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都知事選とか

2024-06-13 06:46:08 | 時事


1、都知事選の予想

 都知事選とか、どうなるんでしょうね。今のところ、各地の選挙では、立憲民主党系の候補が圧倒的に優勢です。立憲系の候補者が7連勝しています。その内訳は、衆院選補選の東京15区、島根1区、長崎3区、東京都議選補選の目黒選挙区、港区区長選、静岡県知事選、鹿沼市長選です。

 蓮舫さんは、今までの野党共闘候補よりも遥かに票を取るでしょう。もしかしたら、当選するかもしれませんし、そうでなくても、小池さんといい勝負をすることでしょう。

 あくまで、思案の手助けですが、慣れない票読みをしてみると・・・

 過去の選挙の傾向に高齢化の要素を少しだけ加味すると、投票総数は600万票くらいでしょうか。そして、野党共闘系の候補に投票する人で、他の新人候補に浮気する人は、そう多くないでしょう。

 ですので、600万票から、蓮舫さんの予想される票を引き、他の候補者の票を引いた残りが、小池さんの票だとすれば、大体、予測ができるでしょうか。

 すると、(あくまで予測の一例です!)

要約:全体 - 蓮舫 - 石丸 - 田母神 - 他泡沫候補 = 小池

全体 600万票



蓮舫 250万票 ←立憲系が7連勝中であることや、都民が小池に飽き始めていることを加味します

石丸 40万票
田母神 20万票

他の泡沫候補たち 30万票



小池さん 260万票! 危ない!

 非常に僅差です。勿論、予想の一例であり、現実が、これと違ってくることは言うまでもありません。蓮舫さんが勝つ可能性も、十分にあります。そうでなくても、いい勝負をするでしょう。


2、蓮舫が勝ったら、どうなるか?

 もし、蓮舫が勝ったら、どんな都政になるのでしょうか。いろんな予想ができますが、私の興味範囲の分野だけ、書くことにします。

2-1、平時における政策

 まず、小池都政の見直しが始まるでしょう。腐敗についても、査察が入ります。かつて、小池百合子の秘書で、東京都議を一期務めた野田数は、東京都の子会社である東京水道の社長に天下りしています。そのような汚職的な人事は徹底的に見直されることでしょう。

 小池都政の目玉の一つである、ソーラーパネル設置義務化の条例は、どうなるでしょうか。条例制定時の賛成会派と反対会派を調べてみたところ、立憲民主党も日本共産党も賛成しているようです。これは、据え置きになるかもしれません。

 他に・・・LGBTの権利の強化は、一層、推進されるかもしれませんね。


2-2、有事の際の政策

 平時における変化は、こんなところだとして、新型コロナやウクライナ戦争以後、どうにも世界の情勢は不穏です。万一、台湾危機が迫ったり、起こってしまった場合には、どうなるでしょうか。

 蓮舫さんの傾向や性格、支持政党である立憲民主党や共産党の方向性から考えて、有事関連条例の制定は、遅れるでしょう。自衛隊の道路や施設の使用許可や、物資の集積や、既に備蓄してある物資の適切な配分、避難計画の策定やシェルターの建設など、有事に必要な政策の殆どが、保守派や中道の知事の時よりも遅れることでしょう。

 蓮舫さんが都知事になっても、平時にあっては、そこまで都政に悪い変化はなさそうですが(私はカトリックとして、同性愛等には反対的な意見を持っています)、有事には深刻な悪い影響があるかもしれません。

§§

 あくまで、選挙にも票読みにも不慣れで専門外の私による気休め程度の予想ですが・・・各自、必要なことをしていきましょう。

 私自身は、東京都民ではありませんが、例えば、新型コロナ流行直後から、いろいろ動いた結果、随分と資産を増やしています。私のような一市民が動いても、政治に与える影響は知れていますが、自分やその家族には、このように大きな影響をもたらすことがあります。各自、自分の持ち場で、今の時期に何をすべきかを考えて、それを始めていきましょう。




8-5-3 廷臣たち

2024-06-13 04:43:23 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
5 ルイ十四世が造ったベルサイユ宮殿の盛衰
3 廷臣たち

 新装のベルサイユ宮殿には廷臣の用に供するための多くの部屋があり、ルイ十四世はこれらを貴族たちに適当に与えたわけであるが、それこそ彼らにとって、まず何よりの恩寵であった。
 それから廷臣たちは何かの役職にありつかなければならない。
 前にのべた王の一日のスケジュールをとってみても、それらに参加、列席できる資格は厳重に定められ、王もこれを巧みに分配して貴族たちをあやつった。
 太陽王排便のときにも、それに参列できることは廷臣の大きな特権の一つであったという。
 豪奢を愛する王は、万事にたいへんな浪費家であったが、廷臣もそうでなければならなかった。
 これは王の恩寵にあずかる一手段であるとともに、貴族たちの生活を苦ししくて、王権に頼らざるをえないようにする一つの政策でもあった。
 宮廷生活における出費は、当時の貴族が貧乏になった一因ともいわれる。
 そして廷臣たちは役職をねらって必死であった。
 ベルサイユ宮殿にきていたある外国人が書いている。
 「国王によって認められたいと思う廷臣たちの情熱は、信じがたいものがある。
 王が彼らのなかのだれかに一瞥(いちべつ)をあたえると、この男は運がまわってきたと信じ、誇らしげに吹聴(ふいちょう)するのだ。
 『王がわたしをごらんになった!』」
 機会を待ちながら、長い年月を空費する廷臣たちも少なくなかった。
 彼らの一人が新顔の廷臣に語ったという。
 「あなたのなすべきことは三つしかない。すなわちあらゆる人びとをほめること、どんな役でも空いたらすぐに願い出ること、そして出来るかぎり、控えの間にいることです。」
 廷臣たちにとって他人の失脚こそが望ましかったわけだから、陰謀、策動は日常茶飯(さはん)事であり、表面的には豪華で楽しげな宮廷生活も、じつは陰気で神経を緊張させ、刺激するものであったと思われる。
 ルイ十四世は人一倍、追従(ついしょう)や迎合を好んだ王であったので、この点を利用しようとする廷臣たちの努力も相当なものであった。
 妻がいつ、お産をするかと王にきかれたある貴族は、「陛下がお望みのときに」と答えたというが、この廷臣はまた王妃に、「いま何時か」とたずねられて、「王妃さまがお望みのままの時刻です」と答えたとあっては、いささか作り事めいているではないか。
 古典悲劇の作家として有名参ラシーヌはまた、王の修史官でもあったが、ある戦役に従軍しなかった。
 その理由を王にもとめられたとき、この文人の返答は巧妙なものであった。
 「従軍用の服を注文しましたところ、仕立て屋がまことにのろくて、それが出来あがるころには、陛下が攻撃された都市はすでにすみやかに落城いたしておりました。」
 ベルサイユの森をきり開いているころのことだが、視界をさえぎる一群の木々があった。
 王がこれに不満をいだいていることを知ったダンタン伯は一計を案じ、これらの木々を根元で切り、しかも一時倒れないように細工していた。
 つぎに王がこの場にさしかかったとき、木々はいっせいに倒れた。
 「私はこれまでこんなに愉快な光景に接したことがない」と、王はきわめて満足の態であったが、かたわらで見ていたブルゴーニュ公妃は女官たちにいったものだ。
 「もし王さまが私たちの首を望まれるときは、ダンタン伯は同じようにやってしまわれましょう!」
 女官といえば、貴婦人たちも王の気持ちにとりいるように努めた。
 ある日、寵姫フォンタンジュが王とともに外出したとき、みだれた髪をかきあげて持ちあわせたリボンでくくった。
 これはたいへん王の気にいった。
 すると宮廷の貴婦人たちはきそってこれと同じ髪型に変え、その後それはフォンダンジュ結びとして流行するにいたった。
 王は礼儀正しく、とくに婦人に対してそうであった。
 宮廷づきの洗濯女であっても、女性に向かっては自分から帽子に手をふれて礼をしたが、この礼法もつぎのように分かれていた。
 すなわち王は貴婦人に対しては帽子を完全に、男性の大貴族に対しては半分ほど取り、一般の貴族その他には帽子に手をふれる……というようなぐあいである。
 ルイ十四世時代はフランス絶対王制の最盛期といわれる。
 「朕は国家なり。」――王自身けっして口にしたことはなかったが、あまりにも有名なこの言葉が物語っているように、国務はすべて王を中心として展開した。
 王は王太子教育のため、『覚書きを口述筆記させたが、そのなかで、職務は他人まかせで、称号だけを持つような王にはけっしてなるまいと、述べている。
 彼はいわばそれを実行したわけである。
 王を補佐するのは大臣からなる最高国務会議、それから若干の専門別国務会議、ほかに人的には大法官、財務総監、陸軍・海軍・外務・宮内の国務卿などであり、中央政府の令を地方で実行するのは「王の目、耳、そして腕」といわれた地方監察官である。
 これら諸機構のもとに、フランス絶対主義の中央集権化が進められたが、それらが王の意志ひとつで左右されたことはいうまでもない。          



 なお大臣は一時にだいたい三人くらいで、職務の併任や重複は多かった。
 そして親政五十四年間に大臣の総数は十六人にすぎず、しかもそのうち貴族はきわめて少なく、彼らの側から「いやしい町人どもの治世」とよばれる一面が、ここにも現われていた。
 一方、ルイ十四世は絶対君主としての貫禄十分であった。
 からだは頑健、エネルギッシュで野心的であり、また幼いときから「王者の術(すべ)」として軍事を教えこまれた王は、野戦攻城といったことを大いに好んだ。一面、王はたいへん感じやすく、涙もろかった。
 「王の姿態は美しく、豊かな上背(うわぜい)で均整がとれた体躯(たいく)であり……
 容色は、威厳と気品とをたたえている」
 といわれるような王は、とくに馬上の英姿において颯爽(さっそう)たるものがあり、これを見る人びとは讃嘆したという。
 こういう王は自分が賞讃されることを喜び、追従や迎合をもとめ、前述したように、この点を利用するのが寵をうるための便法でもあった。
 また王はすべてに細かく気をくばったが、貴族たちの一身上の秘密をさぐるために、スパイを放ったり、手紙を開封することもためらわなかった。
 宮廷をはなれる者はその理由をただされ、出仕することが少ない者もその説明を要した。




パドアの聖アントニオ聖会博士  St. Antonius de Padua C. et E. D.

2024-06-13 04:25:12 | 聖人伝
パドアの聖アントニオ聖会博士  St. Antonius de Padua C. et E. D.   記念日 6月 13日


 パドアの聖アントニオといえば、大方の読者はすぐに、縄帯褐衣、フランシスコ会修士の服装で幼きイエズスをお抱きしている聖人の聖絵を思い起こされるであろう。これはある時イエズスがその御姿で、聖人にお現れになったという伝説に基づいたのであるが、その他アントニオは、代祷を願えばしばしば紛失物が発見されたり、奇跡が起こったりすることでも有名である。

 彼は1195年、ポルトガルの首都リスボン市で生まれ、受洗の際はフェルディナンドと命名された。幼少の時から叡智学才に恵まれていた上に、父マルチノ・デ・プロネスは貴族で羽振りのいい将校であったから、その前途は誠に洋々たるものであったが、生来現世の名誉財宝に恬淡な彼は、15歳ににして既に天主に身を献げようと志し、願ってアウグスチノ修道会に入会した。そこで彼がどれほど己を磨くに熱心であったかは、自分の家が修院に程近く両親始め親戚達が度々来訪するのを修道の妨げと、院長に頼んでコインブラの修道院に送ってもらった一事によっても察せられよう。そこで彼は玄関番の役を命ぜられて訪問客の応接、貧者への施しなどをしその暇々や晩などには、聖書や教父方の著書を研究し遂に司祭の資格を得た。
 彼が25歳の折りの事である、イスラム教徒を改宗させる為、聖フランシスコに派遣された聖ベラルドほか、4人の殉教者の遺骨が、アフリカから持ち帰られて、コインブラの聖十字架聖堂に安置された事があったが、参詣人の引きも切らぬ中にアントニオも崇敬の誠を致す為に行き、聖骨の前で祈り、黙想し、多大の感動を受けると同時に、自分も布教に活動し、主の御為に生命を献げたいとの願望を抱くに至ったのである。そしてその実現には、現在のアウグスチノ修道会では都合が悪い所から、彼は思い切って同会を退き、先の殉教者所属のフランシスコ会に入ろうと決心した所、今までの兄弟達はそれを聞いてことごとくあざ笑い、いよいよ別れる時になっては「まあ行って見なさい、あなたが新修道会に入ったら、定めし聖人になるでしょうよ」と皮肉を言う人もあったが、アントニオは終始よく辛抱し「もちろん聖人になるつもりです。幸いにそうなることが出来たら、あなたも天主様に感謝して下さい」と答えたという。

 かくてフランシスコ会の一員に加わった彼は克苦精励創立者の精神を体得するに努め、まだ修練期を終わらぬ内に念願叶って、管区長から宣教師としてアフリカに派遣される事となった。それを耳にした彼の喜びはいうまでもない、勇躍他の一修士と共に赴任の途に上ったが、不幸アフリカに着くとすぐ病に罹り、思いを残して本国に帰還せねばならなくなった。これは天主の聖旨が他に存した為で、しかも彼の乗り込んだ船は台風に吹き流されてイタリアに漂着したから、アントニオもやむなくメッシナ市付近に上陸したのである。
 然るに丁度その時聖フランシスコは各国から同会の修道者達を招集し、アッシジに大会議を開いていたのでアントニオもそこに行き始めて師父と崇める聖者の風貌を目の当たりに仰ぎ、その謦咳に接し、また参集者の修徳に対する熱情の旺盛なのを見て何とも言えぬ深い喜びに打たれた

 会議が終わるや各修道者はそれぞれ所属修道院に帰るか、或いは新使命を帯びて去ったが、謙遜なアントニオは何の任務も与えられず、しばし同地に留まっていた。するとそれに同情したのは、ロマニャの管区長グラチアノで、彼にモンテ・パウロ山中なる修道院付き司祭の職を与えてくれた。それは1221年のことであった。
 それから一年足らず、近傍のフォルリ市に司祭の叙階式があって、後ドミニコ、フランシスコ両修道会の修士達が祝賀の為集まった時、アントニオはわが会の長上の命令で、はからずも一場の小説教を試みたが、言々句々聖霊がその口に在って語り給うかと怪しまれるばかり、人々の心を動かす雄弁であったから、感服しきった管区長は彼を巡回説教師に任ずる事とした。それは1222年の事であって、爾後彼は説教家としてその名を喧伝されたのである。
 あたかも当時は北イタリアにマ二、アルビ、カタリ等各派の異端が跋扈し、人心帰趨する所を知らず、人格識見の高邁な人物の教示を待望していた折りであったので、行い正しく弁舌すぐれたアントニオの出現に接しては、驚喜し我も我もとその教えを請いに馳せ集まり、その説教聴聞者は時々二、三万の多数に上り、とても聖堂内には収容しきれぬので屋外に仮の説教台を儲けるなどのことさえあったそうである。
 アントニオは異端者改心の為イタリアのみならず、南フランスにも活躍したが、その最も力を注いだのは、愛するパドア市とその付近に於いてであった。そしてその獅子吼はいつも、聖会の為豊かな収穫をもたらさぬということはなかった。
 何故に彼がそうまで人の心を捉えたかといえば「活ける福音」といわれたほど、その生活振りがいかにも聖であった上に数多の奇跡を行うとの噂が高かったからで、魚たちに説教したとか、ロバに御聖体を拝ませたとかいう話は、中でも最も有名である。



 さてアントニオは東奔西走席の温まるいとまもない活動とあまりに激しい苦行に身体を無理した為か、健康を害し、1231年6月13日、まだ36歳の若さで帰天したが、彼が聖者であったという評判は巷に満ち、その後1年を経ずしてアントニオは教皇グレゴリオ9世より列聖せられた。それから更に30年を隔てて、パドアの市民は彼の墓の上に荘厳美麗な一大聖堂を建立したが、その完成後聖人の柩を開いて見ると、身体は腐敗していたのに、ただ舌だけは何の変化もなかった。その舌は今日においてもなお腐敗せず、黄金の顕置台中に鄭重に保存されている。
 聖アントニオは数ある聖人中でも特に人望ある一人で、その保護を望んで彼の名を霊名としている信者もすこぶる多く、聖会においても彼に対する種々の信心が行われている。


教訓

 聖アントニオは言葉を以て人に教える説教者である一方、わが身を律するに厳かな修道者であった。しかし、そのすべての功徳はつとめて言えば天主への熱愛に基づいているのである。そして人々が彼の取り次ぎに特別深い信頼を置いているのも、結局は彼が生前に高徳であったによる。されば我等も彼の保護を願おうと思えば、自らも彼の徳に倣うよう努めねばならぬ。


毎日が、あたかも最初の日であるかのように思って行動しなさい。
そして、あなたが始めた最初の日と同じ熱意をもって、常に行動しなさい。
パドアの聖アントニオ