされているイワン雷帝の遺児ディミートリー(一五九一年、九歳で謎の死をとげたが、ポリスの刺客によって、殺されたともいわれた)が生存しており、十年前に殺された少年はじつはかえ玉で、本人はポーランドに亡命して時のいたるのを待っているというのである。
 騒然たる世論のうちに、一六〇五年春ポリス・ゴズノフはクレムリンの一室に急死した。
 晩年の彼は恐怖症にとりつかれ、人目をさけてつねに宮殿の奥深くとじこもり、「あたかも盗人(ぬすびと)のごとく」オドオドしていたという。
 彼のあとを子フョードル(フョードル二世)がついだが、「皇子ディミートリー」を名のる謎の人物があいついで登場し、「動乱(スムーク)」時代(一六〇四~一三)はいよいよ拍車をかけられる。




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