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9-6-3 「ツシノの賊」

2024-06-23 17:12:53 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
6 雷帝後の動乱のロシア
3 「ツシノの賊」

 偽ディミートリーの死によって、「動乱」はいよいよ本格的となる。
 大貴族のシュイスキーが帝位(ワシリー四世)につくが、もはや、この「陰謀野心家のツァーリ」には、全国にひろがった反乱を鎮めるだけの威信も、実力もなかった。
 「動乱」はいまや「農民戦争」の様相をおび、あらゆる階層が、つぎつぎにその渦中にまきこまれはじめた。
 いいかえれば、イワン雷帝の独裁によってはめこまれた鉄のタガが、いっきにはじけとんだために、蜂の巣をつついたような騒乱がロシアの全土をおおい、このままでゆけば、国家の崩壊は必至となった。
 隣国のポーランドやスエーデンがこれを傍観するはずはなく、第二、第三の僣称者をたてて、ロシアに内政干渉の戦いをいどんだ。
 まず一六〇六年の秋、コサックと農民の反乱が南西ロシアー帯にひろがる。
 その首領ボロトニコフは、もと大貴族の家内奴隷で、のちにタタールに捕えられてトルコに売られ、そこで長いあいだ大橈(かい)船の漕ぎ手として働いてきたという。
 まるでシェークスピアの「オセロ」のような経歴の持ち主であった。
 この反乱軍には多くの士族部隊も合流、各地でシュイスキーの軍隊を連破してモスクワに攻めのぼった。
 その陣中には、「皇子ピョートル」を名のる新しい僭称者さえ、はいっていた。
 しかしけっきょくは士族部隊の寝返りによって、この農民戦争も敗北におわる(ポロトニコフは捕えられ、一六○七年秋、処刑された)。
 ところがそのころになって、第二の「偽ディミートリー」が登場する。
 この男の素性もやはり謎であるが、それがポーランドの傀儡(かいらい)であったことだけは確かである。
 一説によると、彼はかって偽ディミートリー一世の宮廷にいたボクダンコというもので、その人相は殺された偽ディミートリーとは似ても似つかないうえに、人いちばいの「臆病者」であったという。
 彼をかつぎだしたポーランド貴族たちは、さきに殺された偽ディミートリーは替え玉であり、じつはこっちが本物であるといっている。
 また奇怪にも偽ディミートリー一世の未亡人マリーナまでが、この男は殺されたはずの夫にまちがいないと証言するありさまである。
 ポーランド部隊にまもられた「偽ディミートリー二世」のもとには、シュイスキーに不満な大貴族や士族、農民戦争に敗れたコサック軍や農民が集まり、一六〇八年夏、、モスクワに攻めのぼって、包囲した。
 こうして、しばらくのあいだ、ロシアには二人のツァーリと二つの宮廷が対立することになる。
 僞ディミートリーの本営はモスクワにほど近いトウシノ村におかれたので、彼は「トウシノのツァーリ」もしくは「トクシノの賊」とよばれた。
 シュイスキーの政敵ロマノフ家は、一族をひきいてこれに加わり、その当主フィラレートは卜ウシノ総主教の地位をあたえられた。
 しかしこの奇妙な二重政権の均衡は、一六〇九年、シュイスキーがスエーデン王カール九世の援助をもとめたことによって破れる。
 これに対抗してポーランド王ジギスムント三世もロシアに大軍をおくり、もはや偽ディミートリーを手ぬるしとして見限り、かわりにポーランド王子ウラジスラフをロシアの帝位につけようとはかった。
 一六一〇年夏、シュイスキーの軍がポーランド軍に敗北すると、モスクワでは大貴族のクーデターがおこり、シュイスキーは廃されて「空位時代」がはじまる。
 モスクワはポーランド軍の占領下におかれた。「動乱」はいよいよそのクライマックスをむかえる。





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