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聖母のご遺体はどこにあるのか? 聖母被昇天にまつわるエピソード

2024-06-19 06:04:33 | 聖母崇敬
 勿論、「聖母の被昇天」とあるのですから、私たちカトリック信者は、聖母が霊肉共に天国に上げられたとは普通に想像がつくはずです。だけでなく、これは、ピオ12世によって教義宣言されていたと思います。

 が、亡くなってから復活して体ごと天に上げられたのか、亡くなる前に上げられたのか、など、なお議論の余地はありましょう。これは、そのような聖書の間隙を埋める言い伝えです。



 カトリック教会の暦には、聖母の祝日がたくさんあります。でも、そのなかでもとりわけ、最も喜ばしく、また、もっとも親しまれているのは、聖母被昇天の大祝日(8月15日)です。この日に記念されることは、主に二つあります。
①聖母マリア様の実に清らかなご臨終
②聖母の、天主におけるたぐいない御栄え
です。

 聖母が、聖霊降臨の日(主の復活後、40日目に主は昇天された。そのさらに9日後、聖霊降臨がありました。)に、御弟子らとともにおられたとき、聖霊とその賜物をお受けになったことは聖書の使徒行録にあります。でも、その後のことについては、何も聖書にしるされていません。
 これは、それからの聖母マリア様の御生涯が、個人的な御生活であって、直接わたしたち人類の救霊に関係がなかったためであろうと考えられています。でも、伝説には、その聖母の晩年の話もいろいろと残っています。

 それによると、聖母は、聖霊降臨後まもなく、小アジアのエフェゾ市に退き、十字架上のイエズス様の御遺言どおり、使徒聖ヨハネのねんごろな扶養を受けながら、なおも徳を積み、天上において最愛の御子と再会する喜びの日をひたすら待ちつつ余生を送られたということです。ただ、そのご臨終の場所も時間も伝えられていないのは、本当に残念なことであるといわなければなりません。

 一般的に、人間の死は、聖パウロも教えている通り、罪の罰です。(ローマ書5の12)ところが、聖母には自罪はもちろん、原罪のけがれすら、ありませんでした。ですから、理屈からすると、聖母は決して死ぬような理由はありませんでした。でも、やはり逝去されたということは、まったく御子イエズス・キリストの御死去と同様、ただ、人々を救い、その霊魂を天国に導くためにほかならないのです。

 ですから、聖母のご逝去は、一般的にみあれる、疾病・老衰など、罪の罰である苦しみが少しもありませんでした。
 聖ベルナルドが言っています。「天国への渇望の激しさに、聖母の聖い霊魂が清い御肉体を離れた」にすぎませんでした。そして、主イエズス・キリストが復活・昇天されたように、聖母マリア様も御死去後まもなくよみがえり、その御霊魂御肉体もろとも天国にあげられなさいました。このことは、カトリック教会の初代から、広く人々に信じられてきたところでした。

 それに、全能の天主がご自分をその胎内に宿してくださった御母に対し、あらかじめ原罪のけがれさえ取り除くほど有難い配慮をなさったとするならば、御死去の後も、その御肉体を穢れのしるしのような腐敗から救われたのは当然なことです。

 ですから、聖母マリア様が死後その御肉体も御霊魂とともに天国にあげられたということは、聖母の無原罪などと同じように、天主の聖母の特権で、1950年11月1日、諸聖人の大祝日に教皇ピオ12世が、全世界から集まった多くの司教、司祭や平信者の前で、信仰箇条として定められたのです。

 カトリック教会は、聖母マリアのこの特権を記念するため、早くから被昇天の大祝日を設け、聖母の被昇天に対する典礼を定めました。また、カトリックの名だたる芸術家たちは、聖母の被昇天を題材として詩文、絵画、彫刻に数々の傑作を残しました。一般のキリスト教信徒は、これに関してさまざまな伝説を残しました。次の話は、そのもっとも古い一つであって、ニケフォロ・カリスチの歴史にしるされているものです。

 東ローマ帝国のマルチアノの皇后ブルケリアは、かねてから、一つの聖堂を建立し、それを聖母にささげ、かつ、その御なきがらをそこに安置したいという望みを有しておられました。それで、皇帝は、カルケドンで公会議を招集されたときに、エルザレムの司教ユヴェナリスに向かい、聖母マリアの御なきがらの所在地を尋ねられたところ、司教は答えました

「聖母の御死去については、聖書に何事もしるしてございません。しかし、古い確かな伝説によれば、聖母のご臨終には、使徒たちがみな、布教先から馳せ集まり、最後のお別れを申し上げ、御息が絶えてからは祈りに聖歌に御徳を賛美しつつ、丁重に、御なきがらを、とある巌穴に葬りました。ところが、それから3日を経て、唯一人、遅れて到着した使徒聖トマに、聖母の御死顔を見せるために御墓をひらきますと、不思議にも御なきがらは見当たらず、御なきがらを包んであった布は、たたんで傍らに置かれ、あたりには、何ともいえなかぐわしい香がただよっていました。使徒たちはこれを見ると大いに喜び、「主イエズス・キリストは、御母を復活させ、清い御体もともに、天国にお迎えなさった」と、叫んだということでございます。」

と語ったそうです。

 同じように天国に昇られたにしても、主キリストの場合は、御昇天といい、聖母マリアの場合は被昇天と呼びます。
 これは、主は、天主の全能をあらわすために御自ら天にのぼられたのに対し、御母は人間であるからそういう力はなく、ただ、主の御力によって天にあげられたという相違を示すためです。

 聖母の被昇天は、読者も御存じのとおり、わが日本カトリック教会において主日同様守るべき4大祝日の一つとされていますが、この日は、実際、我が国にとって別な意味でも重大な日でもあります。それというのは、日本に渡来した最初の宣教師である聖フランシスコ・ザビエルが、鹿児島に上陸し最初のミサをささげたのが、8月15日。ちょうど聖母被昇天の大祝日にあたっていたからです。

 ですから、わたしたちも、この日を機会として、更に聖母への崇敬と信頼とを深め、絶えず、日本カトリック教会の上に聖母の厚い御保護を願わなければなりません




9-6-2 偽者ツァーリ

2024-06-19 05:04:19 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
6 雷帝後の動乱のロシア
2 偽者ツァーリ

 ロシア史における「動乱」時代の特色は、「皇子ディミートリー」を名のる謎の人物が、あいついで登場することである。
 彼らが何者であったかは、いまだに不明である。
 一説によると最初にポーランドに出現する「偽ディミートリー」は、もと大貴族ロマノフ家の家内奴隷であり、のちに修道僧となり、グレゴリーを名のった。
 この男が、やがてロシアの帝位を要求する「僭称者(せんしょうしゃ)」として登場するのは、実はポリス・ゴズノフの政敵ロマノフ家(ゴズノフの迫害を受け、ポーランドへ亡命)の陰謀であったといわれる。
 また、別の説によれば、ポーランドにあらわれた「ディミートリー」は、このグレゴリーとはまったく別人であるという。
 いずれにせよ、このえたいの知れない青年の人相は、当時の記録によると、「身の丈はふつう以下、顔は不細工で美男とはいえないが、憂いにみちた表情」であった。
 しかしこのディミートリーの出現が、一方では、ロシアの国教であるギリシア正教に対抗し、カトリック教会の勢力振興をはかるローマ教皇と、これと結託して領土拡大をねらうポーランド王、他方では、ポリスの独裁に不満な国内の大貴族たちとむすびつく、国際的な「大陰謀」、「大賭博」であったことほまちがいない。
 そのうえ、十年前には、いわゆる「ウグリチ事件」(皇子ディミートリーが一五九一年五月ウグリチで変死)の調査団長をつとめた大貴族のワシリー・シュイスキーが、いまや前言をとり消して、「皇子生存説」に加担したから、混乱はなおさらであった。
 飢饉に苦しむ農民や冒険好きのコサックは、「新しいツァーリ」を救世主として歓迎した。
 一六〇五年、ポリスが死んでまだ四ヵ月もたたないうぢに、ポーランド兵を先頭として偽ディミートリーは、モスクワにはいり、大貴族や市民の歓呼のうちに帝位につぃた。
 これがロシア史上、いわゆる「偽ディミートリー一世」である。
 彼は統治者として意外に有能であり、毎日のように「大貴族会議」に出席して政務を聞き、民心の掌握にも意をもちいた。
 そして奇怪にも、イワン雷帝の未亡人(殺された皇子ディミートリーの実母)までが、この偽者を実子であると証言している。
 ゴズノフ時代には、国外追放のうきめをなめていたロマノフ家の人びともよびもどされ、なかには要職につくものもあった。
 しかし偽ディミートリーの治世は、けっきょく一年とつづかなかった。
 シュイスキーが偽ディミートリーを承認したのは、ポリス・ゴズノフをたおすのが目的であった。
 「こんどは僭称者を追っぱらう番だ」と私語したというが、ここでまた例のごとく、大貴族の陰謀がめぐらされる。
 彼らはまずモスクワの群衆を煽動し、不満の目をモスクワ宮廷で野蛮な振舞をしているポーランド兵にむけさせた。
 一方、僞ディミートリーは重大な失策をおかした。
 かねてからの恋人、ポーランド貴族の娘マリーナを正式に妃にむかえたことである。しかも彼女は、ロシア人が異教徒として忌(い)みきらうカトリック教徒であった。
 偽ディミートリー即位の翌年(一六〇六)の春、このマリーナは、多数のポーランド貴族や軍隊にまもられてモスクワに到着し、クレムリンで盛大な結婚式があげられた。          

 これにつづく、連日連夜の底抜けの祝賀大宴会で、酔いしれたポーランド貴族や兵士が街に流れだし、市民に乱暴狼藉(ろうぜき)をはたらいた。
 好機いたれりとシュイスキー以下の大貴族たちは、ポーランド人にたいする市民の不満をあおりたてる。
 五月十七日の夜、教会の鐘の音を合図に暴動が起こり、群衆は「ポーランドの犬どもをやっつけろ」と叫びながらクレムリンに殺到する。
 おどろいた偽ディミートリーは、逃げようとして窓からとびおり、頭と胸をうち、足を骨折して気絶した。
 怒り狂った群衆は、石や棍棒や剣などで彼をところきらわずめった打ちし、土足で踏みにじり、その死体は「赤の広場」でさらしものにされた。
 さらに死体は煤やタールをぬりつけられ、切りきざまれたうえ焼かれ、その灰は大砲につめられて、彼がやってきたポーランド方向の天空に発射されたという。
 もってその憎しみのほどが知られる。





聖ロムアルド大修道院長     St. Romualdus Abbas  

2024-06-19 04:16:47 | 聖人伝
聖ロムアルド大修道院長     St. Romualdus Abbas            記念日 6月 19日



 聖ロムアルドの生涯は御憐れみの限りない事と、罪人も痛悔して聖寵の導きに従えばよく完徳の域に達し得る事とを示す最高の実例である。

 彼はイタリアのラヴェンナに生まれた。父母は貴族であったが、その生活振りは全く世俗的非キリスト教的であったから、息子のロムアルドも見真似ですでに若い時から心の清さを失い、父母の如く放埒な生活を送るようになった。しかし信仰だけは依然として守っていた。これは不品行な人にしては極めて珍しい例である。
 彼はしばしば、例えば馬に乗って人里離れた静かな所へ来た時など、どうにかして聖教に違わぬ生活がしたい、否、時としては聖人のような完徳の生活がしたいとさえ思う事があった。が、一方堕落の淵からはなかなか浮かび上がる事が出来なかった。
 けれども遂に恐るべき事件が起こって、その織りに与えられた天主のあつい聖寵は、彼の改心を促さずにはおかなかった。その事件とは彼の父セルギオがふとした事から親戚の一人と不和になり、決闘を行ってこれを刺し殺した事である。その時青年ロムアルドも介添人として無理に父に同行を命ぜられたが、相手の悲惨な死に様を見ると深く心を打たれ、ラヴェンナ郊外のクラッセ修道院に40日間籠もって、殺人罪を犯した父と、それに連座した我が身の為、償いの苦行をする事にしたのである。
 償い終わって心が晴れると、彼は又元通りの生活に帰ろうとしたが、一人の修士は彼を全く改心させたいと思い、熱心に修道院に入ることをすすめた。しかし彼はなかなかそれを聴く気色もないので、その修士が最後に「では、私達の教会の保護者聖アポリナリオに逢わせて上げますがどうですか」と言うと、そんな事の出来る訳がないと思うロムアルドは「よろしい、そうしたら修道者になりましょう」と約束した。
 その晩彼は修士に連れられて教会に行った。そして祈りをしていると果たしてその聖人が現れ、幾つもある祭壇を一々見回り、それから自分の墓の所で消え失せた。その次の晩も同様であった。かくてロムアルドは全く改心して、修道院に入る事を願うに至ったのである。
 修道院に入った時彼はようよう21歳であったが、始めからまじめに総てを行い、殊に祈りと克己の業とを好んだ。残念な事にはこの修道院には世間的な空気がみなぎっていて、修道者もあまり熱心でなかったから、ロムアルドは黙視出来ず再三それを咎めたが、その為多くの人々は彼を憎み、中には彼を殺そうと謀る者さえ出るに至った。幸い天主の御加護に依って彼はそれに気づき、自ら願ってその修道院を去った。もっともそのまま世間に帰った訳ではない、完徳に達したい欲求からマリノという山修士に師事する事になったのである。
 その頃ヴェニスの大統領のペトロ・ウルセオロが遁世の志あり、マリノとロムアルドに相談してフランス、クザンの聖ミカエル修道院に入ったが、マリノとロムアルドもその修道院の付近に庵を結び、従前の厳格な生活を営む一方、農耕の業にも従った。
 その頃ロムアルドはさまざまの試練に遭遇した。まず過去の記憶が彼を苦しめ、悪魔も内外から彼を責めさいなんだ。しかし彼はその悩みがいかに大きくともよく耐え忍び、深い信頼を以て祈り、総てを我が罪の償いとして献げた。されば彼の徳は目に見えて進歩すると共に、彼の父もまた改心の恵みを得て修道院に入る決心をするに至ったのである。
 が、父にはその生活があまりに厳しすぎたのであろう、間もなく又世間に帰ろうとした。それと知ったロムアルドは急ぎイタリアの父の許に帰った。そして或いは慰め或いは諫め、忍耐して修道院に留まる事を、誠意おもてに現して願ったので、父もその言葉に従い還俗を思い止まり、しばらくの後敬虔な死を遂げたという。
 爾来数年間はロムアルドの上に慌ただしい月日が続いた。彼はイタリア国内を転々と、静寂の境を求めてさまよい歩いた。適当な所はいくらでもあったが、彼が一旦そこに庵を結ぶと、たちまちにしてそれが駄目になるのである。というのは、それと知るや否や四方八方から、教えを請いに数多の人々が潮の如く押し寄せて来るからである。弟子にしてくれと言う者もある、私共の修院長になってくれと願う修士等もある。ロムアルドはほとほと困却せずにはいられなかった。彼は唯人々の煩いを逃れて、静かに貧しく慎ましやかに天主に仕えていれば満足なのである。

 996年ドイツ皇帝オットー3世は、イタリア訪問の折り自分の保護の下にあるクラッセの修道院をも訪れたが、その乱脈に驚き、改革を思い立ち、之が遂行に適当な人材を修道者等に選ばしめた所、誰も彼もロムアルドを望んだ。で、皇帝は親しく聖人を訪い、その大任の引き受け方を懇請したので、彼もやむなく承諾した。
 けれども彼の様々な努力も矢張り空しかった。彼は司教と皇帝に願って淋しくまたわが庵に帰った。
 しかしそこにおける数人の弟子の敬虔な生活は彼の心を十分に慰めてくれた。中でも、後にロシアに布教し殉教したボニファチオ、ハンガリーに布教し、同時に殉教したヨハネとベネディクト、この3人は傑出していた。ボニファチオ殉教の報に接した時など、ロムアルドは自らその地へ急行しようとまで思った。もっとも丁度重病の床にあってその望みを果たす事は出来なかったが。
 後彼はある富豪からカマルドリと呼ぶ静かな土地を贈られ、そこに弟子達の為に修道院を設け、同時にカマルドリ修道会を創立した。同会は今日もなお存し、峻厳な生活振りを以て世に聞こえている。
 ロムアルドは又シトリオ山上にも一つの修道院を設けた。そこへ彼は、前に放埒の限りを尽くした貴族出の一青年を入らしめたが、この青年は改心を誓いながらも素行は依然収まらなかった。で、ロムアルドは彼を善導すべく百方手を尽くしたけれど、相手は心を改める所か却って師の忠言叱責を怨みに思い、彼が自分と共に人知れず放蕩をしているというような、あらぬ噂を立てた。人々はこれを信じて大いに怒り、彼を縛り首の刑に処すか、或いは彼の住居を焼き払おうとまでいきり立った。彼は御ミサを立てる事も禁ぜられた。けれどもロムアルドは唯黙々としてこの濡れ衣の屈辱を忍び、その命に服した。もっともある時天主御自身が現れ給うて、御ミサを献げよと仰せられたとも言われている。彼は今や年老いて死期の近づいた事を悟った。ある日彼は一人でいたいからと言って傍の人々を去らしめた。孤独を愛した彼は、死ぬにも天主と水入らずで唯一人死にたいと思ったのである。
 翌朝聖堂に彼の姿が見えなかったので、弟子達がその部屋へ行ってみると、師は安らかに大往生を遂げていた。時に1027年、6月19日の事であった。

教訓

 わが罪の償いをせねばならぬ。それには病苦、日頃の労苦、又人に悪意を持たれるつらさなどを忍ぶがよい。不成功、忘恩、誹謗などに心痛む時も、聖ロムアルドの如く常に天主への信頼を失ってはならぬ。いつかは必ずその報いを受けるであろう。