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雑木を伐採!

2024-06-12 01:37:01 | その他
 バラが邪魔をして、今まで切れずにいた雑木二本を伐採しました。一昨年から気付いてはいましたが、バラの間隙に生えてきた雑木でしたので、うっかりすると誤ってバラの枝を切ってしまいそうで、なかなか手を出しかねていました。それにしても、随分と、高く、太くなったものです。



 チェーンソーは本当に便利ですね。新型コロナの直後にインフレ対策の一環で買いましたが(値上がりしないうちに、なんでも買おうと)、良い買い物をしたと思っています。これからの時代は、サバイバルの能力も求められるかもしれませんし、一戸建てにお住まいの方は、買っておいた方がいいかもしれません。

 しかし、鬱陶しかった雑木も、こうしてあっけなく切られてしまいました。私たちも、常習的に大罪があったり、大罪の習慣があったりした場合には、時が来れば、このようにいとも簡単に切られてしまうのかな、と考えずには、いられませんでした。

 切り株を枯らすか生かすかは、思案のしどころです。切り株になんであれ有害な液体を注入すれば、簡単に枯らすことはできるでしょうが、土壌が脆くならないかなど心配もあります。どこにでも生えてくるような極めて生命力の強い雑木ですので、切り株を放置すれば、根は生き続けるでしょう。


 一方で、6月も中旬に入りそうですので、スズメバチの罠を撤去しました。そろそろ、働きバチが羽化する頃ですので、これ以上の女王蜂の捕殺は期待できません。今年も、10匹以上の女王蜂を捕まえることができました。



8-5-2 太陽王のある一日

2024-06-12 00:59:08 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
5 ルイ十四世が造ったベルサイユ宮殿の盛衰
2 太陽王のある一日

 ベルサイユの宮殿と庭園の工事には、当時の美術家たちが動員された。
 宮殿中央の主館を設計したのはル・ボー(一六一二~七〇)であり、マンサール(一五九八~一六六六)はこれをうけつぐとともに、有名な「鏡の間」や礼拝堂を建造した。
 この「鏡の間」の装飾にあたったループルン(一六一九~九〇)は、画家としてよりも装飾家として天才的であり、かずかずの絵とともに、宮殿のため椅子、テーブル、じゅうたん、銀細工、鍵穴までデザインした。造園を担当したル・ノートル(一六一三~一七〇〇)は個人的にも王に親しかった。
 そしてこの雄大、豪華なベルサイユ宮殿は、当時のバロック美術を代表するものであった。
 そしてルイ十四世はベルサイユに熱心であっただけに、またものごとを統(す)べる才に長じていただけに、宮殿から庭園と細部にいたるまで、最後の決を下すのは王自身であった。
 王はしばしばル・ノートルをともなって何時間も逍遙(しょうよう)し、ちょうど将軍たちと軍事について論ずるように、樹木や泉水の配置などにかんして意見をのべるのであった。
 一六八二年五月、ルイはその新しい宮殿にうつったが、そのときはまだ万を数える人びとや数千の馬が働いていたという。
 主要なものは完成していたが、全体的な造営や改修は王の治世を通じてつづく。宮殿の二階、昇ってゆく朝日に面して、公私にわたる王の部屋が位置している。王妃、王族の居室のほかに、廷臣の用に供すべき多くの部屋が準備されてある。   

 いまや「王座の飾りもの」となった貴族たちは、主の寵愛をうるために、出世の機会をつかむために、領地を離れてベルサイユに集まってきた。
 「暦と時計さえあれば、遠く離れていても、王がいまなにをなさっているかを推測できる。」
 それほど、ベルサイユにおける王の日常生活はわずらわしいまでに、整然と時間を定めてとり行なわれた。
 ある記録をたどってみると、だいたい、つぎのようなぐあいである。
 とくに命じた時間に起きる場合を別として、八時が告げられると、部屋係が王のベッドに近づいて、言上する。
 「陛下、八時でございます。」
 王の部屋の寝台がある部分は、柵をもって他(ほか)としきられている。
 寝室へはいれるのは、王族や廷臣たちの大きな特権であり、四つほどのグループに分けられ、順を追って出仕する。王が目ざめると、王弟や王子たちが入室してあいさつする。   
 八時十五分、幼時の王に授乳した乳母がやってきて接吻する。
 王は医者たちの軽い診断をうけたのち、アルコールで手をあらい、その日に必要なかつらをえらぶ。
 かつらをつけるのは当時の貴紳の風習であり、ルイ十四世はそのために自慢のブロンドの頭髪をそらせてしまったという。
 それから王は上靴をはき、夜着のうえにガウンをまとう。
 肘かけ椅子に腰かけ、一朝おきにひげをそる。終わると、かつらをつけ、こうして「起床」の次第がはじまる。
 百人ばかりの廷臣たちがこれに列席し、王の着がえを見まもるわけだ。
 まず靴下、つづいて半ズボン、靴と、身仕度はととのえられる。
 しかしまだガウンのままで、王は白パン、水などの軽い朝食をとるが、紅茶、コーヒー、チョコレートの類は好まなかったらしい。
 朝食後、王は夜着をぬぎ、下着をきるが、寒いときにはそれは温められている。
 このときは二人の召使がガウンをかかげて、人目をさえぎる。
 つぎに王は剣や装身具などをつけ、ネクタイやハンカチーフは自分でえらぶ。
 王が上着をきると、帽子、手袋などをわたされるが、これらの品々は一つ一つ、廷臣か、召使によって王にさしだされる。
 下着を手わたすのは最高の特権であり、王太子か、王族がこれに当たるのが通例である。
 夜着をぬがせるなどの作法も、正確に定められていた。
 起床の次第が終わると、王はミサのまえに政務の間へはいり、その日のいろいろな命令をあたえたりする。
 ミサのあとは、謁見がある木曜日と聴罪司祭に告白する金曜日をのぞき、王は政務の間で国務会議をひらく。
 昼食は一時に一人でとる。
 食事は、銃を持つ三人の兵をふくむ十人の護衛に守られて運ばれるが、その行列にぶつかると、廷臣は帽をぬぎ、礼をし、低い声でいわねばならぬ。
 「王さまの召しあがりもの。」
 すべての食物、酒類が毒味されていることはいうまでもない。
 ところで食事といえば、毎日ではないにしても、ルイ十四世は死のまえの週まで公開で食事をとったと記録されている。
 王のナイフをあつかう手つきのあざやかさに、見物の人びとは感心したという。
 「太陽王」「大王」といわれたルイ十四世であるが、当時のしきたりとして、一般国民の見物の対象となったものとみえる。
 これは王および王族は、国民のものという考え方からでたものと思われ、この点、わが国とはかなり違っている。
 とくに王宮がパリにあったころには、朝から晩まで市民たちがおしかけ、盛り場同然の騒ぎだったというから、日本の皇居のありかたとも違っていた。
 さて昼食後、王は軽い狩りをしたり、運動のため、あるいはつづけられている造営作業を見まわるため、散歩するが、この散歩には多くの廷臣たちが同行するならわしであった。
 帰ってくると、王は政務の間で少しのあいだ執務する。
 晩餐はおそくなる。
 このときは王族も食卓につき、男女の貴族たちも同席するが、なかには立っている者もいる。
 王は間食をほとんどとらないので、ひじょうに空腹であるうえに、元来たいへんな大食漢であった。
 したがって盛りだくさんの料理だったらしい。      



 食後には歸踏会、音楽会、トランプ遊び、天気がよければ庭園での集(つど)いが行なわれたり、あるいは王は王族との語らいにすごすのが習わしであった。
 王が就寝のときには、またその礼式がとり行なわれる。
 朝、身につけた場合と同様に、こんどはぬいでゆくが、やはり廷臣たちの立ち会いのもとである。
 王がからだを洗ったりするころには、同席の人数も少なくなる。
 ローソクを持つ役目は、特別の名誉である。
 おつきの者と小姓たちが最後に残り、王は犬たちに食糧をあたえたり、これらとたわむれたのちべッドにはいる。
 小姓たちは明かりを消し、おつきはベッドのカーテンをとざして退去する。
 絶対君主はこうして眠りにつき、ベルサイユの夜はふけてゆく……。 



サハグンの聖ヨハネ司祭証聖者    St. Joannes a S. Facundo C.

2024-06-12 00:00:07 | 聖人伝
サハグンの聖ヨハネ司祭証聖者    St. Joannes a S. Facundo C.   記念日 6月 12日


 南欧には熱しやすく冷めやすい、いわゆる多血質の人々が多いが、かかる人々を心服させる為には、何か目覚ましい功績を立てねばならぬ。本日は華々しい活躍を以て彼等の心をしっかりとつかんだ不世出の司祭サハグンの聖ヨハネに就いて語ろう。

 サハグンとは彼の生まれた南スペインなる町の名で、正しくはサンクト・ファクンドというのを略称したのである。その出生は1419年、父はゴンザレス、母はサンチャといったが、長い間子宝に恵まれぬのを悲しみ、天主に祈願をこめた所、幸いに聞き入れられてヨハネを得てからは、なおその他に6人までも子女を与えられた。何しろ長男の事でもあるので、両親はヨハネの教育には特別意を注ぎ、市のベネディクト修道会に託してその付属学校に学ばせた。同校を卒業したヨハネは、ブルゴスという地の司教に寵愛され、その司教座聖堂付き参事会員に選ばれ、叙階されて司祭になったが、名利を望まぬ彼はそこを去って、更に他人の救霊の為十分な準備を為すべくサラマンカ市の大学に入り、神学の研究を続け、めでたく学位をかちえてから、同地聖セバスチアノ教会の助任司祭に任命された。
 当時サラマンカ貴族の青年が二派に分かれて決闘し、一方の人々は敗れて殺されたが、その親族一同はこれを深く怨み、又しても相手を殺したので、市中は鼎のように沸き立ち、人々も各派に味方して相争い相害し、いつ果てるとも知れなかった。ヨハネは大いにこれを憂い、或いは聖堂における説教に、或いは個人に対する教訓に、復讐は非キリスト教的行為であることを強調し、又時にはあわや流血の惨事を引き起こそうとする両派の間に身を挺して争闘を防ぎ、及ぶ限り調停に努めたから、ついには市民もその熱心と赤誠に動かされ、一切を水に流して和睦すると同時に、それからはヨハネを「平和の天使」「サラマンカ市の救い主」などと呼び、一方ならず彼を尊敬するようになった。
 さてヨハネは日々己の聖務を忠実に果たしつつ時を過ごす事9年、大病に罹って手術を必要とするに至った。その時彼は「もし幸いに経過がよくて快復したら、必ず修道院に入りましょう」と天主に誓願を立てたが、手術の結果は意外に良好に、日ならずもとの身体になったから、彼は財産をことごとく貧民に分かち与え、衣服を乞食に恵み、約束の通りサラマンカ市のアウグスチノ修道会に入会した。
 彼は既に45歳であったけれど、若い修練者達の間に立ち交じって、彼等に劣らず祈りや苦行に精を出し、1464年修道誓願を立て、後長上から又も説教者に任ぜられた。彼は硬骨正義の士で、如何なる富貴権勢の人の面前に出ても少しも恐れず、相手に悪しき所あれば遠慮なくこれを誡めたから、時々人の機嫌を損ねて迫害を受け、生命の危うきに臨んだ事も一再ならずあったが、いつも不思議に難を逃れ得たのは、義人を惜しみ給う天主の御庇護があったのであろう。
 しかし彼がこの世を去るべき時は遂に来た。ヨハネはある貴族の青年が一婦人と道ならぬ享楽に耽っているのを知るや、例によってその非を説き諭し、首尾よく彼を改心させたが、相手の女は深く聖人を怨み、ある日彼に毒を盛った。為にヨハネは病床に伏す身となり、数ヶ月を経て61歳を一期とし、天父の御許に赴いた。時は1479年6月11日。けれどもその記念は聖会の定めによって今日12日に行われる。


教訓

 異教徒はしばしば復讐を目して正義とするが、一度キリストの愛の教えに触れた者はこれを罪悪と認める訳にはゆかぬ。サハグンの聖ヨハネが、復讐の妄執に囚われて血に飢えつつあるサラマンカ市民の軽挙を、宥め、誡め、身を以て禁めたのも彼がキリスト教的愛の真の体得者であったからである。我等も主が命じ給うた隣人愛の御掟に則り、その御かがみの如く我等に悪を為す者をも怨まず「父よ、彼等はそのなす所を知らざるにより、これを赦し給え!」と祈ろう。